前者について記述。
概要
1933年4月11日生まれ、香川県出身、右投げ右打ち、1952年に西鉄ライオンズ入団、1953年に2年目でトリプルスリーを記録、この際の高卒2年目本塁打36本は2019年に村上宗隆(東京ヤクルトスワローズ)に並ばれ、打点記録86は抜かれた。
私生活では三原脩監督の娘と結婚し婿入りしたため、本名は三原太となった。
「ピッチャーライナーがそのまま伸びて特大ホームラン」「三段目くらいの力士なら軽くあしらった」「ベンチ前で素振りをすると反対側まで音が聞こえた」といった怪力伝説に彩られており、80を超えた後も年齢を感じさせない素振りを披露していた。
ただし、この怪力とあまりに練習熱心であったことが腱鞘炎を悪化させてしまい、キャリア後半は大いに苦しんだ。
コーチとしては多くの名選手を育てた名伯楽としての名声をほしいままにしたが、温厚すぎる性格からくる優柔不断な言動のため監督としての評価は低い。
西鉄時代は、選手の管理が不十分で八百長の温床を作り、選手の不正行為を告発したコーチを左遷した結果、事態を悪化させて西鉄の暗黒期と以後40年近く続いたパ・リーグの不人気の元凶を招いた。
1974年には、日拓ホームフライヤーズ改め日本ハムファイターズの初代監督となった(義父の三原は日本ハム球団社長に就任)が、その傾向は変わらず、ピンチの時におどおどしてマネージャーにスコアを確認してもらいながら小窓からのぞいてしまったりしていたという。
阪神時代は江本孟紀のクレームに煮え切らない態度をとって激怒させたり、ピンチの時に指示を仰ごうとベンチを見やった時、おろおろしてダッグアウトから消えてしまう。動揺した江本は同点にされてしまい、挙句交代後興奮した状態で「ベンチがアホやから野球がでけへん」というプロ野球史上に残る暴言を吐き引退する羽目になった。
監督・コーチ歴
西鉄ライオンズ (1962 - 1969)
ヤクルトアトムズ (1971 - 1973)
日本ハムファイターズ (1974 - 1975)
阪神タイガース (1979 - 1981)
ヤクルトスワローズ (1983 - 1984)
近鉄バファローズ (1985 - 1990)
読売ジャイアンツ (1992)
千葉ロッテマリーンズ (1994)
オリックス・ブルーウェーブ (1995 - 1997)