概要
現在の「埼玉西武ライオンズ」の源流のプロ野球球団。
球団史
福岡の2球団合併、「神様仏様稲尾様」
1950年、経営が悪化していた西日本パイレーツを西鉄クリッパースが吸収する形で合併し、西鉄ライオンズが誕生した。当時の西鉄はパ・リーグ所属で西日本はセ・リーグ所属だったが、合併後はパ・リーグ所属となった。
オーナー企業は西日本鉄道(西鉄)、またパイレーツを保有していた西日本新聞も合併後に出資するようになった。本拠地はパイレーツの本拠地であった福岡県福岡市の平和台球場に移転した。
合併初年度の1951年に巨人から三原脩を迎え、また合併元のパイレーツから主力選手を獲得。3年後の1954年に南海ホークスとの激しい争いの末、パ・リーグ初優勝を決めた。
1956年に初の日本一。1957年も連覇し、さらに1958年は日本シリーズで稲尾和久が3連敗した後の4連投4連勝の獅子奮迅の活躍で日本一に導き、見事3連覇を達成。人々は「神様仏様稲尾様」と称えた。
この日本シリーズ3連覇は2020年に福岡ソフトバンクホークスがシリーズ4連覇を記録するまでパ・リーグチームとしての最多連覇記録だった。また後継球団は同様にシリーズ3連覇を2回も記録している。
その後も大下弘・中西太・豊田泰光・仰木彬・高倉照幸ら後に野武士軍団と呼ばれることになる名選手を擁した西鉄は常にAクラスを維持。1964年に一度Bクラスに転落した以外は安定した強さを誇った。
1963年には5度目の優勝を果たすが、日本シリーズでは巨人に敗れている。そしてこの年が西鉄にとって最後の優勝となった。
「黒い霧事件」発覚と球団経営撤退
1967年が西鉄最後のAクラス入り。以降、成績が低迷する。さらに1969年に永易将之が八百長行為を行ったとして球界を永久追放処分にされる。この事件が発端となり「黒い霧事件」に発展。この騒動は球界全体を巻き込み、西鉄は当時の若きエースだった池永正明を含む3人が1970年シーズン中に球界を永久追放される(池永は後に復権)。このことで戦力と球団人気の低下に歯止めがかからなくなり、西鉄は1972年シーズンをもって球団経営から撤退。「福岡野球株式会社」が成立しチームは存続、チーム名を太平洋クラブライオンズと改称した。
順位の推移
年 | 順位 | 監督 |
---|---|---|
1951年 | 2位 | 三原脩 |
1952年 | 3位 | 三原脩 |
1953年 | 4位 | 三原脩 |
1954年 | 1位 | 三原脩 |
1955年 | 2位 | 三原脩 |
1956年 | 1位 | 三原脩 |
1957年 | 1位 | 三原脩 |
1958年 | 1位 | 三原脩 |
1959年 | 4位 | 三原脩 |
1960年 | 3位 | 川崎徳次 |
1961年 | 3位 | 川崎徳次 |
1962年 | 3位 | 中西太 |
1963年 | 1位 | 中西太 |
1964年 | 5位 | 中西太 |
1965年 | 3位 | 中西太 |
1966年 | 2位 | 中西太 |
1967年 | 2位 | 中西太 |
1968年 | 5位 | 中西太 |
1969年 | 5位 | 中西太 |
1970年 | 6位 | 稲尾和久 |
1971年 | 6位 | 稲尾和久 |
1972年 | 6位 | 稲尾和久 |
※1956年までは8球団、1957年は7球団で、1958年以降は6球団。
その他
埼玉西武ライオンズの復刻イベント「ライオンズ・クラシック」において、2008年に黄金時代、2011年に初期のユニフォームが復刻された。
関連動画
西鉄ライオンズの歌
作詞:サトウハチロー
作曲:藤山一郎
西鉄ライオンズ初年度の1951年8月に発表され、1958年には、日本シリーズ3連覇を祝して当時の主力選手達がレコーディングを行い、2番では豊田泰光がソロで歌っている。
関連タグ
西鉄クリッパース⇒西鉄ライオンズ⇒太平洋クラブライオンズ⇒クラウンライターライオンズ⇒西武ライオンズ⇒埼玉西武ライオンズ
CHAGE - 福岡出身で、自身の楽曲「NとLの野球帽」はこの西鉄ライオンズと、自身の少年時代を歌ったもの。