概要
1937年6月10日生れ、大分県別府市出身、ポジションは投手、右投げ右打ち。
1956年、大分県立別府緑丘高等学校(現:大分県立芸術緑丘高等学校)から西鉄ライオンズに入団。
1年目に防御率1.06、21勝6敗を記録し、新人王と最優秀防御率賞を獲得、高卒1年目にして日本シリーズにも登板した。
1957年には20連勝を記録し、35勝を挙げ、1958年の読売ジャイアンツとの日本シリーズに逆転での日本一に貢献し彼の有名な「神様、仏様、稲尾様」という見出しが生まれた。
1961年には42勝14敗でこれはスタルヒンと並んで、シーズン勝利の日本タイ記録である(なおこの年の最下位の近鉄はシーズン36勝で、稲尾一人にも及ばなかった)。ただしスタルヒンの記録は達成当初は42勝だったが、1961年当時は記録やルールの解釈から40勝と減らされ、後に「やはり42勝である」と戻された。稲尾は「それがわかってたら43勝目を目指していた」と述べている。
同世代で全盛期が被っていた野村克也とは激しいライバル関係にあった。
当初はカーブが全く打てない野村をカモにしていたものの、野村が当時の日本野球界(アメリカでは常識)では前代未聞だった投球時のクセを読み取る作戦で球種を見破り、それに気付くとすぐさまクセを修正。野村も負けじと新たなクセを発見したり、スコアラーを活かした配給の読み取りで対抗するなと猛烈な争いを見せていた。
しかし、稲尾が最もライバル視していたのは異能の天才榎本喜八で、榎本を撃ち取るためだけにフォークを覚えたほど。
1964年以降はこれまでの鉄腕と呼ばれたほどの登板過多がたたって不調に陥る。1969年に引退を表明。通算防御率1.98は今もパシフィック・リーグレコードである。
引退直後に32歳の若さで西鉄の監督に就任、1974年まで務めた。
1975年からRKB毎日放送の解説者となり、1978年から1980年まで中日ドラゴンズの投手コーチを務めた。
1979年には日本航空棒球隊の総監督となる。
1984年に福岡移転を画策していたロッテオリオンズの監督に招聘される。
没後、2012年6月10日に生誕75周年を記念して西鉄の後身・埼玉西武ライオンズより稲尾の背番号『24』はチーム史上初の永久欠番に指定された。7月1日の対北海道日本ハムファイターズ戦(西武ドーム)にライオンズの監督・コーチ・選手全員は復刻版ユニフォームに稲尾の背番号『24』を背負ってプレーし、来賓として招かれた稲尾のチームメイト豊田泰光は試合前のスピーチで
「そこ(マウンド)に、稲尾がいると思うんですよ」
と、涙ながらに語っている。
愛称は「鉄腕」、「サイちゃん」(サイのように優しい目つきをしていたことから)。
成績のみならず人格面でも評価が高く、杉浦忠の温厚な語り口は、稲尾に触発されて始めたものだったという。
また、自分が投げた後のマウンドをきれいにならし、ロージンバッグを使いやすいところに置いておくなど、相手チームへの気配りも忘れなかった。杉浦もすぐにこれを真似たが、ピンチで焦っている時は忘れてしまうこともあった一方、稲尾は一度もマウンドを荒れた状態で渡すことがなかったという。