ロシア出身北海道育ちの野球選手。
本名はヴィクトル・コンスタンチーノヴィチ・スタルヒン。
略歴
1916年5月1日、ウラル地方(ロシア)のニジニ・タギルで誕生。父コンスタンチンはロマノフ朝の将校だった。
1925年、革命政府から迫害され、一家でシベリアを横断し、満州(現在の中国東北部。その際、母親は髪を短く切り、男装をしてまで乗り越えるほど厳しかったという)を経由して北海道に亡命。亡命者であるため生涯無国籍の「白系ロシア人」であった。旭川市立日章小学校へ入学。幼少期は外国人が珍しかったこともあってか、周囲からいじめに遭うこともあったが、成績優秀かつスポーツ万能で、高学年になると身体の大きさを買われ野球を始めるようになり、エースとして活躍する。
1932年、旧制旭川中学校(現在の北海道旭川東高等学校)に入学し野球部に入る。「しごき」とも取れる程に厳しい練習を乗り越えて成長した事は元より、持ち前の実力も大いに発揮して、ずば抜けた剛速球投手として鳴らした。全国中等学校優勝野球大会の北海道大会では2年連続(1933年、1934年)で決勝(1933年は対北海中学校《後の北海高等学校》、1934年は対札幌商業学校《後の北海学園札幌高等学校》)に進んだが、味方のエラー等により惜敗し、夏の甲子園にはあと一歩届かなかった。そしてその間に父親が経営する喫茶店「バイカル」の従業員とのトラブルの末、殺人事件を起こして服役(後に父親は懲役8年の獄中生活の最中に、病にて獄死)し、旧制中学の授業料や生活費を同級生や仲間達からのカンパで賄う事になる程、生活に困窮。「殺人犯の息子」というレッテルを貼られたものの、既に旭川中学校の投手として有名だったスタルヒン本人には同情がかなり集まった。
1934年、読売新聞は日米野球のためスタルヒンを退学させて「大日本東京野球倶楽部」に入団させようと目論む。スタルヒン自身は甲子園出場を目指していたが故に元より、抵抗する旭川中学校と旭川市民に対し正力松太郎は森伝と秋本元男、頭山満を送り込んで恫喝。スタルヒンには前述の父親の事件をも相俟って「家族全員ソ連へ強制送還する」と仄めかし、結局全日本軍への入団を迫ったため受け入れるしかなかった。因みに全日本軍に入団すべく、仲間や学校関係者には黙っての、家族で上京する際、乗車した汽車の汽笛がまるで「行くなぁ!!」と叫ぶ仲間達の声に聞こえたとスタルヒンは後年、述懐している。そして日米野球の第17戦に初登板し、3番手として1イニングを無安打無失点に抑える。しかし試合は既に趨勢が決まっていて、スタルヒンの制球の悪さに、米国チームが逃げ腰であった結果だった。
1935年、2月より結成した「大日本東京野球俱楽部」のアメリカ遠征に参加するが、無国籍だった為にビザが下りずにアメリカに入国できず、フランク・オドールらが奔走してようやくアメリカ入国が可能となった。また、日本の小学校に通学していた田舎者の少年であったスタルヒンは、水原茂と同部屋になった際、「先輩、アメリカって外国人ばかりですね」「外国人って全然、日本語喋らないんですね」と感想を漏らし、水原を呆れさせたという
1936年、「大日本東京野球倶楽部」の後身である「東京巨人軍」に入団。
1937年、持ち前の剛速球に加えて制球も身に着け、ノーヒットノーランを達成。沢村栄治に代わるエースに台頭した。
1939年、日本プロ野球最多タイ記録であるシーズン42勝を挙げる。(※1)
1940年、前年のノモンハン事件などで日本国民の反ソ感情が高まったため「須田博」への改名を余儀なくされた。
1941年12月8日、太平洋戦争が勃発。
1944年、プロ野球が休止され、スタルヒンは敵性国民として軽井沢に軟禁される。
1945年8月8日、ソ連が対日参戦。スタルヒンは追放処分と決まるが、8月15日に日本が無条件降伏。
1946年、日本プロ野球が再開。東京巨人軍時代に恩義があった藤本定義が監督を務めるパシフィック(その後、太陽ロビンス→大陽ロビンスと改名)に入団。この年、通算200勝を達成。
1948年、藤本が金星スターズ(この年、大映スターズに改名)の監督に就任するのに従って移籍。
1949年、27勝で最多勝利となるが、かつての球威はなく変化球主体のピッチングに変わっていた。
1954年、藤本から「高橋は契約金をくれる。もう長くは出来ないだろうから貰っておけ」という勧めで高橋ユニオンズ(翌年、トンボユニオンズに改名)に移籍。後にこの契約金を元手に美容院と薬局を経営している。
1955年7月30日、日本プロ野球史上初となる通算300勝を達成。(※2)試合後のインタビューでは「若林さん(若林忠志元阪神、毎日)も42までやったし、僕もまだ続けたいですね」と今後の意気込みを語ったが、同年に現役引退(実働19年で通算303勝176敗。防御率2.09。因みに1939年のシーズン勝利数の関係により、通算勝利数も暫くは「301勝」とカウントされていた)。通算83完封勝利は現在もNPB記録(2位は金田正一の82)。
1957年、自身が運転する自動車で、前の車を追い越そうとした矢先、当時地上に敷設されていた東急玉川線の路面電車に正面衝突して即死。享年40歳であった。(※3)
余談
彼の死後、改修された旭川市営野球場がスタルヒン球場と命名された。
更に花咲スポーツ公園硬式野球場に改称されたがスタルヒン球場の名は愛称として残った。
球場の正面には、振りかぶるスタルヒンの銅像が建てられている。
(※1)1939年の勝利数は42勝であるが、戦後パ・リーグ記録部長の山内以九士らが戦前のスコアブックの見直しを行った際に、明らかにスタルヒンに勝利が付かないケースとなる2試合分(何れも先発が中尾輝三《※後の中尾碩志。漫画「巨人の星」ではサングラスをかけた一軍ピッチングコーチとして知られ、また1970年のドラフト1位投手である湯口敏彦が鬱病に罹患するほど精神的に追い込んだ末、不可解な最期を遂げた「湯口事件」の当事者の一人としても有名》が好投でリードを維持したままスタルヒンにリリーフを送り、そのまま勝利した試合であり、現行のルールでは当然中尾が勝利投手となる)について記録の変更を行い、40勝とされた。戦前は勝利投手の認定に曖昧な部分があり、記録員の主観で判断されていた側面があったためである。
しかし、スタルヒン没後の1961年、稲尾和久がシーズン最多勝利でこのスタルヒンの記録を破る42勝を記録した事から、戦前のスコアの修正について再び議論が起き、最終的には1962年3月30日にコミッショナー裁定が出され「後から見ておかしなものであっても、当時の公式記録員の判断は尊重されるべき」という理由で元の42勝に戻された。その結果、稲尾の記録はスタルヒンと並ぶタイ記録となった。
尚、42勝のうち4勝は自らのサヨナラ安打によるものである。このシーズン4サヨナラ安打は1969年に東映フライヤーズの大杉勝男(後にヤクルトに移籍)が更新するまで30年にわたってプロ野球記録だった。11月9日、巨人が優勝を決めた試合もスタルヒンのサヨナラヒットでの勝利だった。
(※2)但し、前述の1961年に元の42勝に戻されるまでは1939年の記録がシーズン40勝扱いとなっていた為、この時は1955年9月4日の対大映戦(西京極)が史上初の通算300勝での勝利として認められていた。
(※3)但し、友人の証言によれば、スタルヒンは同窓会の会場と逆方向へ車を走らせている上、乗っていた同窓生を車から降ろし、電車で行く様に指示している等をしており、些か不可解な死として伝わっている。その直前には友人が経営するボウリング場の開場式典に出席、そこでは飲酒しており、泥酔状態ではなかったが飲酒運転だったという。
関連項目
日本の球場に名前が付けられた人物
真中満(真中満記念球場、栃木県大田原市)