プロフィール
経歴
岐阜県郡上郡(現郡上市)生まれ。岐阜大会で完全試合を達成、1970春夏の甲子園ではチームを5勝させた。
その実績が買われ、1970年読売ジャイアンツにドラフト1位で指名。
V9中であったためか1年目は2軍で育成され、5勝6敗防御率3点台とまずまずの数字を残すもノーコン気味だった。2年目も2軍で防御率7点台近くと振るわなかったのだがそれなりの改善点も見られていた、はずだったのだが…………………………。
「湯口事件」
2年目のシーズン終了後、慰労会と言う事で飲み会が行われ、湯口は痛飲していた。
だがその翌日のファン感謝デーで、いきなりマウンドに上げられる事に。当然そんな状態ではまともに球を投げられる訳もなく文字通りボコボコに打たれたのだが、その際に二軍監督から激しく叱責され、さらにその後寮に帰らず朝帰りしたせいで体罰を受ける結果に。
その事が直接のきっかけはわからないがこの辺りから明らかに言動がおかしくなり、うつ病と診断される。
ただでさえV9中の、天下の読売ジャイアンツの、ドラフト1位と言う事で彼へのプレッシャーがすさまじかった事は想像に難くない。(「巨人ってとこはナンバーワンでないと駄目ですね」と飲み屋の女将にこぼしていたと言う逸話もある)しかもこの時湯口と並んで高校生三羽烏と称された佐伯和司は広島東洋カープにて2年間に10勝を挙げ、もう一人の島内講平も南海ホークスにて1軍出場を果たしていた。
そういう訳でうつ病で入院した湯口であるが、翌年球団が強引に二軍キャンプに連れ出した結果症状が悪化。とてもキャンプに耐えられないと判断した球団により病院に戻されるが、3月22日わずか20歳でその生涯を終えた。死因については「心臓麻痺」とされ、警察の検死でも事件性・自殺の可能性は否定されたが、その急死に自殺説も取りざたされた。
大失言
この湯口事件は当然の如くマスコミの好餌となり、巨人軍は大バッシングを受ける事となった。そんな中、当時の監督はなんと
「巨人こそ大損害ですよ、せっかく大金を投じ年月をかけて育てて来たのに。女性を乗せての交通事故でなかっただけましです」
と発言。もちろん余計バッシングは悪化し、巨人のイメージは大幅に低下した。
その後
湯口選手の亡くなった1973年のドラフト会議にて、巨人は7人の選手を指名。
だが1位の選手を含め4人に入団拒否され、2位選手からは「悩んだんですが、湯口選手の件もありましたからね……」と言われてしまっている(ただしこの年1~3位で巨人が指名した選手は全てアマチュア志向が強かった事は留意しておかねばならない)。
関連タグ
黒い霧事件 ほぼ同じ時期に起きた球界を揺るがした大事件。