兵庫県川西市出身の元プロ野球選手(捕手)。1965年(昭和40年)8月6日生まれ。
現役から選手兼任監督時代までヤクルトスワローズ及び東京ヤクルトスワローズに所属。選手初期に野村克也の薫陶を受け、守備と打席の両方でチームの要として活躍した。
日本一のキャッチャーと賞賛される優秀な成績を持ちながら一貫してスワローズに在籍し続けたこと、それまで阪神タイガースとともに最下位争いが定位置だったスワローズを野村監督とともに日本一にまで導いたことからミスタースワローズの1人に挙げられる。
その名は名キャッチャー古田!
オッケーイ!な概要
プロ入り前
中学時代は実力を妬んだ上級生のいじめにより退部・転校しており、高校は県立川西明峰高校に進学。この頃兵庫県の高校野球のスターは名門・滝川高校の村田真一であり、古田は甲子園の出場経験も無く無名だった。
その後立命館大学に進学するが、野球推薦ではなく一般入試で入学した。少なくともこの頃までは野球エリートのコースを歩んでいるとは言い難かった。
大学時代は関西学生野球リーグに出場し頭角を表す。後に日米大学野球選手権大会にも日本代表として選抜された。なお、この時に古田が「体つきが全然違う」と語り身体能力がずば抜けていた選手が立教大学にいた。後にヤクルトでチームメイトとなり、あの長嶋茂雄の長男として知られていた長嶋一茂である。
屈辱のドラフト指名漏れ
大学野球有数の名捕手として名が知られていた古田だが、当然4年生の時に複数球団から指名の話があり日本ハムファイターズ(現・北海道日本ハムファイターズ)は指名を確約していた。しかし当時の日本の野球界には「眼鏡を掛けた捕手は大成しない」という迷信があり、各球団が古田の指名を避けてしまう。
学校側は記者会見用の雛壇を用意し、古田も家族や知人等に話をして誰しもが古田の指名を疑わなかった状況での球界の裏切りに、古田は勿論周囲の落胆は錚々たるものだった。
だが古田自身「これで反骨精神が芽生えた」と語るように、大学卒業後の1988年(昭和63年)にトヨタ自動車に入社し野球部に所属。但し野球に専念していた訳ではなく他の社員同様に通常業務も行なっていた。
同年8月にはソウルオリンピックに出場し、銀メダルを獲得。なおこの時バッテリーを組んだ投手には後に西武ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)で活躍する潮崎哲也と石井丈裕、近鉄バファローズ(現・オリックス・バファローズ)に入団し日本人メジャーリーガーのパイオニアとなる野茂英雄がいた。
プロ入り後
そして1990年(平成2年)にドラフト2位指名でヤクルトスワローズに入団する。
但しこの時師匠となる野村克也監督は前述の迷信を信じていた為古田の獲得に難色を示しており、当初の評価は「肩は一流、打撃は二流、リードは三流」だった。しかしキャンプで古田の実力を見た野村監督は考えを改め、野村イズムを古田に徹底的に叩き込む事になる。
プロ2年目の1991年(平成3年)には、打率3割4分で首位打者に輝く。1993年(平成5年)には未だ破られていない盗塁阻止率日本記録となる.644を達成。攻守共に欠かせない不動のレギュラーとして活躍した。
また労働組合日本プロ野球選手会会長を務め、2004年(平成16年)のプロ野球再編問題ではプロ野球史上初のストライキを行った。
2005年(平成17年)に2000本安打を達成。2006年(平成18年)選手兼監督として監督に就任。同年チーム名を東京ヤクルトスワローズに改称し、ファンサービスにも大きく力を注いだ。しかし監督1年目こそ3位と健闘したものの2年目の2007年(平成19年)にはチームは最下位に転落。責任をとり監督を辞任、同時に現役も引退した。
引退後
引退後は長らく解説者及び評論家として活動。輝かしい実績を残したレジェンドだが、未だに監督・コーチとしてはユニフォームに袖を通していない。これは解説者業の方が気楽で本人がそこまで監督やコーチ就任に乗り気ではない、兼任監督時代の不甲斐ない成績で指導者として向いてないと考えられている、選手会長として球団経営側と闘い、親会社との関係が悪化した等言われている。
真偽は不明だが親会社との関係は徐々に改善されているようで、OB戦をはじめとする球団主催のイベントに参加したり、後述の臨時コーチとしてキャンプに参加する等の活動も行っている。
現役時代にバッテリーを組んでいた後輩の高津臣吾が1軍監督に就任すると、2021年(令和3年)の春季キャンプに臨時コーチとして参加。久しぶりの「指導者・古田」の姿を披露した。臨時コーチ就任にあたっては、高津が非公式ではあるが直接古田にオファーしたと両者が語っている。
翌2022年(令和4年)も臨時コーチとして春季キャンプに参加。このシーズンより背番号を「27」に変更した中村悠平から背番号を継承したい旨の話があった事を明かしている。2023年(令和5年)も3年連続で臨時コーチとして参加。また2月17日からアリゾナ・ダイヤモンドバックスの臨時コーチを務めている。メジャーリーグ未経験者が臨時コーチに就任する事は異例だが、2023年時点でのダイヤモンドバックスの監督は2000年(平成12年)にヤクルトでプレーしたトーリ・ロブロであり、ロブロ監督からの依頼があった為である。因みに古田はブルペンで変化球のキレが今一つだった投手達やコーチ陣にアドバイスの為現役時代の潮崎がシンカーを投げる映像を見せたところ、メジャーリーガー達が驚きの声を挙げていた。
2024年(令和6年)も4年連続で春季キャンプに参加。不甲斐ない成績だった前年の雪辱を晴らすべく指導に励み、WBCで活躍した中村悠平には冗談混じりで「(背番号)27番返納しろ」とハッパをかけた。
また前年のアリゾナキャンプでのロブロ監督との約束を果たすべく、ヤクルトキャンプ参加後に再び渡米し2年連続でダイヤモンドバックスの臨時コーチを務めた。この時前年以上に選手達とコミュニケーションをとる姿がYouTubeで公開されているが、2年連続という事もあり顔馴染みになった選手が増えた事は勿論、ロブロ監督が古田の現役時代の実績を選手達に映像を交えて教えた事で、古田の実力がチーム内に知れ渡った事が大きいと古田は語っている。
選手達も事前学習をした事で質問しやすくなったようで、特に若手選手が積極的に古田に質問する姿が映されていた。
野村監督との師弟関係
野村との師弟コンビは有名であり、野村は監督時代古田をほとんど褒めることはなくむしろその強気な性格を買って叱られ役をやらせていた。しかし内心では非常に買っており、兼任監督が現代のプロ野球では非常に困難な役割である事に理解を示したり(野村自身南海ホークス<現・福岡ソフトバンクホークス>で兼任監督を務めた事があり、当時と現在では野球のスタイルが違う事を理由としていた。古田兼任監督誕生前の最後の兼任監督が野村)、晩年にも「あいつが監督をやらないなんてもったいない」と正統後継者とみなしていた節がある。また、テレビ番組での野村の生前最後の古田との対談では、古田に「声を大にして言いたいのはね、監督やれ!」と声をかけた。
背番号
背番号 | 使用年 | 所属チーム | 備考 |
---|---|---|---|
27 | 1990年〜2005年 | ヤクルトスワローズ | 選手 |
27 | 2006年〜2007年 | 東京ヤクルトスワローズ | 選手兼任監督 |
27 | 2023年〜 | アリゾナ・ダイヤモンドバックス | 臨時コーチ |
古田引退後、背番号「27」は球団又は古田が相応しいと推薦する選手が現れるまで準永久欠番として扱われていたが、前述の通り2022年シーズンから中村が継承している。
オッケーイ!な実力
プロ入り前から注目されていた類稀な肩の強さを活かし、シーズン盗塁阻止率.644、通算盗塁阻止率.462、入団から13年連続盗塁阻止率4割以上など盗塁阻止関連の捕手のNPB記録をほぼ総ナメにしている。
また、打撃面においても初年度こそ不安視されたものの、2年目からは才能が開花し、中日ドラゴンズの落合博満との争いを制して首位打者を獲得。以降はクリーンアップに加わる等打撃でも主力として活躍。
2003年6月28日に旧広島市民球場で行われた広島東洋カープ戦では、当時のNPBタイ記録となる4打席連続ホームラン(第2打席は四球)を達成した。
大卒・社会人経由での2000本安打達成は長いプロ野球の歴史の中で最初である。また捕手での2000本安打達成も今のところ野村克也、谷繁元信と古田の3人のみ(のちに阿部慎之助も達成しているが、当時は内野手登録だった)。
独自に編み出した打撃理論により特にインコース攻めに滅法強く、またデータ分析から「打席に入った時は相手にまずボールから入らせる」「マスクを被って強打者と対峙したらまず何とかして第1球ストライクを獲る」ことを心がけていたという。
さらに日本シリーズにも大変強く、5度出てそのリードと打撃で4度ヤクルトを日本一に導き、シリーズMVPも2度獲得している。
古田はやはり相手打者の虚をつくとされる天才的なリードが語られる捕手である。日本シリーズで対戦するパリーグの球団は「相手投手ではなく、古田との勝負」と言わしめるほどである。
もちろん打撃もよいことから当時それほど野球に詳しくない人でも、古田の名前と顔は知っているほどの知名度のある選手であった。
その飄々とした見た目からは想像できないほど負けず嫌いかつ強気な性格の持ち主であり、相手打者に対して遠慮のない内角攻めをするためか相手チームの怒りを買いやすく、中長距離タイプの捕手としてはかなり死球が多い。
なお、投手としての才能は捕手ほどなく、一度味方選手の治療による試合の合間に登板した時は打席に立ったスラィリーにカットされるなど、こちらはオッケーイ!ではない。
オッケーイ!なキャラ
名言「オッケーイ!」から始まり、「代打、オレ」など。
眼鏡を掛けた知的な見た目や、現役時代の頭脳的プレーから「冷静沈着な切れ者」と言ったイメージを抱きがちだが、実際の内面は関西人らしくかなり情熱的な性格。ネタキャラでもあり、熱狂的な解説もする。
近年はドラマにも度々出演しており、意外な演技派ぶりを見せている。
眼鏡をかけた理由は、乱視がひどく当時はコンタクトレンズが合わなかったため。その風貌からプロ入り当初は「のび太」と呼ばれ、マスコミにもそのニックネームでしばしば取り上げられた。(誕生日も古田8月6日、のび太8月7日と1日違い。)
実業家堀江貴文がホリエモンを名乗るきっかけを結果的であるが意図せず作っている。2004年のプロ野球再編問題で、古田会長(のび太)率いる選手会が読売ジャイアンツのオーナー・渡辺恒雄(ツネオ)らと対立している所へ、当時ライブドア社長であった堀江がドラえもんのごとく助け船を出したためである。