経歴
1968年11月25日生まれ、広島県出身。
ポジションは投手。サイドスローから放たれる鋭い変化のシンカーやカーブが武器。
広島工業高校・亜細亜大学を経て、1990年オフのドラフト会議にてヤクルトスワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)から3位指名され入団した。
入団当時は先発投手として期待されていたが、野村克也監督のもと1993年より本格的に救援投手を任され、持ち球として習得したシンカーを武器にクローザーとして一時代を築いた。最優秀救援投手のタイトルは1994年、1999年、2001年、2003年の4回獲得。
2003年シーズン終了後MLB挑戦を表明、2004年はシカゴ・ホワイトソックス、2005年途中以降はニューヨーク・メッツに在籍した。ホワイトソックス時代は通算27セーブを記録。
2006年シーズンより古巣・ヤクルトに復帰。2006年にNPB/MLB合計で通算300セーブを達成したが、翌年は怪我により戦線離脱となりオフに自由契約となった。
2008年シーズンは1月にシカゴ・カブスとマイナー契約を結ぶも、結果を残せず3月に戦力外通告を受けた。同年6月に韓国KBOリーグのウリ・ヒーローズ(現・ネクセンヒーローズ)でプレー。18試合に登板し1勝0敗8セーブ・防御率0.86だったが、球団の経営戦略の関係でオフに退団となった。
2009年はサンフランシスコ・ジャイアンツとマイナー契約を結び、7月から傘下の3Aフレズノ・グリズリーズに合流。
2010年は台湾CPBLの興農ブルズ(現・富邦ガーディアンズ)でプレー。40試合に登板し1勝2敗26セーブ・防御率1.88だったが、オフに退団。
その後日本へ戻り、独立リーグ・BCリーグの新潟アルビレックスBCへ入団。2012年シーズンは選手兼任監督として指揮を執った。同年現役引退。
野球解説者を経て2014年シーズンよりヤクルト球団に戻り、一軍投手コーチ・二軍監督を歴任。2019年シーズン終了後、リーグ最下位に終わった責任を取って辞任した小川淳司(現ヤクルトGM)の後任として一軍監督に就任した。
監督就任1年目は最下位だったが、2年目の2021年からは選手に無理をさせない高津流マネジメント(先発・中継ぎ投手の「ゆとりローテ」運用など)が功を奏してリーグ優勝連覇を達成。2021年の日本シリーズではオリックスを4勝2敗で破り、チームを20年ぶりの日本一に輝かせた。
人物
- NPBでは通算286セーブ、MLBでは通算27セーブを記録。名球会入りしている。
- 2022年に野球殿堂入り。日本の野球殿堂入りした選手としては、NPB・MLBだけでなくKBO・CPBLそして日本の独立リーグでもプレーした初の事例となった。
- 亜細亜大学の同期に小池秀郎がいた。小池投手は抽選によりロッテからの1位指名となったが入団拒否。彼はヤクルト入りを熱望していただけに、自身がドラフト指名を受けた際複雑な表情を浮かべていた。
- アフロヘアのカツラを被り、クリスタルキングのムッシュ吉崎の物真似で「大都会」を熱唱するという持ちネタがある。
背番号
背番号 | 使用年 | 所属チーム | 備考 |
---|---|---|---|
22 | 1991年〜2003年 | ヤクルトスワローズ | 選手 |
10 | 2004年〜2005年 | シカゴ・ホワイトソックス | 選手 |
10 | 2005年 | ニューヨーク・メッツ | 選手 |
11 | 2006年 | 東京ヤクルトスワローズ | 選手 |
22 | 2007年 | 東京ヤクルトスワローズ | 選手 |
33 | 2008年 | ウリ・ヒーローズ | 選手 |
22 | 2010年 | 興農ブルズ | 選手 |
22 | 2011年 | 新潟アルビレックスBC | 選手 |
22 | 2012年 | 新潟アルビレックスBC | 選手兼任監督 |
99 | 2014年〜2016年 | 東京ヤクルトスワローズ | 1軍投手コーチ |
99 | 2017年〜2019年 | 東京ヤクルトスワローズ | 2軍監督 |
22 | 2020年〜 | 東京ヤクルトスワローズ | 1軍監督 |
新潟アルビレックスBCでは、引退後背番号「22」は永久欠番に認定された。