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ヤクルトスワローズ

やくるとすわろーず

東京ヤクルトスワローズの1974年から2005年までの名称。
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東京ヤクルトスワローズ参照。

この記事では、1974年から2005年までのチームの歴史について記述する。

歴史

1970年代

荒川監督時代 ~とびだせヤクルトスワローズ~

1973年までは「ヤクルトアトムズ」というチーム名だったが、『鉄腕アトム』の版権を持っていた虫プロダクションが倒産したため、1965年以来8年ぶりに「スワローズ()」に戻った。
監督は名将三原脩に代わって、荒川博が打撃コーチから昇格した。

「ヤクルトスワローズ」初年度となる1974年は負け越したものの国鉄時代1961年以来13年ぶりのAクラスとなる3位。
オフには日本ハムファイターズから大杉勝男を獲得した。

1975年は4位。
続く1976年には荒川監督がシーズン途中で休養。広岡達朗が代行で指揮を執ったが、15年連続で負け越しとなる5位。

広岡監督時代 ~日本一の頂へ~

広岡が正式に監督に就任した1977年は、若松勉が首位打者を獲得するなど打撃陣が好調で2位。

そして1978年。大杉、若松、チャーリー・マニエルといった打撃陣やエース松岡弘安田猛鈴木康二朗といった投打の両輪が噛み合い、創設29年目にしてついに初優勝に輝く。
日本シリーズでは4年連続日本一を目指した阪急ブレーブスと対戦し、4勝3敗で日本一にも輝いた。

しかし、1979年はマニエルが広岡監督との確執で近鉄バファローズに移籍したことで得点力が落ちてしまう。
森昌彦ヘッドコーチが解任されたことに激怒した広岡はシーズン途中で辞任。
結局日本一から一転して最下位に沈むが、これは1961年大洋ホエールズ以来18年ぶりのことだった。

1980年代

武上監督時代 ~ケンカ四郎の挑戦~

1980年武上四郎が球団初の生え抜き監督となった。
しかし、優勝した広島に大きく離されて2位に終わる。

1981年はマニエルが復帰したものの衰えが隠せず4位に終わる。

1982年は借金30で最下位。ドラフトでは巨人との競合で荒木大輔を獲得する。

1983年も最下位。この年で大杉勝男が引退する。

1984年はシーズン途中に2度も監督が交代する。
武上が休養し中西太が代行となるも中西も休養。投手コーチだった土橋正幸がシーズン終了まで指揮を執り、翌シーズンより監督昇格。
2度の監督交代というゴタゴタがあったものの5位となり、どうにか最下位は免れた。(最下位は大洋)
ドラフトではこの年の目玉だった広澤克実(明治大学)を獲得する。

土橋監督時代 ~もがくツバメ~

「トラフィーバー」に沸いた1985年は早々と優勝戦線から脱落して最下位。
10月16日にはその阪神に目前で胴上げを見せ付けられるという屈辱を味わった。
この年を以って松岡と大矢明彦バッテリーが揃って引退した。

1986年は、大洋からレオン・リーを獲得するが、チームは春先から調子が上がらずまたも最下位。
土橋は2年連続最下位の責任を取り辞任した。

関根監督時代 ~黄金期の萌芽~

関根潤三が監督に就任した1987年は、現役メジャーリーガーのボブ・ホーナー
シーズン途中の加入ながら31本塁打と大爆発。その勢いに乗りチームは4位に浮上。
ドラフトでは大洋との競合で長嶋一茂を獲得する。

1988年伊東昭光救援だけで18勝を挙げて最多勝を獲得するも、5位に終わる。
この年は優勝した中日に目前で胴上げを許す。

1989年ラリー・パリッシュ本塁打王に輝くもAクラスに入れず4位に終わり、関根は監督を辞任した。
この年を以ってアトムズ時代からヤクルト一筋でプレーした若松が現役引退する。
監督は関根から野村克也に交代し、ドラフトでは1位で西村龍次、2位で古田敦也を獲得する。

結局1980年代は、優勝はおろかAクラスも1980年だけで、最下位が4度という低迷期に終わり、'78年V戦士も加齢により衰えた。
しかし、土橋・関根時代に入団した若手選手たちが徐々に力を付け、黄金の1990年代へと突入していく。

1990年代

野村監督時代 ~ID野球で黄金期到来~

野村監督1年目の1990年は5位。この年にぶっちぎりで優勝した巨人からは30ゲームも離された上に、またしても目前で胴上げを許した。

続く1991年は古田が首位打者・ゴールデングラブ賞・ベストナインを獲得し、正捕手の座を確固たるものとした。
また、広澤が打点王とベストナインを獲得。
前半戦は12連勝したこともあり2位で折り返す。後半戦は一時は4位まで落ちるも、巨人とのAクラス争いを制し1980年以来11年ぶりのAクラスとなる3位でシーズンを終えた。
この年を以って低迷期を支えた尾花高夫が引退した。

野村監督3年目のシーズンとなった1992年
この年のセ・リーグは史上稀に見る大混戦となったが、勝負の9月に阪神との首位攻防戦を制した勢いに乗って、14年ぶり2度目のリーグ優勝を成し遂げる。
リーグMVPは、本塁打王打点王の2冠に輝いた新外国人ジャック・ハウエルが選ばれた。
日本シリーズの相手は森祇晶監督の下で常勝軍団として君臨していた西武ライオンズだった。
下馬評では西武が優勝するという評論家が多かったが、ヤクルトは西武相手に一歩も退かない戦いぶりを見せる。
第1戦では延長12回裏にベテラン杉浦享がサヨナラ満塁ホームランを放ちまずヤクルトが先勝。
第2戦から3連敗し早くも後がなくなったが、ここからヤクルトが驚異的な粘りを見せる。
第5戦では延長10回表に池山隆寛が決勝の犠牲フライで勝利し、再び神宮に戻った第6戦では延長10回裏に秦真司がサヨナラホームランで3勝3敗のタイに戻す。
そして最終第7戦も3試合連続4度目の延長戦となったが、西武の秋山幸二に決勝の犠牲フライを打たれて力尽き、3勝4敗で日本シリーズ敗退となった。

続く1993年は、中日との優勝争いとなるが、後半戦で突き放し2年連続のリーグ優勝となった。
日本シリーズは再び西武との対決となる。
前年とは逆に第4戦までで3勝1敗と先に王手をかけるも第5戦から2連敗し、またしても3勝3敗になる。
そして、第7戦は初回に広沢が3ランホームランを放ち、その裏に清原和博に2ランホームランを打たれるも、リードを守り抜いて前年届かなかった15年ぶりの日本一の頂に上り詰める。
この年を以って、杉浦享と八重樫幸雄が現役引退し、ヤクルトアトムズ時代を知る選手はいなくなった。

1994年のセ・リーグも、1992年と同じく首位から最下位まで9ゲーム差となる大混戦だった。
リーグ3連覇を目指したヤクルトだったが、勝負どころで波に乗れなかった。
巨人が中日との優勝決定戦(10.8決戦)を制した翌日の10月9日のリーグ最終戦で、横浜ベイスターズとの逆天王山(負けた方が最下位)に臨むこととなった。どうにか横浜に勝って阪神と並ぶ同率4位でシーズンを終えた。
この年のオフに広沢(FA行使)とハウエルが共に巨人に移籍した。
ドラフトでは2位で宮本慎也、3位で稲葉篤紀を指名し、名球会打者を2人同時に獲得する大成功ドラフトとなった。
また、ヤクルト一筋でプレーした角富士夫が引退したことにより、'78年V戦士はすべていなくなった。

1995年は、広沢とハウエルを獲得した巨人が2年連続リーグ優勝するという戦前の評価だったが、蓋を開けるとヤクルトが2年ぶりに優勝を決めた。
阪神から移籍してきたトーマス・オマリーがセ・リーグMVPに選ばれ、またロッテから移籍してきたヘンスリー・ミューレンも恐怖の8番打者として恐れられた。
日本シリーズでは仰木彬監督率いるオリックス・ブルーウェーブと対戦し、4勝1敗で2年ぶりの日本一に返り咲いた。

1996年は巨人のメークドラマに沸いた中でまたも4位に終わる。

1997年は広島から移籍してきた小早川毅彦が巨人との開幕戦で斎藤雅樹から3打席連続ホームランを放つ大暴れを見せる。
その勢いのまま2年ぶりにリーグ優勝。新外国人のドゥエイン・ホージー松井秀喜を1本差で抑え本塁打王に輝いた。
日本シリーズは4年ぶりに西武(監督は東尾修)と対戦する。
先勝した第2戦ではホージーの珍プレーが飛び出すも延長で負けた。しかし負けたのはこの第2戦だけで、第3戦から3連勝して野村時代3度目の日本一を成し遂げる。

1998年は4位に終わり、この年限りで野村監督が退任し翌年から阪神の監督となる。
黄金時代と言うが結局、連続優勝したのは1992年と1993年だけであり、1993年からの6年間は日本一→4位を交互に繰り返した。
しかし、ヤクルト7度の優勝のうち4度(1992年を除く3度が日本一)がこの時代に集中しているので間違いなく黄金時代と言えよう。
野村の後任として若松勉が監督に就任した。

2000年代

若松監督時代 ~「野村の遺産」を受け継いで~

若松監督1年目の1999年は4位。新外国人のロベルト・ペタジーニが松井秀喜との本塁打王争いに勝利し、本塁打王となった。

2000年も4位でシーズンを終えた。

21世紀最初のプロ野球となった2001年は巨人との優勝争いを制し、4年ぶりにリーグ優勝を決めた。
この年のレギュラー野手陣はペタジーニが2度目の本塁打王に輝き、古田・宮本・稲葉に、新外国人のアレックス・ラミレスを加えた4人が後に2000本安打を達成する。
日本シリーズは、いてまえ打線パ・リーグを制した大阪近鉄バファローズと対戦。
タフィ・ローズ中村紀洋のW主砲を封じ込めて、4勝1敗で21世紀初代日本シリーズ王者となった。
なお、近鉄はこれが最後の日本シリーズ出場となり、結局一度も日本一になれないまま2004年限りで解散となった。

連覇の期待が懸かった2002年は巨人に及ばず2位。この年限りで池山隆寛が現役を引退。ペタジーニは巨人に移籍した。

2003年は阪神が18年ぶりに優勝を決めた陰で4位に終わる。ラミレスが本塁打王に輝いた。

2004年は中日に及ばず2位。

2005年は4位に終わり、若松監督はこの年限りで退任。
この年のオフに古田が1977年の野村克也(南海ホークス)以来29年ぶりの選手兼任監督に就任し、チーム名が「東京ヤクルトスワローズ」に変更されることとなった。

2006年以降の歴史は『東京ヤクルトスワローズ』の記事を参照。

主な選手

投手

高校時代は星野仙一の1年後輩にあたり、サンケイ時代からヤクルト一筋でプレー。
通算勝利数は191勝で200勝に惜しくも9勝届かなかった。





松岡の後を受けて背番号17を付け、1998年に最多勝を獲得する。








捕手







内野手











外野手






助っ人外国人


















「ヤクルトスワローズ」時代に入団した現役選手

※2017年終了時点。太字は現在もヤクルトに在籍している選手。

2001年の優勝を経験した最後の現役選手。

※2001年はルーキーだったが一軍未出場だった。(2004年に初出場)

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