ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

目次 [非表示]

経歴編集

1973年7月24日生まれ、大阪府大阪市淀川区出身。

ポジションは内野手

大阪府の渋谷高校から、1991年オフのドラフト会議にて近鉄バファローズから4位指名されてプロ入り。


近鉄→MLB→オリックス時代編集

近鉄バファローズ(大阪近鉄バファローズ)では入団1年目から1軍の試合に出場し、プロ初安打が本塁打と強烈な印象を植えつけた。3年目の1994年にはサイクル安打を達成し、この頃からレギュラー入りする。

1997年に本拠地が藤井寺球場から大阪ドームに移っても中村の勢いは全く衰えず、2000年には本塁打王と打点王を獲得。2001年にも打点王を獲得しチームはリーグ優勝を果たした。


2004年オフの近鉄球団合併・消滅に際し、ポスティングでロサンゼルス・ドジャース入りするも、2005年は成績が振るわず1年で帰国。


2006年には(合併球団の)オリックス・バファローズに入団し日本球界復帰を果たすが、両手首を痛める等して85試合の出場に留まり、その年のオフに球団との契約更改が決裂し自由契約となる。当初は12球団のいずれも獲得に後ろ向きで、誰もがここで彼のプロ野球人生は終わると予想していたが・・・


中日時代編集

しかし、野球の神様は彼を見捨てなかった。

2007年2月に中日ドラゴンズにテスト入団。3月に支配下選手入りするとレギュラーに返り咲き復活した上に日本シリーズでは4番を務め、なんとMVPまで獲得した。かつて近鉄時代に髪を茶色く染め、サングラス姿だった彼は中日に入団してからは坊主頭となり、まるで少年のような野球小僧であった。2008年もレギュラーとして24本塁打を打つなど活躍したが、2度目のFA権を行使し杜の都、東北楽天ゴールデンイーグルスへ移籍した。


楽天時代編集

2009年。しかしながら、中日時代にはあまり起きなかった怪我が再発しわずか本塁打2本、77試合出場にとどまった。2010年は前半こそ調子は良かったが後半になると守備にミスが目立ったり、打撃も振るわなくなり、10月に自身2度目の戦力外通告を受けた。しかし、彼はここで終わるような男ではなかった。


横浜→DeNA時代編集

楽天をクビになった後、バッティングセンターに通って自主トレーニングをしていたがシーズン開始までに声をかける球団はなかった。しかし、2011年5月に当時の横浜ベイスターズ(横浜DeNAベイスターズ)から声が掛かり、シーズン途中入団ながらも62試合に出場した。

2012年は主に3番サードとして、126試合に出場した。5月には中日の岩瀬仁紀から本塁打を放ち史上22人目の全球団からの本塁打を達成した。2013年も同じく122試合に出場し14本塁打をマークした。また、5月5日には史上43人目の日本通算2000本安打を達成した。

2014年は本塁打0に終わり、オフに自由契約となった。



現役引退後編集

DeNA退団により選手としては事実上引退となったが、2015年からは学生野球への指導を開始し、2017年から静岡県・浜松開誠館高校の硬式野球部の非常勤コーチをしていた。

2022・23年は立浪和義監督のもと中日ドラゴンズで打撃コーチをしていた。


余談編集

楽天在籍時の2010年に東京ドームで本塁打を打った後「うーんこの球場、最高や」というコメントを残したが、「うんこの球場」とも読み取れる為、ネットミームとして広まってしまった。


関連項目編集

プロ野球 プロ野球選手 引退したプロ野球選手一覧

外部リンク編集

中村紀洋 - Wikipedia

関連記事

親記事

引退したプロ野球選手一覧 いんたいしたぷろやきゅうせんしゅいちらん

兄弟記事

pixivに投稿されたイラスト pixivでイラストを見る

このタグがついたpixivの作品閲覧データ 総閲覧数: 57365

コメント

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました