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野村克也

のむらかつや

野村克也とは、日本の野球を変えた偉大なる月見草である。1935年6月29日生まれ。京都府出身。175cm85kg。
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長島が向日葵なら、オレはひっそり日本海に咲く月見草。」

キャリア

現役時代

1954年、現在の福岡ソフトバンクホークスにあたる南海ホークスに入団し、6月17日にプロデビュー。ポジションはキャッチャー
今でこそ名捕手として名前が挙げられる氏であるが、高校時代は無名であり、南海への入団も契約金ゼロのテスト生、それもキャンプイン前に入団辞退者が出たことによる補欠合格で、加えて当時南海の監督だった鶴岡一人に「カベ(ブルペンキャッチャー)にでもやらせておけ」と温情をかけてもらっての入団だったという。
入団当初は捕手としては致命的とも言えるの弱さが足を引っ張り、ファーストへのコンバートを言い渡される。
しかし、当時の南海には不動のファースト・飯田徳治が居たため、すさまじい努力の結果肩を強くすることに成功し、捕手に戻ることに成功した。
ちなみに、この時の野村は今の知将としての面影を感じさせないプレーが多く、当時のコーチから受けた指摘で「考えながら野球をすること」の重要性を思い知らされたと語っている。
また、後述するように打者としても偉大な記録を残している野村だが、入団当初は打者としてパッとせず、一度戦力外通告を受けている。しかし、他の捕手たちが怪我やトレードで次々と離脱して捕手が足りなくなったために残留となった。交渉の際に「ここでクビにされたら生きていけないから南海電鉄に飛び込んで自殺します」と懇願したとも語っている。
そんなこんなで南海に残ることが出来た野村は努力の甲斐あって入団3年目に正捕手の座を掴み、1965年には戦後初にしてキャッチャーでは世界初となる三冠王を獲得。名実ともに球界を代表する選手となった。

韋駄天・福本豊とクイック投法の誕生

大捕手として名を馳せ始めた頃、その後の野球そのものに多大な影響を与えるライバルと遭遇する。
韋駄天・福本豊である。
後に10年連続盗塁王・世界記録更新を果たす福本の盗塁技術は驚異的で、大捕手に分類される選手としてはあまり肩の強くなかった野村は、「後ろでボヤく」「足にぶつける」と言った奇策を実行するものの、前者は慣れられてしまい、後者は投手に怒鳴られてしまい、有効な手段にはなりえなかった。
しかし、野村は考え抜いた末にある「秘策」を思いつくに至る。
それが今なお盗塁への強力な切り札として使われている「クイックモーション投法」である。
当初は盗塁のタイミングをずらす事に成功したが、福本はその上を行く努力の果てにクイックすら見抜いてしまい、完全な切り札にはなりえなかった。
だが後に福本が「(クイックモーションを使う)投手たちはノムさんに特許料払わなアカン」と語るように、クイックがどれだけ強力な手段になったかを証明している。

投手分業制、「守護神」誕生の立役者。

また、阪神タイガースとのトレードで獲得した江夏豊「野球界に革命を起こそう」と口説き、リリーフ専任に転向させたことで、現在では当たり前となっている投手の分業制(先発・中継ぎ・抑え)を確立させた事でも野球界に革命を起こしている。
当時の日本球界では、投手は先発完投が大前提であり、リリーフの存在が軽視されていた。加えて、チームの勝利のためにその日好投した投手を連投させることも珍しくなく、総じて投手たちが非常に酷使されていた時代だった。
しかし、この野村の決断と江夏の活躍、そして以前より投手の分業制を提唱し実践していた近藤貞雄の存在によって球界全体でリリーフの重要性が見直されるようになり、完投は出来なくとも短いイニングならば全力投球できる投手や持久力の衰えたベテラン投手にも活躍できる機会が増え、試合中他のどのポジションよりも過酷な仕事を強いられる投手たちの負担を大きく軽減する成果を挙げている。
事実、後の時代にも佐々木主浩高津臣吾岩瀬仁紀などの最終回の登板でセーブを狙う「守護神」と呼ばれるクローザーが数多く名を残し、名球会の入会条件に「250セーブ」が加わるなど多くの影響を残している。

現役引退

1977年、当時まだ愛人関係だった沙知代(当時は伊東芳枝)の「チームや選手への口出し及び度重なる公私混同」が理由で南海の監督を解任される(野村は沙知代のチームへの干渉については否定している)。
南海を退団した翌年はロッテオリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)、1979年からは西武ライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)に籍を置き、1980年10月4日に現役を退いた。

通算出場試合3017試合、通算打席11970打席、通算打数10472打数。
現役通算657本塁打、1988打点。この本塁打記録は、あの王貞治に抜かれるまでは最高記録だった。意表を突いたところではホームスチール成功数が与那嶺要(11回)に次ぐ2位(7回)、生涯犠牲フライ本数は1位(113本)。
(太字で記した部分はNPB最高記録)
なお、現役時代は一度もノーヒットノーラン捕手になっていない。これもまた野村の緻密さであると言えよう。
1989年、野球殿堂入り。

ささやき戦術

野村の代表的な戦術として、打席に入ったバッターに対し余計な話をし、調子を狂わせる「ささやき戦術」が有名である。
最初は「次はぶつけるぞ」「今度こそ頭だ」などバッターを脅すような内容だったために相手チームの怒りを買った上に監督同士の会談にまで発展してしまい、それ以降はそのバッターの私生活などについてささやき、集中力を奪う方向にシフトしていった。
このささやき戦術は多くの選手には効果てきめんであり、中にはあまりものウザさに耳栓を用いたり、「うるさい!」と怒鳴り散らしたり、挙句の果てには空振りに見せかけて頭をバットでぶん殴ろうとした者まで現れるほどだった。

しかし、そんなささやき戦術が全く通じない選手達も居た。
王貞治は打席に入るまでは雑談に応じるが、打席に入れば集中して全く話を聞かなくなった長嶋茂雄に至っては話しかけても話の腰を折られまくり、これではダメだと考えて「フォームがおかしいんじゃないか?」と指摘したら「本当?」と真に受けて一旦打席を外してフォームを確認し、打席に戻った直後にホームランを打たれた上に、本塁生還時に「教えてくれてありがとう」と礼を言われる始末だった。
また、榎本喜八にはあまりものオーラに手を出せず高井保弘とはお互いにヤマの張り合いをした挙句、球種を読まれて打たれてしまったという。

なお、この戦術は後の愛弟子である古田敦也にも受け継がれ、広島東洋カープ達川光男なども実践していた。
また、MLBでは「トラッシュ・トーク」として知られており、最近の実践例ではコロラド・ロッキーズトニー・ウォルターズ大谷翔平に対して用い、見事に3打席凡退に抑え込んでいる。

名将への始まり

監督としてのキャリアスタートは意外に早く、1970年に在籍していた南海ホークスでプレイングマネージャー、つまり選手兼任という形でスタート。
弱体化していた南海を見事リーグ制覇まで導き、現在の知将としての片鱗を表している。
ちなみにこの時日本シリーズMVPに選ばれるも、巨人の優勝を許してしまい、あの「V9」達成を間近で目撃してしまっている。

「ID野球」の名将・野村克也

しかし、監督・野村克也を語る上で決して外せないのはヤクルトスワローズ(現東京ヤクルトスワローズ)時代であろう。
ご存知ID野球(IDとはImportantDateと言う造語)の登場である。
1990年にこのID野球を掲げてヤクルトの監督に就任。
自分のチームの選手のデータと相手チームのデータを細かく照らし合わせることで有効な戦術を導き出すと言う手法は、データの重要性を再確認させるに至り、現在の野球戦術の根底に根付いている。この「相手チームの情報収集と分析」は現役時代から実践しており、コーチやスコアラーと協力して得られたデータを打撃と配球の両面で生かすことで野村は打者としても捕手としても大成した。

また、このID野球以外にも野村再生工場と言う異名を持つ。
これは南海時代からあった異名で、野村が監督を務める球団にトレードや自由契約、戦力外通告で放出されてきた選手たちが、それまでの不振を払拭するほどの活躍を見せた事からその名がついた。
最近の例で言えば東北楽天ゴールデンイーグルス山崎武司。それまで典型的パワーヒッターだった山崎を、イメージを根底から覆す様な打者へ変貌を遂げたのは、野村の指導の賜物との声が多い。

月見草の名将、遂に去る時…

2009年日本ハムとのCSに敗退。楽天を日本シリーズに導く事無く勇退。
この時行われた楽天・日ハムの選手入り混じっての胴上げシーンに、多くのファンが涙した。

監督としての成績は通算24年、3204試合1565勝1563敗76引き分け。勝利数は歴代5位で、昭和生まれでは歴代最多である。
例によって太字部分は日本最高記録である。

関連タグ

プロ野球 捕手 監督 ノムさん
野村沙知代 カツノリ(野村克則)
1000勝監督

清原和博:現役時代、野村が残していったヘルメットを愛用していた。
星野仙一:「闘将」と呼ばれる名監督。阪神・楽天と野村の後を継いで監督に就任し、チームをリーグ優勝や日本一に導いており、野村本人も「不思議な巡り合わせだ」と振り返っており、楽天退任時には「星野を後継に」と推薦するほど手腕を評価していた。

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