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野村克也

のむらかつや

日本プロ野球で活躍した捕手。後に監督、解説者、評論家。自称「月見草」。
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概要

野村克也(1935年~2020年)
日本プロ野球で活躍した捕手。愛称「ノムさん」。
選手としては、三冠王、3000試合出場、通算本塁打数・通算安打数・通算打点数歴代2位、最優秀選手5回受賞などの記録を残した。

監督としては南海ホークスヤクルトスワローズ阪神タイガース東北楽天ゴールデンイーグルスで1565勝1563敗を記録。
社会人野球シダックス野球部監督、少年野球チーム港東ムース監督、日本体育大学客員教授なども務めた。
TBSテレビ朝日野球解説者を務めた。

長島が向日葵なら、オレはひっそり日本海に咲く月見草。」

生年月日1935年6月29日
没年月日2020年2月11日
出身地京都府京丹後市(旧・竹野郡網野町)
身長175cm
体重85kg

キャリア

プロ入り前

1935年6月29日、網野町(現在は京丹後市)に誕生。
1938年、父が日中戦争戦死し、母子家庭となる。母の病気もあり、家計を助けるため尋常小学校1年生の頃から新聞配達アイスキャンディー売りなどをした。極貧生活から脱却したかった野村は、戦後はプロ野球選手を夢見るようになる。
1951年、奨学金を得て京都府立峰山高等学校に入学し、野球部に入部。1年生の時からレギュラーの捕手のポジションを得た。
プロ野球のスカウトが来る事はあり得ない弱小野球部なので、部長の清水義一教諭が各球団の監督に手当たり次第に推薦状を送ったところ、南海ホークスの山本一人(後に鶴岡一人)監督だけが返事をくれた。

テスト生としての入団と成長

1954年、現在の福岡ソフトバンクホークスにあたる南海ホークスに入団し、6月17日にプロデビュー。ポジションはキャッチャー。右投右打。
今でこそ名捕手として名前が挙げられる氏であるが、高校時代は無名であり、南海への入団も契約金ゼロのテスト生、それもキャンプイン前に入団辞退者が出たことによる補欠合格で、加えて当時南海の監督だった鶴岡一人に「カベ(ブルペンキャッチャー)にでもやらせておけ」と温情をかけてもらっての入団だったという。
入団当初は捕手としては致命的とも言えるの弱さが足を引っ張り、ファーストへのコンバートを言い渡される。
しかし、当時の南海には不動のファースト・飯田徳治が居たため、すさまじい努力の結果肩を強くすることに成功し、捕手を続けることができた。
ちなみに、この時の野村は今の知将としての面影を感じさせないプレーが多く、当時のコーチから受けた指摘で「考えながら野球をすること」の重要性を思い知らされたと語っている。
また、後述するように打者としても偉大な記録を残している野村だが、入団当初は打者としてパッとせず、一度戦力外通告を受けている。しかし、他の捕手たちが怪我やトレードで次々と離脱して捕手が足りなくなったために残留となった。交渉の際に「ここでクビにされたら生きていけませんから南海電車に飛び込んで自殺します」と懇願(?)したとも語っている。
そんなこんなで南海に残ることが出来た野村は努力の甲斐あって入団3年目に正捕手の座を掴み、1965年には戦後初にしてキャッチャーでは世界初、2020年現在でも唯一となる三冠王を獲得。名実ともに球界を代表する選手となった。

プレイング・マネージャー

1970年、鶴岡一人の後任監督として野村が指名され、選手兼任監督という形で監督としてのキャリアもスタートさせることになった。
これは監督の契約金をケチるためだったと言われている。
ここから7年間、野村は正捕手兼4番打者兼監督というチームの大きな柱となってホークスを牽引し、チームを複数回Aクラスに、1973年にはリーグ優勝に導いている。同年の日本シリーズは敗退し、巨人V9を見届けた。

韋駄天・福本豊とクイック投法の誕生

野村が大捕手として名を馳せ始めた頃、その後の野球そのものに多大な影響を与えるライバルと遭遇する。
韋駄天・福本豊である。
後に10年連続盗塁王・世界記録更新を果たす福本の盗塁技術は驚異的で、大捕手に分類される選手としてはあまり肩の強くなかった野村は、「後ろでボヤく」「足にぶつける」といった奇策を実行するものの、前者は慣れられてしまい、後者は投手に怒鳴られてしまい、有効な手段にはなりえなかった。
しかし、野村は考え抜いた末にある「秘策」を思いつくに至る。
それが今なお盗塁への強力な切り札として使われている「クイックモーション投法」である。クイックモーション自体は当時既に存在していたが、野村はそれを更に発展させ、投球時に足をほとんど上げないすり足クイックを考案した。
当初は盗塁のタイミングをずらす事に成功したが、福本はその上を行く努力の果てにクイックすら見抜いてしまい、完全な切り札にはなりえなかった。加えて、野村はさらなる加齢で肩が衰えてしまったため、江本孟紀などは福本が出塁したときは監督でもあった野村の責任とならないようわざと進塁させることがあったという。
だが苦しめられた福本は引退後、「(クイックモーションを使う)投手たちはノムさんに特許料払わなアカン」と語ったように、野村式クイックがどれだけ強力な手段になったのかを証明している。

投手分業制、「守護神」誕生の立役者

クイックモーション考案の他にも、1976年に阪神タイガースとのトレードで獲得した江夏豊「野球界に革命を起こそう」と口説き、リリーフ専任に転向させたことで、現在では当たり前となっている投手の分業制(先発・中継ぎ・抑え)を確立させた事でも野球界に革命を起こしている。
当時の日本球界では、投手は先発完投が大前提であり、リリーフの存在が軽視されていた(リリーフされる事が「一軍投手にとっての恥」と見做されるような風潮が蔓延していた)。加えて、チームの勝利のためにエース級の投手を連投させることも珍しくなく(現在の目で見れば有り得ないように思えるが、当時は雨天中止で流れた試合数を補完する為に一日に二試合するダブルヘッダーが行なわれる事も度々あり、それが普通だと思われていた)、総じて投手たちが非常に酷使されていた時代だった。そのため、金田正一の通算400勝や江夏のシーズン401奪三振など、現在では実現など到底不可能な大記録が生まれた一方で、肩・肘の故障や血行障害の発症によって若くして選手生命を絶たれる投手が後を絶たなかった。
しかし、この野村の決断と江夏の活躍(投手としての成績に汚点が付く負けが決まった試合のリリーフにも応じていた)、そして自身が酷使の末に故障した経験から以前より投手の分業制を提唱し実践していた近藤貞雄の存在によって球界全体でリリーフの重要性が見直されるようになり、完投は出来なくとも短いイニングならば全力投球できる投手や持久力の衰えたベテラン投手にも活躍できる機会が増え、試合中他のどのポジションよりも過酷な仕事を強いられる投手たちの負担を大きく軽減する成果を挙げている。
投手の負担軽減だけではなく、「一試合に複数の投手を起用する」事が、打者に対して「投手の投球モーションや癖に慣れさせない」「連投による疲労の隙を突かせない」などの効果を持ち、勝つ為の戦略として有効である事を証明してみせた事も大きい。この辺りは捕手として打者に打たせない為に手を尽くした経験からきている物と思われる。
事実、後の時代にも佐々木主浩高津臣吾岩瀬仁紀などの最終回の登板でセーブを狙う「守護神」と呼ばれるクローザーが数多く名を残し、名球会の入会条件に「250セーブ」が加わるなど多くの影響を残している。

ささやき戦術

野村の代表的な戦術として、打席に入ったバッターに対し余計な話をし、調子を狂わせる「ささやき戦術」が有名である。この戦術も、他と同様既に存在していたものを独自に改良を加えて行ったものである。
最初は「次はぶつけるぞ」「今度こそ頭だ」などバッターを脅すような内容だったために相手チームの怒りを買った上に報復死球の餌食となり監督同士の会談にまで発展してしまい、それ以降はそのバッターの私生活などについてささやき、集中力を奪う方向にシフトしていった。
このささやき戦術は多くの選手には効果覿面であり、中にはあまりものウザさに耳栓を用いたり(白仁天)、「うるさい!」と怒鳴り散らしたり(大杉勝男)、挙句の果てには空振りに見せかけて頭をバットでぶん殴ろうとした者(張本勲。「アレの小ささを煽られた」ためで、頻繁にネタにされる)まで現れるほどだった。

しかし、そんなささやき戦術が全く通じない選手達も居た。

打席に入るまでは雑談に応じるが、打席に入れば集中して全く話を聞かなくなった
いつものように話しかけても話の腰を折られまくり、これではダメだと考えて「フォームがおかしいんじゃないか?」と指摘したら「本当?」と真に受けて一旦打席を外してフォームを確認し始めた。そこまでは良かったのだが、長嶋は打席に戻った直後にホームランを打った上に、本塁生還時に「教えてくれてありがとう」と礼を言ってくる始末。また、別の話では「次はストレート」とささやきつつスライダーを投げさせたところその球をスタンドに運ばれ、本塁生還時に「本当にストレート投げちゃダメだよ!」と逆に煽られたことも。
あまりものオーラに手を出せず
お互いにヤマの張り合いをした挙句、球種を読まれて打たれてしまった

なお、この戦術は後の愛弟子である古田敦也にも受け継がれ、広島東洋カープ達川光男なども実践していた。
また、MLBでは「トラッシュ・トーク」として知られており、最近の実践例ではコロラド・ロッキーズトニー・ウォルターズ大谷翔平に対して用い、見事に3打席凡退に抑え込んでいる。

失脚と現役引退

1977年、当時まだ愛人関係だった沙知代(当時は伊東芳枝)の「チームや選手への口出し及び度重なる公私混同」が理由で南海を退団させられる。野村は沙知代のチームへの干渉については否定していたが、数々の証言のほかに彼女のことについて異論を唱えた選手が軒並み冷遇・移籍に追い込まれる。後見人であり野村をかわいがっていたオーナーすらかばいきれないほどのものであったといい、最晩年に野村も認めるに至った。

南海を退団した翌年はロッテオリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)、1979年からは西武ライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)に籍を置き、1980年10月4日に現役を退いた。
現役引退を決意した理由は、ある試合で自分の代打として出場した選手が凡退した際に「ざまあみろ」と思ってしまい、既に現役選手としての自覚を失っているのに気づいたためと自身の著書で語っている。

通算出場試合3017試合、通算打席11970打席、通算打数10472打数。
現役通算2901安打、657本塁打、1988打点。意表を突いたところではホームスチール成功数が与那嶺要氏(11回)に次ぐ2位(7回)、生涯犠牲フライ本数は1位(113本)。
(太字で記した部分はNPB最高記録)
なお、現役時代は一度もノーヒットノーラン捕手になっていない。これもまた野村の緻密さであると言えよう。

ちなみに、通算併殺打数も歴代1位だったりする(378)。これはメジャーリーグでも2010年代になるまで破られなかった大記録であり、鈍足の右強打者の勲章ともいえる。

このように大記録を数多く遺した野村だが、現役当時は必ずしも第一人者とはなりえなかった。同世代にONがいたことだけではなく、野村は格下の投手に対して確実に打てる一方大舞台や一流投手には分が悪いという傾向が強かった。6度経験している日本シリーズの成績も打率.230、5本塁打と4番打者としては及第点を満たしているとは言い難いものだった。
これと対照的に日本シリーズに滅法強かった長嶋を引き合いによく鶴岡に叱責されており、このことが後年の長嶋・鶴岡両人に対する愛憎入り混じった感情を形成させる遠因ともなる。

1989年、野球殿堂入り。

「ID野球」の名将・野村克也

現役引退から10年後、1990年ヤクルトスワローズ(現東京ヤクルトスワローズ)の監督に就任した。
野村はID野球(IDとはImport Data、データを取り込むという意味)を掲げ、チームの改革に乗り出した。

彼我のデータを細かく照らし合わせることで有効な戦術を導き出すという手法はほかの球団でも行われていたが、野村のそれは緻密さにおいて一日の長があった。ヤクルト時代の成功によりデータの重要性を再確認させるに至り、現在の野球戦術の根底に根付いている。この「相手チームの情報収集と分析」は現役時代から実践しており、コーチやスコアラーと協力して得られたデータを打撃と配球の両面で生かすことで野村は打者としても捕手としても大成した。オールスターゲームでも全パの捕手という立場を利用して、他球団の投手のデータを収集していた(しかし、稲尾和久は野村の意図を見抜き、サイン通りに投げなかったという)。

また、このID野球以外にも野村再生工場という異名を持つ。
これは南海時代からあった異名で、野村が監督を務める球団にトレードや自由契約、戦力外通告で放出されてきた選手たちが、それまでの不振を払拭するほどの活躍を見せた事からその名がついた。
最近の例で言えば東北楽天ゴールデンイーグルス山崎武司。それまで典型的パワーヒッターだった山崎のイメージを根底から覆す様な打者へ変貌を遂げたのは、野村の指導の賜物との声が多い。

緻密なデータをベースにした野球を前面に押し出すことから、がちがちの管理野球と思われがちだが、実際に師事した選手たちからは確かにミーティングや指導にかける時間は長いものの、試合では思いのほか自由にやらせてくれる監督という評判を得ていた。

スワローズ時代は現役時代の自分と同じポジションの古田敦也と名師弟関係と言われた。古田の独特のプレイスタイルを矯正しようとはせず、「そんなやり方もあるのか」と認めたという。当時阪神タイガースと最下位争いが定位置だった同球団を優勝争いに加われる程にまで成長させた。1992年・1993年・1995年・1997年・にリーグ優勝、1992年を除いて日本一となる。特に1992年と1993年の日本シリーズは相手が共に西武ライオンズ、星取が共に4勝3敗、そして日本一は西武とヤクルトが1回ずつ分け合うというシリーズ屈指の名勝負として名高い。

その後も阪神タイガース社会人野球シダックス東北楽天ゴールデンイーグルスで監督を務めた。
阪神・楽天では共に南海やヤクルトより戦力が劣っていることもあり結果こそ残せなかったが、後に優勝(偶然にも、優勝に導いた監督は星野仙一である)や躍進のきっかけとなる戦力を見出すなど、チーム作りの点で評価されることがしばしばある(後任であった星野氏も野村氏が時間をかけてチームの戦力を育てた下地があったからこその成果だと述べている)。
シダックスでは現在では当たり前になっている「元プロ選手によるノンプロチームの指導」の先駆けとなり、チームを都市対抗野球大会準優勝に導いている。

ちなみに、野村自身が最も苦労したのは阪神時代であったようで、チームの再建が叶わなかったことへの後悔、球団側との確執などを著書に綴っている。

月見草の名将、遂に去る時……

2009年日本ハムとのCSに敗退。楽天を日本シリーズに導く事無く勇退。
この時、ヤクルト時代の教え子で、北の大スターとなった稲葉篤紀の発案で行われた楽天・日ハムの選手入り混じっての胴上げシーンに、多くのファンが涙した。

監督としての成績は通算24年、3204試合1565勝1563敗76引き分け。勝利数は歴代5位で、昭和生まれでは歴代最多である。
例によって太字部分は日本最高記録である。

晩年

監督引退後は解説者として活動。後述の「S☆1ボヤキ部屋」で姿を見せていたが、2017年に妻・沙知代と死別して以降は目に見えるほど気落ちし、しばしば「寂しい」と漏らしていた。さらに高齢のため一人で歩くのも難しくなるほど足腰が弱くなっていた。そんな中でもヤクルトスワローズ50年のイベントに顔を出し、足腰の弱さを古田、川崎憲次郎ら教え子に支えてもらって打席に立つという、90年代スワローズらしい明るさに変えるなど、悲しみを埋めるように仕事をしていた。

しかし、2020年2月11日世田谷区内の自宅にて入浴中に虚血性心不全を発症。その後、浴槽内で意識を失っているところを家政婦により発見されたが、搬送先の病院で死亡が確認された。
こうして日本野球史を変革させた月見草の名将は84年の生涯の幕を閉じたのであった。

1月に開かれた前年この世を去った金田正一のお別れ会に参列したのが最後の公の姿になり、野球界内外の衝撃は大きく、カツノリら遺族のみならず、かつてのチームメイトやONコンビ、江夏、江本、福本をはじめとする数多くの戦友や好敵手、古田、高津、稲葉、山崎や田中将大をはじめとする教え子たち、野村が指揮を執った球団のファンや球団関係者などがその突然すぎる死を悼んだ。

エピソード

ホークスとの関係

先述の通り、選手兼任監督の解任劇もあって「ホークスOB」として紹介されることがごく僅かどころか無かったことにされていることが多かった。
一例としてなんばパークス内にある「南海ホークスメモリアルギャラリー」ではオープンから長らくの間野村の紹介が省かれていた。
(これは沙知代夫人による「名前や写真の掲載を一切拒否する」という意向があった為でもある)

野村自身もホークスに対して愛憎入り混じった複雑な感情を抱いていたようで、2018年2月に行われたジャイアンツ・ホークスのOB戦で南海のユニフォームに袖を通した時は「このユニホームは大嫌い。これにお世話になって、これに裏切られて。感謝と憎しみが五分五分」と語っている。一方で、晩年には球団創設記念のセレモニーやイベントなどにも度々出演、2019年の日本シリーズでソフトバンクが4連勝で巨人を下した際は現地で観戦しており、「OBだから嬉しい」とコメントも残していた。

ホークス側はというと、2013年に野村をホークス75周年記念式典に招待したのを皮切りに野村をOBとして扱うことが増えていった。OB戦への監督としての参加や引退後初となるホークスのキャンプ視察、更にはホークス現役正捕手である甲斐拓也(ちなみに甲斐は野村と同じ母子家庭育ちで、野村の著書を読み漁っていたという)に大先輩として薫陶を授け、自らの背番号「19」を推薦するなど、レジェンドOBとして活動していた。
なんばパークスについても、2021年に江本が発起人となり、メモリアルギャラリーで野村の遺品が展示される運びとなった。

メディアに対するスタンス

野村の現役時代、パ・リーグ不人気の真っ只中にあったため、いくら好成績を残してもメディアに一切取り上げられず、悔しい思いをしていたという。
冒頭の「月見草」も、メディアの注目を一手に集める王・長嶋と、メディアから見向きもされない自身とを比較してぼやいたものである。
そのため、ヤクルトの監督就任以降はメディアとの関係構築に尽力していた。曰く「マスコミを味方につけるのも監督の仕事」。

ヤクルト監督時代は選手達を積極的にテレビ出演させていた。これは選手達に「注目を集める立場」という意識を持たせる意味合いもあった。
野村自身もキャンプ中にダンスや歌を披露したこともあり、また『関口宏の東京フレンドパークII』にヤクルト選手が出演した際、一緒に登場したつば九郎の中に紛れて登場したことがある

そしてこれが下記「ボヤキ」の原点となる。

ボヤキ

楽天監督時代、試合終了後のいわゆる「囲み取材」にて内容や選手に対するボヤキを始めとしたコメントが一躍注目を集め、一種の名物となっていた。
監督退任後も野村のコメントが「ボヤキ」として紹介されるなど、晩年の野村を象徴する言葉となっていた。
TBS「S☆1」では『ボヤキ部屋』と題して、「例の場所を忠実に再現」したセットでプロ野球の様々な話題についてボヤくというコーナーも務めていた。

その他

野村が名将であることに間違いはないが、フロントやOBとの確執が絶えず、シダックスを除いて自らの意志で監督を退任したことがない
南海時代の不倫の末の追放もさることながら、阪神時代には3年連続最下位になり4年目の準備をしている最中に妻の脱税発覚・逮捕によるイメージ悪化で強制的に解任させられるという憂き目を見た。これにより阪神ファンを中心に不興を買い、次の星野政権が大成功したこともあって「チームを私物化しようとした悪徳監督」のイメージがついたこともあった(そのような評価を下した当時のブログ記事が現在でも残っている)。
楽天の監督を引き受けた理由の1つが「(新設球団のため)口出ししてくるOBがいなかったから」という辺り相当なものがあったと推察される。その楽天も任期満了という形での退任であり、自らの意志ではない。

野村語録

冒頭の「月見草」の他に、インタビューや著書等を通じて多くの語録を残している。

  • 「生涯一捕手」
野村が南海を追われた時に掲げた座右の銘。あくまで現役に拘り、残り3年間を選手専任で過ごした。

  • 「無視、賞賛、非難」
三流は無視することで這い上がる機会を作る、二流は称賛することで調子に乗らせる、一流は非難することで更なる向上を求める。部下との接し方についての格言。

  • 「失敗と書いて『せいちょう』と読む」
失敗すれば、なぜ失敗したかを考える。この過程で人間は成長する。

  • 「心が変われば運命が変わる」
意識が変われば運命すら変わってしまう。心構えの重要さを説いた言葉。元々は非常に長い言葉だが途中割愛。

  • 「野球人たる前に社会人たれ」
技量はよくても普段の振る舞いが伴っていなければ成功しないという意味。同時に、野球人生よりもそれ以外の人生の方が長いため、野球ばかりに夢中になることへの戒めの意味もあり、いわゆるセカンドキャリア問題にも通じる。

  • 「マー君、神の子、不思議な子」
独特のオーラを放つ愛弟子・田中将大についての評価。

なお、有名な「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」は元々野村の言葉ではなく江戸時代の武士・松浦静山の書物からの引用である。
また、「財を遺すは下、仕事を遺すは中、人を遺すは上なり」も後藤新平の言葉である。

関連タグ

プロ野球 捕手 監督 ノムさん
野村沙知代 カツノリ(野村克則)
南海ホークス ロッテオリオンズ 西武ライオンズ
ヤクルトスワローズ 阪神タイガース 東北楽天ゴールデンイーグルス

1000勝監督
2000本安打 名球会

清原和博:現役時代、野村が残していったヘルメットを愛用していた。
星野仙一:「闘将」と呼ばれる名監督。阪神・楽天と野村の後を継いで監督に就任し、チームをリーグ優勝や日本一に導いており、野村本人も「不思議な巡り合わせだ」と振り返っており、星野本人も「ワシはノムさんのいいトコ取りじゃ」と自虐的に語った。楽天退任時には「星野を後継に」と推薦するほど手腕を評価していた。
甲斐拓也:先述の通り、野村の意向によって2020年にホークスの捕手としては野村以来となる背番号「19」をつけることになった選手。
水島新司:親交が深かった漫画家にしてホークスファン。代表作『あぶさん』の主人公・景浦安武の入団時の監督が野村であり、野村の元へ入団交渉(という名の設定の打ち合わせ)を行ったことでも知られる。また、映画『野球狂の詩』にも野村を本人役で出演させている。

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