概要
この城は平戸島北部にある城であり、三方を海に囲まれた平山城である。また別名を亀岡城、亀甲城、とも言う。またこの城は日本100名城のひとつである。
作り
この城は丘のてっぺんに本丸が築かれ、その南側に二の丸、東側に三の丸が配された梯郭式の平山城である、平城である赤穂城(元禄赤穂事件で有名な浅野氏の居城だった城、なぜかこの城は乱心に縁が深い気がする)と並び平山城では唯一の山鹿流による城郭であるとされる。
なお建築当初から天守は存在せず、二の丸に建てられた3重3階の乾櫓をその代わりとした(山鹿流軍学の作法かもしれない)。
歴史
この城は慶長4年、松浦氏(嵯峨源氏、渡辺綱の流れをくむ一族、肥前にて水軍を率いていた一族)によって築城され、当初は日之嶽城と言われていた。
しかしこの城は江戸時代になり豊臣と懇意であったこと(松浦氏は豊臣秀吉による九州平定に加わり松浦郡と壱岐の所領を安堵された経緯がある)が原因でその嫌疑を晴らすため、あるいは妻子の死亡により完成間近に火を放って焼却したとされている。
なお、松浦氏は城跡の海を隔てた北側に邸宅を建築しそこを平戸藩の藩庁とした(その敷地は明治時代に松浦氏の私邸が築かれ、戦後平戸市に寄付され松浦史料博物館となっている)。
後に隠居済みの4代藩主の申請により元禄15年、平戸城として再度築城される。これは東シナ海の警護の必要性があったこと、さらには徳川家と姻戚関係にあったことがあげられ、平和となった江戸時代中期に新たな築城が幕府に許可されるということは稀であった。
建築の際、城の建築法としては珍しい山鹿流で建てられているのが特徴であり、これは4代藩主であった松浦鎮信(隠居後初代と同じ名前を名乗った)が山鹿流軍学の祖である山鹿素行と親しかったためであり、その軍学に法った強固な縄張りを持っていた。
なお、松浦氏は廃藩置県までこの地を治めた。
明治以降
明治時代、この城は廃城とされたため、建物はほとんどが破却され、狸櫓と北虎口門のみが残された。
現在は(存在しなかったにもかかわらず)模擬天守が建設され、内部は資料館となり、いくつかの櫓が再建されている。
また敷地には神社(亀岡神社、もとは藩主の祖霊を祭った霊椿山神社であり、明治時代の神社合祀により七郎、乙宮、八幡の各神社と合祀され、現場所に移転されたものである)や公園が存在する。
狸蔵の伝説
破却の際残された狸櫓であるが、このような伝承が残されている。
この城の多門櫓の床下にはいつからか狸が住み着いていた。しかし櫓の補修のため床下をはがしたところその夜、小姓に化けた狸が城主の元に現れたという。
「どうか私たちをあの櫓に住まわせてください。そうすれば我々は永代に渡りこの城をお守りいたしましょう」
これを城主が快く聞き入れ、以降この城の多門櫓は「狸櫓」と呼ばれている。
関連タグ
吉田松陰…山鹿流軍学を学びに訪れた。
心形刀流…9代藩主、松浦清(静山)は心形刀流の皆伝者だった。「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」という野村克也監督の言葉は、松浦静山の著書が元ネタ。