概要
(1925年10月2日 - 2006年1月2日)。愛知県岡崎市出身。
1943年に西鉄軍に入団。1944年に黒沢俊夫らとともに巨人に移籍した。
終戦後、1946年に巨人に復帰すると、大車輪の活躍で23勝(リーグ4位)防御率2.18(同2位)をあげる。
1948年、中日に移籍。1950年に10勝を挙げるもそれ以外の年はいまいち成績を残せなかった。
1954年チームがリーグ優勝・日本一を果たすが、近藤は同年限りで引退した。
引退後
監督・コーチ歴
中日ドラゴンズ (1955 - 1962, 1964 - 1968)投手コーチ
ロッテオリオンズ (1969 - 1971)投手コーチ
中日ドラゴンズ (1972 - 1976, 1981 - 1983)81年から監督
横浜大洋ホエールズ (1985 - 1986)監督
日本ハムファイターズ (1989 - 1991)監督
を歴任した。1982年にはリーグ優勝を果たした(もちろん燃えよドラゴンズ!の歌詞にもなった)。
第一次中日コーチ時代には登板過多に陥った権藤博の反省からか投手分業制を提唱し、現在の球界に定着させている。ロッテでは村田兆治を開花させた。また星野仙一とは不仲であったと言う話もあるが、退場の多さはどっこいどっこいだった。
1992年から2006年までは、CBCテレビ・CBCラジオの野球解説者・中日スポーツ野球評論家を務める。
1999年野球殿堂入りを果たす。
2006年1月2日午前9時22分、近藤は都内の病院で呼吸不全のため死去した。80歳没。