経歴
明治大学から、1969年中日ドラゴンズに入団。
中日にドラフトで1位に指名される直前、巨人は神奈川・武相高校の島野修投手を一位指名。このとき、巨人に1位指名されると思っていた星野は「巨人は島と星をまちがえたんじゃんないか」と叫んだという。
また、明大時代は田淵幸一・山本浩二・冨田勝のいわゆる「法大三羽烏」とライバルであると同時に無二の親友関係を築いた。特に球界の首脳とも言える立場となった後も引退後に球界から身を引いた冨田以外の3人の関係は良くも悪くも後年の球界に影響を与えている他、田淵は阪神、楽天で副官的なコーチとして星野を支えていた。またコーチ人事としては島野育夫を自らの右腕として重用。島野が2007年に亡くなった際も、星野は「寿命を縮めてしまった」と悔いる発言をしている。
1981年、いわゆる「宇野ヘディング事件」が起きる。この年の8月26日、先発した星野は巨人打線を見事無得点に抑えていたが、7回裏2死一塁、巨人の代打・山本功児がショートフライを打ち上げ、巨人の攻撃が終わったと思いきや事件が起こった。あろうことか中日のショート・宇野勝が側頭部に打球を当てボールは左中間を転々、レフトは慌ててバックホームをしたが間に合わず巨人に1点を献上することとなり、くやしがる星野はグローブをグラウンドに投げつけることとなった。なお、この珍プレーは長く野球ファンに語り継がれ、珍プレー特集では必ずと言っていいほど長く放映されている。
1982年に現役を引退。通算500試合登板、146勝121敗34セーブ。なお、1974年には20年ぶりのリーグ優勝に貢献すると共に、制定されたばかりのセ・リーグの初代最多セーブ投手と同時に沢村賞も獲得した経験を持つ。
1987~91、1996~2001年には中日ドラゴンズの監督を務め、1988、1999年にはセ・リーグ優勝。
2002~03年には阪神タイガースの監督を務め、2年目の2003年にセ・リーグ優勝を果たす。翌04年には阪神タイガースのシニアディレクターに就任。
2008年には北京オリンピック野球日本代表の監督に就任するも、オリンピック本選では期待されたメダルを獲得できず、第4位という結果に終わる。
2010年オフにはタイガースを退団し、東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任することが発表された。3年目の2013年にパ・リーグ優勝。球団そのものとしても東北に本拠を置く球団としても史上初の優勝であり、星野自身はプロ野球史上3人目(※1)の異なる3球団で優勝、また史上6人目(※2)のセ・パ両リーグでの優勝を達成した監督となった。そして1980・1990・2000・2010の4つの年代でリーグ優勝を達成した唯一の監督にもなった。その後クライマックスシリーズを経て日本シリーズも制し、星野自身も選手・監督時代を通じて初の日本一を達成した。
2014年、難病である黄色靭帯骨化症と診断され休養を挟んで復帰したが、最下位に沈み、監督を辞任した。
その後は取締役球団副会長として現場指揮を取っていたが、今度はすい臓がんに侵される。2017年に野球殿堂入りを果たし、その年のオフに盟友の田淵や山本、教え子たちを招いた祝賀会を行うも年末に容態が急変し2018年1月4日死去。享年72(70歳没)。
中日、阪神、楽天の3球団は名選手にして名監督であった星野を偲んで献花台を設置し、追悼試合が行われた。また後に楽天はチーム初の日本一へと導いた功績を讃え、監督時代に長らく背負い続けた背番号「77」を永久欠番とすることを発表した。
背番号
背番号 | 使用年 | 所属チーム | 備考 |
---|---|---|---|
22 | 1969年〜1970年 | 中日ドラゴンズ | 選手 |
20 | 1971年〜1980年 | 中日ドラゴンズ | 選手 |
20 | 1981年〜1982年 | 中日ドラゴンズ | 選手兼投手コーチ補佐 |
77 | 1987年〜1991年 | 中日ドラゴンズ | 1軍監督 |
77 | 1996年〜2001年 | 中日ドラゴンズ | 1軍監督 |
77 | 2002年〜2003年 | 阪神タイガース | 1軍監督 |
77 | 2007年〜2008年 | 北京オリンピック日本代表 | 監督 |
77 | 2011年〜2014年 | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 1軍監督 |
前述の通り楽天の「77」は永久欠番
人物
普段は穏やかだが、野球のことになれば『燃える男』『闘将』の異名で有名な激情家の素顔を露わにする。その並々ならぬ気迫と闘志ゆえに「愛のムチ」という名の鉄拳制裁を働く事も度々で、所属選手には流血や顔面が腫れ上がるほどの過激な暴力を振るう事もあった。中日時代の中村武志は星野から日常的に殴打を受けていたという。その強面ぶりから審判にすら怖れられた。
このことから、野球界に残る悪しき精神主義、前時代的精神の象徴として語られ、野球のイメージを損なう存在として嫌われることも多い。「覚悟しておけ」(1986年オフの第1次中日監督就任時※)といったともすれば失言癖もあり、手放しで評価できる人物だったとは言い難い面がある。
(※但し、この発言に至る過程としてこの年のドラゴンズは2年連続でリーグ5位かつシーズン中に監督が山内一弘から高木守道に途中交代している等の事情もあった。)
ただし、星野が現役~監督初就任直後のプロ野球は他も似たような環境だったとされ、またその気迫が選手たちに伝播すると強烈な爆発力を生み、チームをリーグ優勝へと牽引する原動力ともなっていた。星野監督時代を経験した選手の間では確かに厳しいところがあったことを認めつつも基本的には色々気にかけてくれる優しい監督であったと語っており、また、勝った時には選手たちのおかげだと感謝が言える、監督と選手の上下関係が厳しかった当時としては珍しい監督だったという証言もある。選手やファンへのカリスマ性はこういった部分に起因していると言えよう。
また、珍プレー好プレーなどの野球のバラエティ番組での乱闘や審判への猛抗議などの「怒」部門で必ず星野の映像が流れたり、ファンからベンチ入り選手が乱闘要員扱いされたことから『星野』=『乱闘』というイメージがあるが、意外にも現役時代は審判に激しく詰め寄ることはあっても1度も退場を喰らったことがない。
加えてグラウンド外では稀代の人たらし、特にジジ転がしとマスコミの手なずけにかけては天才的であったといい、球界で長きにわたって成功した理由は選手や指揮官としての実績だけではなく、豊かな人脈にもあった。
指揮を取った球団すべてでリーグ優勝を経験しており、リーグ戦での強さの一方で日本シリーズでの優勝は2013年の1回だけで、北京オリンピックでメダルなしに終わったことなどもあり「短期決戦に弱い監督」の代名詞としても語られる。また、使えると思った選手はとことんまで使い潰す傾向にあり、近藤真一や与田剛などの選手生命を縮めてしまったとして批判されることがある。
いわゆる情実采配をしてしまう癖があり、目をかけた選手は不振に陥っても辛抱強く使い続け、そのおかげで成長をした選手も多いが、調子の良い選手を使い続けるのが定石とされる短期戦ですらミスをした選手に汚名返上の機会を与えようと情実に基づいた采配をしてしまい、足元をすくわれることがしばしばあった。
選手としては気迫を前面に押し出した投球が特徴であったが、実際の星野はイメージと異なり繊細なところがあり、また闘将のイメージを持っているファンの期待に応えなければならないという使命感から交代を希望してもわざとグラブを投げ捨てて悔しがる、といったパフォーマンスを行うこともあったという。
阪神監督時代の2003年には18年ぶりのリ-グ優勝が現実味を帯びてきた7月後半からプレッシャーで何度もベンチ裏で倒れていたこともあったという。
巨人キラー
星野が打倒巨人のスタンスを掲げだしたのはなんと大学4年生時のドラフトの頃からである。冒頭の「ホシとシマの間違い」の詳細な経緯になるが、星野は巨人から「田淵を1位指名できなかった場合に外れ1位として指名する」という約束が事前にあったが、巨人は高校生投手の島野修(のちに阪急ブレーブスのマスコットであるブレービーやオリックス・ブルーウェーブのマスコット、ネッピーのスーツアクターとなる)を1位指名。それを知った星野は「ホシとシマの間違いやろ」と言ったという。この出来事が、現役時代から指導者時代に至るまで一貫する打倒巨人のスタンスを形成させたといわれる。通算成績でも、長嶋茂雄・王貞治らが活躍したV9時代を含む巨人を相手に、35勝31敗と勝ち越しを記録。巨人キラーとしてその名を轟かせた。対巨人戦30勝以上を記録する投手の中で勝ち越しているのは平松政次、川口和久と星野のみ。その中の最高勝率は星野である。星野本人は「野球中継は当時巨人戦が多く、当時の巨人ホームゲームの試合開始時間が18時20分で、地元の岡山県での放送は20時頃に中継が始まるので、その間に監督から投手交代を告げられないように投げていた。家族や友達に自分が投げていることを見せたかった」と語ったことがある。
なお巨人が星野のドラフト1位指名を回避した理由は、星野が肩を壊しているという情報を入手したためであった(実際に肩を痛めたことがあったという)。そのことを現役引退後に川上哲治から告げられ、それ以降は巨人に対するわだかまりが消えたと自著に記している。
阪神キラー
巨人キラーの代名詞として知られているが、同時に阪神キラーでもあり、対巨人戦を上回る通算36勝を阪神から挙げている。しかし阪神戦に強いということに関してはあまり知られていない。
1973年10月20日に9年ぶりの優勝を目指す阪神に対し完投勝利を挙げるも、星野本人は阪神と優勝争いしていた巨人に優勝させたくないと考え、この試合では「負けてもええわ」「オレの球を打ってくれ」の気持ちで投げていたが阪神打線は凡打を重ね敗戦し、さらに後日の直接対決で阪神を下し巨人はV9を達成したのである。因みに当試合途中でセカンドの高木守道から「あんな勝つ気のないチームに遠慮せんでええ!」と言われ、途中から全力投球した。
一方でこの日の阪神の先発だった江夏豊は「後で聞いたら仙ちゃんは『巨人より阪神に勝ってもらいたいからど真ん中に投げた』と言っていたけれど、あれはウソ。どう見ても必死で投げていたよ」と星野の話を否定している。なお、江夏はこの試合前に阪神の幹部に「1位になるより争って2位の方が儲かるから勝たんでええ」と言われていたという。
・・・そんな彼がもともと阪神ファンで、後に阪神を率いるとは誰が思っただろうか。
阪神監督就任の裏話
2001年オフに低迷続きの阪神の監督に就任した星野だが、この裏には二人の人物が関わっている。
野村克也
当時のオーナー、久万俊二郎に星野の監督推薦したのは前任の野村である。野村は任期途中で自分では阪神再建は不可能と悟り、「負け癖のある今の状態の阪神を再建できるとすれば、熱血指導型の西本幸雄さんか星野だ」と考えていた。当時、野村は一部の選手やコーチと対立していたほか、阪神OBがベンチにも入って選手を勝手に指導したりする場面もあり、野村との確執があったともいう。このような状況を打破できる人物を出来る人物として星野の名を挙げたのである。
長嶋茂雄
前述の野村の件とは違ってあまり知られていないが、阪神監督就任の直接のきっかけとなったのは長嶋である。
監督就任を打診された際に保留していたことを聞きつけ、電話で「何を迷ってるんだ?ジャイアンツは頑張ってるんだよ、でもタイガースは全然ダメじゃないか。仙ちゃんがタイガースの監督になって、伝統の一戦を甦らせてくれ!」と言われ、更に初交渉を控えた12月11日のスポーツ報知での対談企画で「安芸キャンプで、阪神のユニフォーム着た仙ちゃんを見ながらコーヒー飲みたい」と言われたことが決め手となり、阪神の監督就任を決意したと語っている。
関連タグ
中日ドラゴンズ 阪神タイガース 東北楽天ゴールデンイーグルス
わしが育てた:ネタ扱いが多いが、実際星野監督時代(3球団とも)に高卒入団や移籍で後の活躍の地歩を築いた選手は少なくない。
元木大介:元巨人コーチ。タレント活動中だった元木にU-12日本代表監督の話を持ちかけ、星野の死後に指導者として球界に復帰。元木は感謝の念を込めて代表監督・巨人コーチ時代に「77」を背番号とした。