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三原脩

みはらおさむ

香川県仲多度郡神野村(現:まんのう町)出身のプロ野球選手(内野手、右投右打)・監督・球団経営者。
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概要編集

(1911年11月21日 - 1984年2月6日)

出生時の本名および読売ジャイアンツ総監督退任までの表記は「三原 修」(読み同じ)。


長女の三原敏子は中西太の妻であり、三原は中西の義父に当たる。


生涯編集

大地主の末っ子として生まれ、何不自由ない環境下で育った。


香川県立(旧制)丸亀中学校入学直後から野球にのめり込んだが、「玉遊びに興じてないで役人になる勉強をしろ」という父親の意向で同じ県立の(旧制)中学であった高松中学校に転校させられるが、文武両道の校風を盾に野球を続けることを認めさせた。

夏の中等学校野球選手権に一度出場しており、ベスト4まで進んでいる。


早稲田大学に進学し、東京六大学野球でも大活躍したものの、うっかり学生結婚してしまった結果、大学をやめるハメになった。

そして故郷に帰って野球から足を洗ったはずだったのだが、大学時代のチームメイトから説得され、野球を再びやるために大阪府に引っ越した。そしてクラブチームの全大阪でプレーしている。


1934年6月6日、大日本東京野球倶楽部に契約選手第1号として入団する。チームは半年後の同年12月26日に発足するが、その直後の1935年1月に入営のために一度退団する。


日本初のプロ野球である日本職業野球連盟(職業野球、1939年から日本野球連盟)が発足した1936年9月に、後身である東京巨人軍の選手兼助監督として復帰する。


1937年春季では「3番・二塁手」のレギュラーとしてチーム2位の24打点を記録したが、同年に再び応召され、中国戦線へ出征した。その際に南翔で大腿部を貫通する銃創を受ける。


1938年に三度復帰するが、同年現役を引退、東京巨人軍を退団した。


引退後編集

東京巨人軍を退団した三原は報知新聞社で記者として活動するも、三度目の応召を受けビルマ戦線に従軍した。終戦後は読売新聞社運動部の記者として勤務し、野球評を中心に記述していた。


1947年古巣・読売ジャイアンツから監督のオファーがあり総監督に就任。1948年には正式に監督となった。

1949年にジャイアンツを第2次世界大戦終戦後初の優勝(1リーグ制最後の優勝)を果たすも、南海ホークスから別所毅彦を引き抜くわ対戦相手の選手の後頭部をどつくわと相当ひどいことをやらかしてしまった。

それとほぼ同時期にシベリア抑留から奇跡の復員を果たし、復帰した水原茂の扱いをめぐってほとんどの選手と対立(その一方で川上哲治は三原を擁護していたらしい)、結果1950年にジャイアンツ監督の座を追われてしまう。


ジャイアンツを去った三原に、オファーがあったのは同年よりパ・リーグに移った西鉄ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)だった。三原はここで捲土重来を期し、ライオンズを強チームに育て上げ、打倒ジャイアンツを誓ったのである。選手にはベテランでは大下弘を迎え入れるほか、新人では稲尾和久中西太豊田泰光仰木彬を育て上げ「流線形打線」と称される強打線を擁する強豪となり当時ライオンズは「野武士軍団」とまで称された。そして1954年に最初のリーグ優勝を果たすも日本シリーズでは中日ドラゴンズに敗れたが、1956年に再びリーグ優勝を果たすと、日本シリーズは因縁の水原率いるジャイアンツで、このシリーズは『巌流島の決闘』と称された。シリーズはジャイアンツを4勝2敗で破りチーム初の日本一に輝き、その後1957年、1958年と3年連続の日本一をもたらした。 1959年シーズンを最後にライオンズ監督を退任する。


翌1960年より三原は大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)監督に就任。当時チームは6年連続最下位に低迷していたが、三原就任とともにエース秋山登らを筆頭に選手の適材適所を生かして戦い、強豪のジャイアンツに対しても僅差勝ちを多く収めるなどで同年チーム初のリーグ優勝に輝き、さらに日本シリーズでは大毎オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)との戦いとなるが、ここでも僅差での試合ながらスウィープでオリオンズを下し、球団初の日本一をもたらした。翌年以後はまた低迷してしまい、1964年こそ2位となるが、1967年に退任する。


その後は近鉄バファローズ を1968年から1970年に、ヤクルトアトムズ(現・東京ヤクルトスワローズ) を1971年から1973年まで務めた。

ここまで一連の監督としての手腕は「三原マジック」と称される。


監督を1973年10月25日に勇退し(事実上明治時代生まれの最後の日本プロ野球監督だった。)、同年11月17日に日本ハムによる日拓ホームフライヤーズの買収へ関与し、その後日本ハムファイターズ(日本ハム球団株式会社)の代表取締役社長兼球団代表に就任した。監督に娘婿となっていた中西太を迎え入れた。


結局、チームは1974年・1975年と2年連続の最下位に終わり、三原は中西を解任、中西の後任として大沢啓二を招聘した。大沢は三原の期待通りに最下位続きだったチームを優勝争いが出来るまで育て上げ、三原が相談役へ退いた1981年には前身の東映フライヤーズ時代以来19年ぶりとなるリーグ優勝を果たした。


相談役に退いた三原は、1981年に戸籍上も「三原 脩」に改名した。1983年に野球殿堂入りを果たし、そのプレートの三原は宿敵・ジャイアンツを最初に破った西鉄ライオンズの帽子を被っている。


殿堂入りして間もなく、1984年2月6日に糖尿病の悪化による心不全のため死去した。72歳没。


名言編集

三原は数多くの名言を残している。


野球は筋書きのないドラマである。

勝負は実力5、運3、調子2の割合である。

監督はゲームに勝てる雰囲気を醸成し、技術・精神をつねに調整するいわばエンジニアである。

野球というメンタルの要素が大きいゲームの監督をやっていると、雨を自軍の選手がツイてると感じてくれるように努力をしなければならない。

タイプの違った二人の選手の長所をうまく組み合わせて起用すれば、一人のスタープレーヤーに匹敵する戦力が生まれる。

選手は惑星である。それぞれが軌道をもち、その上を走っていく。この惑星、気ままで、ときに軌道を踏み外そうとする。そのとき発散するエネルギーは強大だ。遠心力野球とは、それを利用して力を極限まで発揮させる

弱小チームを強くするのは男子の本懐である。ただし、チームを強くするのは監督ではなく、球団の姿勢だ。


ほかにも「まだ首の皮一枚でつながっている」は三原がオリジナルで、1958年の日本シリーズでジャイアンツに3連敗を喫した後で記者たちに言ったものである。


外部リンク編集

日本野球機構公式サイト内生涯成績データ

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