概要
本名及び旧名:別所 昭(べっしょ あきら)、1922年10月1日 - 1999年6月24日)。
愛称はべーやん、鬼軍曹。
旧制滝川中学校から剛球投手として鳴らし、1941年の春の甲子園では骨折を押して投げ続け「泣くな別所、センバツの花」と賞賛された。1942年にプロ入りすると南海軍のエースとなり2度の優勝の立役者となる。
1949年に別所引き抜き事件(後述)によって巨人への移籍後は第二期黄金時代の主軸投手として長く活躍した。投手として最多のベストナイン6回を誇る。
通算310勝は金田正一に破られたが、シーズン47完投(1947年)は現在も日本プロ野球記録。
1962年からはコーチに専念、退団後はTBS野球解説者(1963年)を経て、1964年に三原脩監督に招聘され、大洋ホエールズヘッドコーチに就任。大洋退団後は2度目のTBS野球解説者(1967年)を挟み、1968年にオーナーの水野成夫に請われてサンケイアトムズの監督に就任。
監督退任後は一度もユニフォームを着ることは無く、フジテレビ・文化放送野球解説者・日刊スポーツ野球評論家(1971年 - 1999年)を務め、白髪眉毛・巨人贔屓・貧乏ゆすり・高笑いで人気を得る。
1999年6月24日に急性心不全のため自宅で死去。76歳没。
別所引き抜き事件
この人を語るにはどうしても外せない、だが内容故に黒歴史としか言いようのないエピソードである。
そもそも別所は日本大学進学後(しかも慶應義塾大学受験に失敗したため、再受験のためにそこの進学していた)、下宿先の近所に住んでいたオッサン(しかもこの人、後に南海軍の監督となる)から職業野球に行くよう勧められ、さらに同郷の先輩であった島秀之助という人の母親からも話を聞いた上で職業野球に身を投じる決意をする。
旧制滝川中学校時代に世話になった人の縁などから巨人に入団することを決意、一度は契約を結んだものの、問題のオッサンが神戸の母親と兄の元に来ており、その人物の口車に乗せられた母親と兄が勝手に南海軍と契約してしまった。
結果別所は嫌嫌南海軍に入団するハメになった。
南海に入団させられて5年くらい経ち、ある女性と結婚し、子供にも恵まれたものの、兄の家に居候していた別所は、球団に対し、「給料を上げて下さい。借家の紹介でもかまいませんから一軒家をください」と土下座したものの(実はこの事は入団2年目あたりから球団に要望していた)、球団側は「一軒家はどうにかしたいと思うが、銭はどうにもならん」という態度を取ってしまう。
その事を聞きつけた巨人が、「一軒家だけではなくお金の方もどうにかしますよ」と持ちかけてきた。無論元々巨人に行きたかった別所はそれにホイホイ応じてしまう。
当然ながら南海側は大激怒、遂に日本野球連盟(当時の日本プロ野球の元締め)に提訴する事態となった。
結果巨人は日本野球連盟に罰金10万円を、南海側に移籍金(と言う名の詫び料)21万円を、それぞれ支払うハメになり、別所は開幕から2ヶ月間は試合に出場出来なくなってしまった。なお別所は巨人から契約金50万円をもらった上、一軒家も与えられている。
ネタ
- とにかく勝つことにこだわっていた、のはいいのだが、途中交代を余儀なくされた後で宿舎に戻った後は切れにキレまくるあまり柱に傷を付けるわ襖を破壊するわとかなりの地獄絵図を展開させてたらしい。また、味方がピンチになろうものなら監督を真綿で首を締めるかのように脅し、まんまとマウンドに行かせるように仕向けた事もしばしばあった。
- 麻雀が趣味であったのだが、勝つためには手段を選ばないという、全く傍迷惑な人であった。主に中上英雄と南村侑広がその犠牲者であった。
- いびきが凄まじかったうえ、布団に入った途端に直ぐに眠りにつく通り越していびきをかきまくっていた。そのため遠征の時は、歯軋りの酷い人を同室にあてがわざるを得なくなることがしばしばあった。
- 1943年のシーズン終了後に陸軍に召集されてしまう。その際「どうせお国のために死んでしまうのならせめて飛行機に乗りたい」と思い特攻隊に志願したが、「身体が大きすぎて操縦席に座れるかわかんない」という理由で外されている。
- 70歳を過ぎてもランチに300グラムのビフテキをオーダーしたうえ、完食してしまったことがあった。