概要
本来は特殊な攻撃を行う部隊の総称であるが、太平洋戦争末期に構成された「神風特攻隊」の影響から一般に「戦死を前提とする攻撃を行う部隊」という意味で用いられる場合が多い。
諸外国でも"Tokkou"や"Kamikaze"といった単語で認知されていたりする。
しかし、こうした部隊の起源は第一次世界大戦でドイツ軍が構成した特殊部隊"Stosstrupp(シュトーストゥルプ)"といわれており、塹壕戦で膠着した西部戦線をこじ開けるために結成された突撃歩兵部隊を指していた。
そのため奇襲や潜入といったリスクの高い行動は付きまとうものの、自爆攻撃とイコールではなかった。
日本でも最初に「特別攻撃隊」と命名された甲標的部隊時点では攻撃後の帰還が計画されていた。もっとも、実現性は非常に低く、初出撃の時点で10名中9名戦死・1名捕虜と事実上全滅であったが。
そこから「神風特攻隊」に至るまでの紆余曲折は先方の記事に譲ることとする。
日本における特攻
以下の記事も参照のこと。
特攻隊員の戦後
戦後、世相変化によって将兵が「滅びの美学」に取り憑かれ遂行していた特攻作戦は間違いだったとされる中、運良く生き延びた特攻隊員の中には返ってやけくそとなり暴れ回る者もいた。
本意にしろそうでないにしろ、この事に一生を捧げるはずだであったらは精神的支柱を失い、その鬱屈と持て余した肉体を無差別的な破壊と暴力で発散する様になったのである。その様な乱暴者は「特攻帰り」と呼ばれて忌み嫌われた。
逆にいえば「特攻帰り」の肩書はそれだけで“箔”が付くものとなり、次第にアングラな世界にのめり込んで行った。特攻には無関係の人間までもが経歴を偽って合流し、己を「愚連隊」などと呼んで勝手に部隊化した。闇市やスラムといった無法地帯の中でだけは、「命知らず」は最上級の脅しであり褒め言葉であった。
また、実力行使が日常茶飯事であった労働運動や各種のデモに「助っ人」を期待され、あるいは暴力団(しばしば労働運動やデモの「敵」でもあった)に招かれてそのまま上座に置かれたりもした。
自動車が増えて来てから交通法規が十分に整備されるまでの間は猛スピードで命を省みない運転をするドライバーが街に溢れ、彼らもまた特攻隊員扱いされた。「神風タクシー」や「神風トラック」は社会問題として広く知られた言葉であった。
現代でも残るその残影としてはカミナリ族として発生して、今日は暴走族と呼ばれる集団であろう。「特攻隊長」と名付けられたメンバーは、その集団の中で最も喧嘩っ早い者がなり、他の暴走族との抗争などの際には先頭に立って殴り込むといった(実際の特攻と比較すべくもないが)命知らずの役が与えられていた。
そして暴走族は「特攻服」を着込んでいたが。当然その由来は彼らの飛行服であり、暴走族にとってはそれが「死装束」のつもりだったのであろう。「特攻の拓」という暴走族漫画の金字塔もあったりする(この「特攻」は「ぶっこみ」と読むが)。
当然、大半の元特攻隊員はこの様な乱暴狼藉を働いた訳ではない。
とりわけ特攻隊員の士官の中で多くを占めた学徒出陣予備士官らは高学歴の者が多く、戦争で優秀な労働者や技術者を失った企業より引く手あまたで戦後復興の原動力となって活躍した。
自ら起業したり、また学校に復学して後に官僚や政治家になった者も多く、慰霊や平和活動といった文化事業にも貢献した事で印象を好転させていった。
その結果今日では、「特攻隊員」が粗暴で忌み嫌われる風潮はほとんどなくなって、特攻自体への賛否はあれど、隊員個人に対しては「感謝」「同情」「憐憫」といった肯定的な印象が主流を占める様に代わって来ている。
ドイツにおける特攻隊
公式には戦死前提の攻撃を禁じていたとされるが、状況的に脱出はまず不可能な戦術が複数確認されている。
アドルフ・ヒトラー総統やヘルマン・ゲーリングドイツ空軍司令官が個人的に日本軍の特攻に感銘を受けていたという説もある。
その1:ライヒェンベルク計画
元々はMe328を滑空爆弾代わりとする計画であった。
一度中止された後にFw190に1t爆弾を搭載し、乗員を直前に(対空砲弾の炸裂する中に)脱出させる事が考えられたが、ノルマンディーでの対空砲火が余りに激しかったのでこれも中止となった。
ならば小型(的が小さい)Fi103なら行けるのではないか、という考えとなり有人型開発が始まった。
担当者はオットー・スコルツェニーで、彼は他にも魚雷改造有人艇+魚雷「ネガー」やら、特攻艇「リンゼ」開発にも携わっている。
そしてこの有人型「V-1」、飛ばすのも難しかったようで、最初のテスト飛行では墜落して2人のテストパイロットが入院するハメとなった。
改良が行われながら乗員の選定・訓練も行われ、1944年の秋には志願者数千人(!)から70人を訓練し、機体も用意された。
この辺りで「訓練にも(今や貴重な)ガソリンが5t必要」という事実がのしかかり、この計画は中止された。
決して「人命が貴重」とはいっていないのがミソである。
一応ヒトラーは「100m手前で脱出すれば良い」と言って射出座席を研究させていたが、それを搭載出来るスペースはなかった。操縦席が狭い上に直ぐ後方にはエンジン吸気口があり、脱出してもエンジンに吸込まれることはほぼ確実なまさに特攻兵器であった。
よしんばエンジンをもパス出来たとしても、対空砲火が激しい中では少し離れた場所に「あかいしみ」を作るだけであったろう。
その2:有人型A-9・A-10
これは「V-2」として有名なA-4型ロケットの拡大発展型2段式ロケットである。
目標は米国本土であり、35分で5500kmを飛行する予定であった。
A-4でもそうであったが、慣性誘導だけでは命中率が悪く、これが5500kmに拡大した場合、命中率を高める工夫が必要とされた。
そしてその答えの1つが「有人型」である。
ロケットには操縦士が搭乗、A-10ロケット分離・A-9突入コース誘導を果たしたら脱出するという計画であったが、この時のスピードは当然音速の数倍となる。
例え脱出しても、生身で音速を超えているので「一瞬で大気のチリ」となってしまうであろう。
その3:オーデル川作戦
旧ソ連軍がベルリン近辺まで攻め上がって来たため、ドイツ軍はその進撃を少しでも足止めすべくドイツとポーランドの間を流れるオーデル川に架けられた橋を破壊しようと試みた。
しかし、旧ソ連軍進撃が急で破壊工作が出来なかったので、爆弾を搭載したメッサーシュミットBf109戦闘機で橋に自爆攻撃を加えて撃破する作戦が計画され「オーデル川作戦」と名付けられた。
作戦には特殊作戦部隊「レオニダス中隊」パイロットの他に、訓練途中のパイロットやその教官までが“志願強制”で掻き集められた。
“志願強制”といっても、これまでもドイツ軍で度々行われてきた脱出も可能な体当たり攻撃ぐらいを想定していたパイロットが、「攻撃失敗したら再攻撃はどうするのか?」と質問したところ、将校からは「これは“自己犠牲攻撃”であって2回目はない」と聞かされ、その場で気絶している。
数十機が数日に渡って出撃し、うち十数機が橋に命中したと発表されたが、実際の戦果は不明で、仮に命中したとしても、ただでさえ頑丈に作られている橋が、500㎏爆弾を搭載した戦闘機の体当たりぐらいでは完全破壊は困難であって、旧ソ連軍進撃速度にほとんど影響はなかった。
その他
最初から自爆を想定したものではなかったが、先の「リンゼ」は全く活躍出来ず、「ネガー」も損害は多かった(60 - 80%)。
陸戦でもパンツァーファウストを使った攻撃はほとんど自殺も同然であった(射程が短く、かといってギリギリまで引き付けると爆発で自分も死ぬ)。
また、ドイツは空戦用特攻兵器としてツェッペリン社「ラマー」を開発している。
これは突撃用ロケットを備えたグライダーで、ロケット弾を撃った後は頑丈な機体でもって敵機に体当たり攻撃を行う。
米国:俗説編
ノースロップ社が開発した全翼型試作戦闘機XP-79「フライング・ラム」は、その形状・頑丈さなどから「体当たり攻撃用」と呼ばれていたこともある(ドイツの「そういった目的用戦闘機」と似た部分があったことも事実)。
参考資料
グランドパワー10月号別冊「ドイツ戦闘兵器の全貌3」(1995年、デルタ出版)