概要
その形状から「すっぽん地雷」、「亀の子」と呼ばれる。使用方法は爆雷に内蔵された磁石で戦車の車体側面や天板に張り付け、時限式の起爆装置を作動させてから安全圏まで避難するというものだった。
(九九式破甲爆雷は厚さ25mmの装甲板を破壊する威力があった。2つ重ねれば約40mmの装甲を破砕できたらしい。)
その使用法から戦車のそばまで肉薄する必要があり、そのような行為を肉薄攻撃または肉攻と呼ばれた。しかし、戦車に接近するのは難しく、戦車の使用方法が発達していなかった時代や組織相手でない限り、戦車に接近する前に死傷する可能性が高かった。
ただし、後世によく言われるような使用者の命と引き換えに敵戦車を破壊するなどという、いわゆる特攻兵器(自爆兵器)だったかのように解説がなされることか多い。しかし、九九式破甲爆雷は特攻兵器ではなく、当初は生還可能な兵器として運用を想定していた。
使用例と使用方法の変化
1938年~1939年にかけて続いたソ連との紛争でも、本兵器が使用されているが、最初のうちは戦車の視界の狭さという弱点を突き、撃破に成功し続けていたものの、ソ連側が戦車の周囲に歩兵を配置したり、戦車で陣形を組んで死角を減らしたりなどの対策をとるようになると、戦果が減るどころか損害が増加した。
結局この紛争で戦車に対してもっとも効果があったのは対戦車砲などの火砲であり、肉攻による戦果はほぼなかったとされる(そもそも肉攻自体、対戦車戦闘においては補助的な面が強く、戦車を足止めする「時間稼ぎ」や修理による再利用を防止するための「後処理」が主な役割だった。)。
1941年12月に勃発したアメリカとの戦争である、太平洋戦争でも同様の状況にまたもや陥ってしまう。しかも、この戦争ではアメリカ軍は歩兵を配置したり戦車に陣形を組ませるだけでなく、戦車に鋭いトゲを生やして日本兵を接近できないようにした上、九九式破甲爆雷がくっつかないように木板を張り付けるといった対策を施したため、日本軍の肉攻兵器は無力化されてしまっている。
その結果取られた戦法が、爆雷を抱えて戦車へ向かって突撃し、戦車の下へ潜り、その底面に爆雷をくっつけるというもので、この段階で九九式破甲爆雷は特攻兵器も同然だった。(ほぼ間違いなく轢死するし、そうでなくとも爆発する前に逃げれない。)
この事からソ連との紛争の教訓を生かせなかったとして批判されることもあるが、行き当たりばったりで戦場を拡大しまくるという戦略的欠陥をどうにかしない限り、反省を部隊や装備に反映するための予算・資材・時間を確保するのはほぼ不可能だった。
(ソ連との紛争からの反省や、その後に発生したドイツとソ連の戦争の情報を考慮して対戦車兵器の開発を進めていたが、その量産化に関しては「絵に書いた餅」同然だった。)
類似兵器
よく似た兵器としては、九三式戦車地雷というものがある。
日本軍の対戦車兵器は「制圧資材」と「鋼板破壊用資材」に二分される。この「制圧資材」というのは戦車を移動できなくするための兵器であり、その戦車にトドメを刺す役割を持っていたのが「鋼板破壊用資材」であった。
九三式戦車地雷はこの制圧資材に相当し、本記事の九九式破甲爆雷は鋼板破壊用資材である。