曖昧さ回避
概要
時は太平洋戦争末期。沖縄は既に陥落し、連合軍は本土に迫っていた。近く予想される本土決戦に備え、日本軍は水際で少しでも多く打撃を与えるために知恵を絞った。が、航空機で特攻をかけようにも、もはや布張りの練習機を員数合わせに駆り出して出撃しているような有様で、せっかく集めた予科練生達はせいぜい防空壕を掘ることぐらいしかできなかった。
そこでその人材を「有効活用」するために開発されたのが伏龍である。陸軍の戦車に対する肉薄攻撃を参考に、潜水服を着せ刺突爆雷を持たせ、敵の上陸舟艇を水際で迎え撃つ。自らの命と引き換えに、少しでも多くの敵を殺す。そういう兵器である。
装備
さて、伏龍の装備は前述した通り、大きく分けて潜水服、刺突爆雷、の2つがある。
潜水服
これは元々米軍が日本の沿岸に散布した機雷を人力で除去するために開発されたものである。ゴム製の服に鉄の潜水兜、背中には酸素ビン胸には吸収缶、腹と足には鉛を括り付けて錘にした。兜のガラス窓からの視界は悪く、足元しか見えなかった。
欠陥は視界の悪さだけではない。隊員達が敵に打撃を与え一抱えの肉塊と化すまでの命綱である吸収缶は、うっかり浸水しようものなら高温の強アルカリ湯が兜の内部に噴出するというとても厄介なものだった。これは呼気中の二酸化炭素を苛性ソーダで除去するシステムなのだが、苛性ソーダは水に非常に溶けやすく溶ければ強いアルカリ性を示す。更に溶ける時に熱を出すためともすれば沸騰、したがって熱い強アルカリ性のお湯が噴出するのだ。実際訓練中に多くの殉職者を出し、いくらなんでもこりゃなかろう……といった有様であった。
刺突爆雷
制式名称を「五式撃雷」という。棒機雷とも呼ばれるこれは、長さ2mないしは5mの竹竿の先端に15kgの炸薬を括り付けたもの。隊員達はこれを持って海に入り、敵船が頭上を通過した時にエイヤッ!とぶつけるわけである。重い潜水服を着て視界も悪い上、水の抵抗がある中でそんな長い物を振り回し、しかも動いている船にぶつけられるのか甚だ疑問だが。
使い方
- 伏龍隊員達は敵上陸を前に海底へと潜る。おおよそ日の出前が予定され、潜水服と刺突爆雷を装備した隊員は海底に張られたロープを頼りに歩いて配置に付く。
- 待機。敵が上陸してくるまでひたすら待機。誘爆を防ぐために各隊員達は50m以上離れて配置される。無論、潜水服を着た水中なのでお互いの声など届くはずもない。伏龍達は夜明け前から静かな海底で一人、敵を一人でも倒すべく待ち続ける。
- いよいよ敵が攻めてきた! 伏龍達は頭上を敵船が通るのをじっと待つ。通れば棒機雷の一閃で敵を沈めよう。遠く仲間の爆音を聞きながら伏龍達は自分らの番を待つのである…
ひたすら待つばかりではあるが、以上が伏龍の運用方法である。見てわかる通り、運に頼り切った「こんなもんが兵器かよ!」と言いたくなる様なシロモノである。他の特攻兵器と比較しても、そもそも人間を使う意味はあるのかという疑問も拭えない。勿論実戦を経験することはなかったし、仮にあったとしても上陸前の準備砲撃で跡形もなく吹き飛ばされてしまっただろう。コンクリートで退避壕を作る計画もあったが、終戦まで着工されることさえなかった。
配備状況
隊員の多くは乗るための飛行機の無くなった予科練生達だった。また海軍陸戦隊の古兵達も参加した。隊員には本来家を継ぐべきはずの長男が多く選ばれたが、その理由は「孤独に耐えうる者」を選んだからであった。それまでの特攻隊と違い、志願ではなく命令によって選抜された隊員達は10月末の部隊配備を目指して訓練を受けた。配備先は横須賀、呉、佐世保、舞鶴の各鎮守府で、一説によれば3000人ほどが訓練を受けたという。
上述の通り実践投入されることはなかったが、上述の吸収缶の問題や、装備の調達・訓練内容の杜撰さなどから事故が多発し、訓練中の死者は多かった。
現存施設
現在も神奈川県鎌倉市稲村ヶ崎に待機陣地が形を留めている。また、靖国神社附属の歴史博物館「遊就館」に装備品のレプリカが置かれている。
富野監督との関係
富野由悠季監督は2019年に行われたインタビューで、零戦の与圧服を開発していたともされる父・喜平氏について以下のように語っており、喜平氏はこの「伏龍」の開発に携わっていた可能性がある。
大戦末期に富野一家は仕事の都合で神奈川県小田原市に居住しており、監督は同地の生まれで、横須賀防備隊は伏龍の研究と量産を命ぜられ、周辺の海岸で訓練が行われたことが記録されている。
> 僕は中学生の頃、父の当時の開発スケッチを見つけたんですが、そこには「潜水用空気袋」という記述が残っていました。聞くと「試作を命じられたものだ」って。米軍上陸を想定し、波打ち際に少年兵を潜ませて捨て身の突撃をさせるためのものでした。
関連タグ
劇光仮面:作中の「架空の特撮史」において伏龍が重要な役割を果たす。