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神風特攻隊

かみかぜまたはしんぷうとっこうたい

太平洋戦争末期、日本海軍が編成した特攻隊の一つ。
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神風特攻隊とは

太平洋戦争末期に、日本海軍において編成された、航空機による体当たり攻撃を行う特攻隊の名称である。正式名称を神風特別攻撃隊と言う。


日本陸軍の同様な部隊は「と」号部隊と呼称されたが、一般的には陸海軍と問わず航空機による体当たり攻撃部隊を全て神風特攻隊と呼ぶこともある。


ここでは狭義の神風特攻隊、すなわち日本海軍における体当たり部隊のことを述べる。日本陸軍の特攻隊と号部隊も含めた特攻隊全般については、特攻を参照のこと。


名称について

神風特攻隊の編成に携わった第一航空艦隊主席参謀猪口力平(イノグチ リキヘイ)中佐によれば、猪口の故郷にあった古剣術の流派「神風流」に因んで「しんぷうたい」と名付けたが、元寇のときにモンゴル軍を打ち破った暴風(実際は違うが)「神風」(かみかぜ)も意識したものであり、その後、日本側でも報道などで「かみかぜ」と呼称されることが多くなり、現在ではほぼ「かみかぜ」の名前で知られる事となっている。


戦争中でも連合軍から「カミカゼ」と恐れられ、現在においても、外国、特に特攻の相手となったアメリカで「カミカゼ」はそのまま通用し、2001年9.11事件の際も「カミカゼの再来」と言われる事になる。


様々な辞書や研究論文でも、「神風」・「kamikaze」は自爆テロを指したり、それに類似した自殺攻撃を指すのに使われている。


概要

神風特別攻撃隊は、太平洋戦争の末期に、資源・人材に困窮し追い詰められた日本海軍が編成した航空機による特別攻撃隊である。


1944年10月20日に大西瀧次郎(オオニシ タキジロウ)中将によって開始された。命名者は上記の通り猪口力平中佐である。


ただし、「人間魚雷」回天や自爆艇震様や特攻専用グライダー桜花などの開発や部隊編成は大西が神風特攻隊を編成する前から既に開始されており、大西が特攻を開始したように言われることもあるが、それは間違いである。


逆に、千代田艦長城英一郎大佐や第341航空隊司令岡村基春大佐からの爆装航空機による敵艦船への体当たり攻撃隊編成の上申を、当時軍需省航空兵器総局総務局長であった大西は「時期尚早である」といって却下したこともあった。


大西が特攻の創設者であって「特攻の父」とも称されるようになったのはむしろ戦後のことであり、終戦後に責任をとって自決した大西に「死人に口なし」とばかりに、特攻に対する非難が集中するようになったことや、また大西の妻女がそれから逃げることなく、遺族などに精力的に謝罪して回ってこともあって、あたかも特攻を率先して創設したような誤解を受けている。しかしながら彼自身は特攻を「統率の外道」と称しており、むしろ特攻には否定的だった。


ちなみに特攻隊員が「飛行機を当てる前に脱出して生きて帰ってきてもいいですか?」と参謀や司令官に聞くと「だめだ!」と即答し怒鳴られたらしい。特攻に行ったからには死んで帰ってこいということなのだ・・・(永遠のゼロ参照)

ただ、理屈で言えば特攻隊が出撃していく海域は制空権すらまともに取れない敵地のど真ん中であることにも考慮する必要がある。直前で脱出しても救助などに向かうことはほぼできず、脱出して不時着水しても結局死を待つだけであり、命中率を下げるだけの行為ともいえる。そのため、この一事を持って一概に『一度出撃したら生きて帰ってはならなかった』と解釈するのは早計である。

また、これは陸軍における事例だが、特攻隊として幾度も出撃しながら毎度通常攻撃を敢行し、帰還していた航空兵もおり、司令部でも容認されていた。後述の途中帰還も併せ、一度出撃したからと言って決して死ななくともよい状況ですら死ぬことを強制されていたわけでは無いのである。


また、中途での帰還は認められており、そもそも初の特攻隊である後述の関大尉率いる敷島隊も天候不順や敵艦が発見できなかったことにより数回帰還している。海軍では「目標が見つからなければ墜落するだけだ。出撃させる以上無駄死にさせたくない」という至極当然の理由から「燃料が100あれば50まで行って敵が見つからなければ帰ってこい」と命令されていた。また、索敵もままならない沖縄戦段階では敵が見つからなかったため4~5回帰投してそのたびに覚悟を決め直して出撃する例もあったとの証言が残っている。

これも陸軍における例ではあるが、帰投する際の所作までマニュアル化されており、その内容も謝罪や責任を取らせる類のものでなく、「落胆するな。犬死にしてはならぬ」「明朗に潔く帰ってこい」「爆弾は捨て、あらかじめ指示された方法で飛行場を一周」と単純に帰還時の安全確認の徹底と特攻隊員の心境を慮る内容であり、「溜まっていたら小便をしろ(垂れ流してよし)」と茶目っ気まで見せていた。

更に帰還することが前提である護衛の戦闘機隊の記録によれば、20回出撃して接敵したのはたったの2回だったとのことで、当然特攻機も一緒に帰還している。

現代では途中で帰還すると上官から制裁を受けたという話をよく聞かされるが、実際には余裕があるうちに接敵しなければ帰還が前提とされている作戦だったことがわかっている。


また、同じく片道燃料で出撃させていたというのもよくある誤解である。

上述のように索敵すらもままならなくなった沖縄戦では索敵しながらの出撃になるため、そもそも片道とはどこからどこまでなのか出撃時点ではっきりしていない。上記のように空振りで帰ってくる可能性も大いにあり得るため、燃料=索敵距離となるので片道分の燃料などと言っていては接敵すらままならないというのも理由のひとつである。

更に、そもそも特攻機は大型爆弾を抱いている上に敵レーダーをかいくぐって低空や高高度を飛行するため燃費がかさみがちである。そのため、そもそも片道分どころか満タンでもやや不足だったので増槽を付ける例もあったとの証言もある。

また、後述のように特攻で与える被害の中には『搭載している航空燃料に引火して強烈な焼夷弾になる』というものもあり、これは日本軍側でも認識していた。実際に帰りの燃料は必要ないと命令された例があるのも確かのようだがこれはむしろ例外で、基本的には満タン、何なら携行缶を使って余計に詰んでいた例すらあったことがわかっている。

それ以前に、そもそも航空燃料に関しては終戦時でも備蓄が十分あり、わざわざ片道分にしてまで節約する必要はなかったとの指摘もある。

つまり、『帰ってこない特攻機になど貴重な燃料を積めない。片道分で十分』という思考は現実的でないか、極端に追い込まれた部隊に特有の事情であり、大多数は『まだ余裕がある燃料を積めば積むほど索敵範囲も直接的な破壊力も増大する』といったむしろメリットしかない状態だったのである。


なお、片道燃料に関しては、「攻撃に成功すれば燃料は片道分で済む(残りは燃焼して敵艦にダメージを与えられる)」といった発言から発生した誤解、もしくは故意に後半部分だけを切りぬいた物であるとの指摘もある。あるいは、水上特攻に片道燃料で出撃したとされる戦艦大和の逸話(これもあくまで計画段階のものであり、『死にに行くのに腹いっぱい食わさんとは何事か!』との声が各所から上がったため待機する駆逐艦やタンクの底に残った帳簿外の重油までかき集め、残念ながら満タンとはいかなかったが大和以下第二戦隊各艦は『腹八分目』くらいで送り出されている)と混同されたものと思われる

もちろん非道な作戦ではあるが、非道なりに隊員へ配慮を尽くしていた節があり、「一度出撃すれば帰還は許されず、機体不調等でやむを得ず帰投しても大目玉を喰らう」「燃料は片道分なので帰りたくても帰れない」といったイメージは実例があったとしても例外的な物であり、多くは終戦後に勘違いや誤解、あるいは故意の曲解の産物として付与されたものであることは留意したい。


創設

1944年10月19日大西中将は夕刻マバラカット飛行場第201海軍航空隊本部で201空副長玉井浅一中佐、一航艦首席参謀猪口力平中佐、二十六航空戦隊参謀吉岡忠一中佐らを招集し会議を開いた。大西は「米軍空母を1週間位使用不能にし、捷一号作戦を成功させるため零戦に250㎏爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに確実な攻撃法はないと思うがどうだろう」と提案した。


山本司令が不在だったため玉井副長が自分だけでは決められないと答えた。大西は、山本司令から同意を得ていることを伝え、決行するかは玉井に一任した。玉井は時間をもらい飛行隊長の指宿、横川らと相談して体当たり攻撃を決意し大西に伝えた。玉井はその際編成に関しては航空隊側に一任してほしいと要望して大西はそれを許可した。


特攻の指揮官の選定は、猪口参謀から海軍兵学校出身者という意向を受けて玉井副長が関行男大尉を指名した。猪口力平によれば指名された際にその場で熟考の後「ぜひやらせてください」と即答したというが、玉井浅一によれば関は「一晩考えさせてください」

と即答を避け翌朝受けると返事をしたという。報道官に関は天皇陛下の為でも日本帝国の為でも無く「KA(妻)をアメ公(アメリカ)から守るために死ぬ」と語ると共に腕に自信のある自分をこんな攻撃で死なせるようでは日本もお終いだという内容の事も語ったともいう。


ただし、関を悲劇の人物にして特攻をバッシングするために、殊更、関が悲壮感を漂わせながら特攻に反対していたというエピソードだけが強調されるが、この報道官(同盟通信社小野田政記者)の証言では、他にも関は茶目っ気たっぷりに、自分たち夫婦を当時流行していた恋愛小説の主人公たちに見立てて、新妻との仲の良さを惚気てみたり、小野田の目の前で新妻の写真にキスしてみせるなど、かなりお道化てみせていたという。

編成を一任された玉井浅一は自分が育てた甲飛10期生を中心に33名を集め志願を募り24名の特攻隊を編成した。玉井によれば、大西の決意と特攻の必要性を説明し志願を募ると皆喜びの感激に目をキラキラさせ全員もろ手を上げて志願したという。志願者した山桜隊の高橋保男によれば「もろ手を挙げて志願した。意気高揚した。」という。志願者井上武によれば、中央は特攻に消極的だったため現場には不平不満がありやる気がうせていた、現場では体当たり攻撃するくらいじゃないとだめと考えていた、志願は信頼する上官の玉井だからこそ抵抗もなかったという。


しかし当時の志願者の中には、特攻の話を聞かされ一同が黙り込む中、玉井中佐が「行くのか行かんのか」と叫びさっと一同の手が上がったと証言するものもいる。

志願した浜崎勇によれば「仕方なくしぶしぶ手をあげた」と言う。

志願した佐伯美津男によれば強制ではないと説明された、セブで100機近く零戦を失った201空の責任上の戦法で後に広がるとは思わなかったという。

猪口力平参謀が「神風特別攻撃隊」の名前を提案し玉井も「神風を起こさなければならない」と同意して、大西がそれを認めた。

また大西は各隊に本居宣長の歌「敷島の大和心を人問わば朝日に匂ふ山桜花」から敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊と命名した。


関たちの初出撃は10月21日となった。しかし、敵艦隊を発見できないまま、数回の出撃と帰還を繰り返した。その間に法政大学から学徒動員で予備学生士官となっていた久納好孚中尉ら2名が未帰還となった。特に初回の出撃で未帰還となった久納は、のちに関が「神風特攻第一号」と呼ばれるようになったのに対して「神風特攻第0号」などと呼ばれるようになった。


10月25日早朝に大和隊、朝日隊、山桜隊の3隊が、第77任務部隊第4群第1集団(通称タフィ1)の護衛空母を主力とする艦隊と接触した。タフィ1はレイテ沖海戦でレイテ湾に突入しようと進撃してきた日本海軍の第一遊撃部隊 第一部隊(いわゆる栗田艦隊)迎撃のため艦載機の発艦に大わらわで特攻機の接近に気が付かなかった。

3隊合わせてわずか4機の零戦であったが、無警戒のタフィ1の護衛空母に次々と命中し「スワニー」と「サンティ」が大破した。

次に関が率いる敷島隊がサマール沖海戦で栗田艦隊と海戦した直後の第77任務部隊第4群第3集団(通称タフィ3)に接触したが、またもや艦載機の着艦作業で大わらわだったため、関らは発見されることなく、タフィ3の護衛空母各艦に突入し、「セント・ロー」には関自ら操縦する零戦が突入(突入機の搭乗員については諸説あり)、火災が弾薬に引火し数度の大規模な誘爆で113名の乗組員と共に海中に没した。他にも「キトカン・ベイ」「カリニン・ベイ」「ホワイト・プレインズ」も損傷した。わずか9機の特攻機によって挙げた大戦果に、大西らは狂喜し、この後、日本海軍は特攻を主戦術として採用し、多くの特攻機が出撃していくこととなった。


戦果

最後の回避運動

戦果については海軍側の神風特攻隊と陸軍側のと号部隊の戦果を選別するのは不可能であるため、下記は航空特攻全体での戦果となる。


日本側は戦果を報告する直掩機を充分に編制できず、不完全な記録しか残っておらず、そのため特攻の戦果は大方アメリカ側の記録に依存せざるを得ない。

アメリカ軍の記録はおおむね正確であるが、集計した部署によって多少の違いが見られる。

また、撃沈された艦の中にはイギリス軍ソ連軍の艦艇も含まれるうえ、損傷艦については、オーストラリア軍やオランダ軍など他の連合国側の艦艇も多数含まれる。

期間

昭和19年10月から10ヶ月間

作戦

フィリピン方面作戦、台湾・硫黄島作戦、沖縄決戦


命中率

通常攻撃と比較して非常に高い有効率であった。


米海軍機密文書『Observed Suicde Attacks by Japanese Aircraft Against Allied Ships』によれば、1944年10月から翌年3月まで5ヶ月間の沖縄戦以前の記録は、体当たり攻撃356回、特攻命中140機で命中率39%。これに加え、敵艦至近での自爆によって被害を与えた特攻機は59機で、至近自爆被害率17%。合計して特攻効果率56%という数値を記載している。もっとも、上記の成功率は対象軍艦の視界内に特攻機が現れてからの最終段階での結果である。参考に、日本側が戦後に編纂した『戦史叢書』によると、「比島特攻作戦」での出撃数は海軍が436機と陸軍が243機の合計679機、成功率は約27%としている。


アメリカ軍は詳細に航空機による通常攻撃と特攻の有効性の違いを複数の資料で分析しており、命中率は特攻の方が7倍から10倍以上高く、また1回の攻撃を成功させるまでの損失機数も皮肉にも特攻の方が半分以下としており、攻撃の有効性は特攻の方が圧倒的に上回っていると分析している。


その高い有効性から、アメリカ軍は特攻が非常に深刻な脅威になると懸念しており、「特攻は、アメリカ軍艦隊が直面したもっとも困難な対空問題」と指摘している。


撃沈・除籍艦

艦種隻数備考
護衛空母4隻  
駆逐艦40隻掃海用、輸送用の用途特化型を含む
駆潜艇2隻
掃海艦3隻イギリス軍1隻、ソ連軍1隻を含む
魚雷艇2隻
戦車揚陸艦5隻
中型揚陸艦8隻
上陸支援艇2隻
歩兵揚陸艇1隻
タグボート1隻
タンカー1隻
輸送艦7隻うち5隻は弾薬を満載した状態で沈没
合計76隻

損傷艦

複数に渡って特攻で損傷した艦も多く、以下の数字は延べの隻数となる。


損傷(延べ隻数):359隻(正規空母21隻、軽空母5隻、護衛空母16隻、戦艦16隻、重巡洋艦8隻、軽巡洋艦8隻、駆逐艦158隻、その他143隻


上記の通り、特攻機が撃沈できた正規空母や戦艦などの主力艦は1隻もない。特攻機は零戦などの小型機が主力であり、搭載できた爆弾は250㎏~500㎏爆弾であったが、主力艦は250㎏~500㎏爆弾1~2発程度の命中では、積載弾薬や燃料の連鎖的な誘爆でもない限りは簡単に沈むものではなかった。


また、攻撃の性質上、艦の上部構造物は破壊できるが、喫水線以下に大きなダメージを与えることが困難であった(そのため、中型以上の艦艇を沈没まで至らせるほどの効果があるのかは日本側も疑問を持っていた)。この事が、特攻の成果に対する低評価に繋がっている。とはいえ、以上の問題は特攻のみの問題でなく、航空機による艦船攻撃全体についても同じ事が言えた。


当初は特効に反対する部隊もそれなりにあり、通常攻撃で結果を出して見せると息を巻いていたとする証言もあったが、時期が下がるにつれて攻撃機隊・爆撃機隊では特攻と比較して通常攻撃があまりに無力であることを思い知らされ、徐々に特攻へシフトする傾向にあった。

一方、戦闘機隊では「何度も出撃して1機でも敵機を落とすのが我々の仕事」として特攻隊への志願を募るよう要求されても拒絶し、通常出撃を続けた部隊も少なくなかった。


そもそも、たとえ小型艦であっても第二次世界大戦後半期のアメリカ海軍の艦艇は、それまでの経験からダメージコントロールが進化しており、殆ど沈まなくなっていた。日本軍は特攻機とと並行して、特攻機より遥かに多数の通常攻撃機をフィリピン戦や沖縄戦で出撃させたが(沖縄戦では日本海軍のみで、特攻機が1,868機に対して通常攻撃機は約2倍の3,747機)特攻が開始されて以降、航空通常攻撃で撃沈したアメリカ軍艦船はたったの8隻に過ぎなかった。

従って、特攻は太平洋戦争後半期で撃沈が困難となったアメリカ海軍艦艇を撃沈することができる最有力戦術であったと言えるだろう。


また、沈没に至らなかったとしても、本格的な修理をするため、主力艦が長期間に渡って戦場離脱を余儀なくされるのは、アメリカ軍にとっても大きな痛手となった。

特に目標とされた空母は、常に数隻が特攻による損傷で脱落しており、一時期は4群あった高速空母部隊が、特攻による空母の脱落によって3群に減らされたこともあった。

実際、端矢となったレイテ沖海戦での特攻においても「空母の飛行甲板を2~3か月使用不能にできないだろうか」という発想からスタートしており、当初から大型艦の撃沈を狙った戦法ではないことが窺える。


人員

アメリカ軍側に特攻のみの人的損失を統計した資料はなく、アメリカ軍およびその他連合軍の統計資料を分析した二次資料による集計となる。


  • 戦死者 8,064名~12,260名
  • 戦傷者 10,780名~33,769名

航空機対艦船ということで単純な比較は難しいものの、神風特攻隊を含む航空特攻で戦死した特攻隊員は陸海軍あわせて約4,000名、一方で上記の通り特攻で死傷した連合軍兵士は最低でも18,000名以上であり、4倍以上の人的損失を与えたことになる。


特攻による人的損害は死亡率が高いことが特徴である。損害の80%以上が特攻による損害とされる沖縄戦でのアメリカ海軍約10,000名に死傷者の中の構成比は、戦死50%:戦傷50%となる。これは沖縄戦全体のアメリカ軍の約75,000名の死傷者の構成比、戦死25%:戦傷75%の倍に当たる。


死亡率が増大した原因については、特攻機は搭載していた爆弾もさることながら、搭載している航空燃料によって機体そのものが高性能の焼夷弾そのものであって、アメリカ軍は特攻機が命中すると「爆弾とナパーム弾が同時に爆発したよう」といって恐れた。火のついた航空燃料を浴びたアメリカ兵は再起不能の重篤な火傷を負うが、艦船の中で受けられる治療は限られており、応急処置の甲斐なく多くのアメリカ兵が火傷によって後日に死亡していった。


また、特攻隊員は艦船の重要箇所への突入を訓練されていたことから、艦橋に突入する特攻機も多く、階級の高い将官の死傷も相次いだ。

ルソン島の戦いを視察にきていたイギリス陸軍のハーバード・ラムズデン中将は、乗艦していた戦艦ニューメキシコ艦橋に特攻機が突入したため戦死している。ラムズデン中将は第二次世界大戦で戦死したイギリス軍最高位の軍人となる。また同時にラムズデン中将の幕僚やニューメキシコ艦長も戦死した。

同ルソン島の戦いではスリガオ海峡海戦西村艦隊の撃破で活躍したセオドラ・チャンドラー少将も特攻で戦死しており、チャンドラー少将も第二次世界大戦で戦死したアメリカ海軍最高位の軍人となる(同階級少将の戦死者は他に3名あり)。

ダグラス・マッカーサー元帥やレイモンド・スプルーアンス提督といった太平洋戦争でアメリカ軍を勝利に導いた立役者たちも、乗艦していた旗艦を特攻機に攻撃されて命の危険にさらされたことがある。


特攻対策

レイテの戦い以降は、アメリカ軍も対策を強化した。具体的には、機動部隊より先行した位置にレーダーピケット艦を配置して、それが早い段階でレーダーで特攻機を発見し、その報告を受けた機動部隊は迎撃機を発艦させ、航空管制であらかじめそれらを優位な高度、位置に展開して待ち伏せるというもの。こういったアメリカ軍の高度な防空システムが確立した沖縄戦では有効率が低下した。

アメリカ軍の統計によれば、フィリピン戦での特攻の有効率は26.8%だったのに対して、沖縄戦では14.7%と10%以上の低下となっている。


ただしこのシステムでは、艦体主力の手前にレーダー探知をするために駆逐艦などで編成されたレーダーピケット艦隊を配置する必要があり、また日本軍もそのレーダーピケット艦を攻撃目標としたため、その任務の駆逐艦は大損害を受けた。その穴を埋める為には機動部隊本隊護衛の駆逐艦を割く必要があり、そうなると今度は機動部隊の護衛がおろそかになるというジレンマにアメリカ軍は悩まされることになった。

また、当然ピケット艦の被害は甚大なものとなり、「どうして我々なんだ?」と困惑したピケット艦の乗組員たちからは「まるで射的場の標的のようだ」「弱いヤギを犠牲に狼から群れを守るような物」と揶揄されている他、被害に堪えかねて『Carriers This Way(空母はあちら)』と大きな矢印の書かれた看板を掲げたピケット艦の例すらある。


評価

アメリカ軍の評価

戦時中において、特攻による損害の多さに士気の低下を懸念したアメリカ軍は、太平洋戦争では最も強力な報道管制を行い、特攻の戦果は上がってないと公表していた。


アメリカ海軍太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ提督の談話では「日本のカミカゼ特攻は完全にその使命に失敗した」と話し、高速空母機動部隊の指揮官マーク・ミッチャー中将は「体当たり攻撃は1%しか効果的ではなかった」と公表していた。実際にこの時のニミッツは「神風特別攻撃隊という攻撃兵力はいまや連合軍の侵攻を粉砕し撃退するために、長い間考え抜いた方法を実際に発見したかのように見え始めた」と今後の苦戦を予感し、ミッチャーは慌てて真珠湾に帰還し、特攻対策のための艦載戦闘機の増強を海軍上層部に訴えている。


しかし、銃後の一般市民は騙せても、実際に戦場で「カミカゼ」と対峙している将兵を騙すことは当然に不可能であるため、将兵たちの恐怖を和らげるために、通常ではあり得ない、戦闘行動中の飲酒を解禁した。また、特攻対策に専用のビデオ教材を作成しており、現在でも探せばYouTube等で閲覧することが可能である。

ミッチャーは特攻により、旗艦の空母が次々と大破し、数日で何度も旗艦を変更した折も、自分のハゲ頭を自虐ネタに使って、「奴ら、俺の頭に髪を生やしたいようだな」と冗談を言って部下をハゲましている。しかし、その後に心労で傍から見ても、酷いやつれ様で、沖縄戦途中で艦隊司令官を更迭され、戦後数年して、現役時に亡くなっている。


特効対策が確立しつつあった沖縄戦においても「十分な訓練も受けていないパイロットが旧式機を操縦しても、集団特攻攻撃が水上艦艇にとって非常に危険であることが沖縄戦で証明された。終戦時でさえ、日本本土に接近する侵攻部隊に対し、日本空軍が特攻攻撃によって重大な損害を与える能力を有していた事は明白である」と評され、沖縄戦において慎重に進軍する陸軍と、特攻を受け続ける海軍で不和が起きた原因ともなっている。

一方で標的のミスに関しては早期から指摘されており、かのマッカーサーは「ありがたい。奴らは我々の軍艦を狙っているが、ほとんどの軍艦は一撃をくらっても耐えうるだろう。しかし、もし奴らが我々の軍隊輸送船をこれほど猛烈に攻撃してきたら、我々は引き返すしかないだろう。」と発言している。

もっとも、これは標的さえ的確であれば進軍不可能になるという裏返しでもあり、米軍にとって特攻が如何に危険な存在であったかが窺える。


日本軍の評価

特攻が戦果を挙げるようになると、それまでの苦戦によって鬱憤がたまっていた日本の軍民は、大手を振って特攻を礼賛するようになり、マスコミの過熱報道がそれに拍車をかけた。

そして、精神主義や自己犠牲賛美と結びつき特攻を褒め称える風潮が軍民問わずの拡大方針に反対する慎重派の軍幹部の意見を次第に封殺するようになった。


しかし、日本軍に特攻のほかに有効な戦術がないのも確かであり、八木・宇田アンテナの開発者である八木秀次博士は、技術院総裁として誘導兵器の開発を指揮していたが、遅々としてはかどらず、また専門であったはずのレーダー開発でも大きく立ち遅れ、「『必死でない必中兵器』を技術当局は作り出す責任があるが、その完成前に『必死必中の特攻』に頼らざるを得ない今の戦局は残念である」という趣旨の答弁を衆議院予算委員会で行って、特攻に頼らないといけない状況を嘆いている。


昭和天皇は「まことに遺憾であるが、しかしながら、よくやった」と称賛したが、皇太子明仁親王は「人的資源を消耗する一方」と疑問を抱いていた。


軍事史学の評価

今日における日本の軍事史学は、特攻を高く評価をしてはいない。


  • 例:軍事史学会の研究論文

特攻は「不条理な死」の一種に分類されている。

(「第二次世界大戦の日本人戦没者像――餓死・海没死をめぐって」、『軍事史学』166号、2006年)


軍事史学会には、かつて特攻作戦参加を命じられたが生還できた、池田武邦も寄稿している。そこで池田は特攻を、「行動美学の実践」と評している(すなわち非感情的・論理的な行動の実践ではなかった)。


その上で、

>日本が戦争に突入してしまった歴史真実の究明と、そこから真の世界平和への道を学びとる叡智こそ重要な課題である

と池田は評している。

(「戦史史話 沖縄海上特攻 (特集 日本のシー・パワー)」、『軍事史学』44巻4号、2006年)


  • 例:行政学者の村上弘の意見

自殺攻撃の発生した背景には伝統的・集団主義的・権威主義的・感性的な文化があることが、複数の先行研究で指摘されている。こうした文化は、「市民」の理念を構成する自律性、合理性とは逆の特性」であり、過度な忠誠や「過労死」にも関連していると考えられている。

(村上弘「強くない日本の市民社会:市民の政治参加の「3層構造」モデル」)


特攻隊員について

桜花

多くの特攻隊員は、天皇、祖国、国体、家族、恋人などを護るためと考えて特攻隊員に志願した。

そもそも基本的には自発的な志願が原則だったと言われているが、これが徹底されていたか否かについては諸説あり、一部同調圧力により仕方がなく志願した例や一時の感情で志願し後に後悔した例、あるいは多くの航空機を失った自部隊への、懲罰的な措置であると認識していた例もあったとされている。

大多数は自発的な志願であったとする説もある一方、実質的に上官の命令であり、拒否権は無かったとする説や、『一応聞いた』という建前に過ぎず、志願を募られた際に白紙を投じても無視されて「諸君らは全員熱望であり白紙は無かった」と伝えられたとの証言もある。

差し当たって、戦時中は「搭乗員は薬を盛られているか、強制されて座席に縛り付けられているのではないか」とする説すらあった米軍による戦後の調査では「大多数は志願であり、強制された例はあったとしても例外であっただろう」と結論付けられている。ただ、同時に熱心な志願者は終戦時点でほぼ消費し尽くされており、志願者を徴集する段階にあったとも分析している。

また、長男や妻子のある者、一人っ子は除外するとの取り決めもあったようだが、これについては初期の時点から妻子のある者が志願とはいえ出撃しており、実質的に形骸化していたことがわかっている。


ただ、陸海軍とも戦闘機隊を中心に上述のように最後まで特攻への部隊員供出を拒絶し、通常出撃を続けた部隊がある他、一部の搭乗員が特攻機として出撃していながら通常攻撃が可能と判断したため通常爆撃を行い、帰還する流れを何度も繰り返した例もある。これらに対し諭す流れはあったが明確に制裁や処分が行われた形跡はなく、現場レベルでは志願制が建前となり形骸化していた例はあっても、全体としては本人の意思が尊重されていたことが窺える。


  • 例:

床尾勝彦(海軍兵学校72期 神風特攻忠誠隊として南西諸島海域で戦死)


>我等の征く処、日本魂の在る処、皇国の安泰、期して俟つべし。


林憲正(慶応義塾大学から学徒出陣、神風特攻第7御盾隊として沖縄で戦死)


>私は郷土を護るためには死ぬことができるであろう。私にとって郷土は愛すべき土地、愛すべき人であるからである。


森茂士(予科練乙飛第19期 神雷第7建武隊として沖縄で戦死)


>吾等には唯国家の二字あるのみ、必ずや日本男子の本分を完遂する覚悟でございます。


原田幸男(予科練 出撃隊名不明 沖縄海域で戦死)


>片思ひだったか知れないけど、男らしく書きます。田島さんはすきだったと!左様なら。



上記のように目的をもって志願した隊員もいれば、特攻による死を目的化している特攻隊員も居た。そのような特攻隊員は同盟国ナチスドイツのドイツ社会主義やドイツロマン主義から多大に影響されて、自分たちの死や日本の崩壊によって、資本主義を超克した、新しい平等な日本が誕生するという思想・信念を持っていたという。


  • 例:

佐々木八郎(東京大学から学徒出陣、神風特別攻撃隊第1昭和隊として鬼界ヶ島東方海上で戦死)


>なお旧資本主義態制の遺物の所々に残存するのを見逃すことはできない。急には払拭できぬほど根強いその力が戦敗を通じて叩きつぶされることでもあれば、かえって或いは禍を転じて福とするものであるかも知れない。フェニックスのように灰の中から立ち上がる新しいもの、我々は今それを求めている。


と記した。この「フェニックス」という表現や、「復活の前提としての暴力的な死」というテーゼもドイツから輸入された概念であり、日本ロマン派(日本浪漫派)やロマン主義的知識人が多用している。

これらの背景となった文化や思想は「死の崇拝」と呼ばれる。大日本帝国では、「死の崇拝」に伴って徳富蘇峰などが「勝利の死」というプロパガンダによって、戦争や自殺攻撃を推進していた。


佐々木は、理系技術者専門家を羨望し、特攻任務を資本家による「搾取」と同一視してもいた。佐々木はゲーテの『ファウスト』に由来する有名なドイツ語を引用した上で、次のように記している。


>Zwei Seelen wohnen Ach〔auch〕 in Mein Herz!!(ああ、我が心に宿る二つの!!) … 主計や軍令部付になるのは優秀な成績の者だと言われたり、才能もない輩が技術医務課の用のために安全な所に残って、しかもチヤホヤされるのを見たりすると、我々の如きは彼等の以て名目とする“国家”のために最も危険な所に置かれるのであると思い、かつて労働者資本家搾取されるとして労働を厭うた如き気分に陥ることもあるのである。そして自分に航空適性があるといって張り切る如きは全く馬鹿の骨頂だ、うまく二乙、三乙に逃れ、主計、技術、医務等に残って身を全うする者こそ本当に利口なんだ、そう思うこともあるのである。



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