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神風特攻隊

かみかぜまたはしんぷうとっこうたい

太平洋戦争末期、日本海軍が行った特攻隊の一つ。全体から見ると、特攻戦死者数は約4400人、命中率は16.5%だった(算出方法によって若干変動する)。
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神風特攻隊とは

太平洋戦争末期に敵主力艦全般の破壊及び作戦継続不可能を目的とした体当たり、その編成チームの名前である。正式名称を神風特別攻撃隊と言う。

名称について

現在ではほぼ「かみかぜ」の名前で知られる事となったが、本来は「しんぷう」であり、これは取材した新聞社が間違えて伝えたからであるが、戦争中でも米軍から「カミカゼ」と恐れられた事から見ても、「しんぷう」の名前はほとんど使われなかったものと思われる。

現在でも、外国、特に特攻の相手となったアメリカで「カミカゼ」「トッコウ」はそのまま通用し、2001年9.11事件の際も「カミカゼの再来」と言われる事になる。

  • 様々な辞書や研究論文でも、「神風」・「kamikaze」は自爆テロを指したり、それに類似した自殺攻撃を指すのに使われる。
    • 神風特攻隊は当時でも有名であり、神風戦術は日本以外へ広まり採用された。たとえばナチスドイツではエルベ特攻隊が編成され、イスラム世界では「神の党」などがジハード(努力・自爆テロ)を実行した。

概要

神風特別攻撃隊は、太平洋戦争の末期に、資源・人材に困窮し追い詰められた日本海軍が編成した航空機の特別攻撃隊である。

1944年10月20日に大西瀧次郎(オオニシ タキジロウ)中将によって開始された。命名者は猪口力平(イノグチ リキヘイ)中佐である。(大西中将個人でこのような作戦が遂行できたのかは疑問であり、特攻兵器桜花による部隊編成もこれ以前に行われている事から、終戦時に自決した大西中将に作戦立案・遂行の責任を全て押し付けているとの説もある)
由来は郷里の道場「神風(シンプウ)流」から名付けたものである。
神風特攻隊、神風と略されることもある。

詳細

死(自殺)を前提に戦うことは、たとえば18世紀ドイツの「死の喜び」(トーマス・アプトのエッセイに由来する思想)や、第一次世界大戦の「愛国青年団体」の自殺攻撃などが先例として既にあった。
しかし、近代軍事組織による作戦上の自殺攻撃は、神風特攻隊が世界初と言える。

神風特攻隊の最初の隊の目標は敵空母の使用不可能を目的とし1944年10月27日には目的を達成。
しかしレイテ島付近で戦闘が続いた為、目標に敵主要艦船も加えられた。
1945年1月下旬には全ての敵艦船が目標となった。

旧日本軍の悪弊である精神主義や自己犠牲賛美と結びつき特攻を褒め称える風潮が軍民問わず広まり、神風特効の拡大方針に反対する慎重派の軍幹部の意見も批判されるようになっていた。
そのような状況で、八木・宇田アンテナの開発者である八木秀次博士は「『必死でない必中兵器』を技術当局は作り出す責任があるが、その完成前に『必死必中の特攻』に頼らざるを得ない今の戦局は残念である」という趣旨の答弁を衆議院予算委員会で行って、軍部の方針と戦略を暗に批判している。

創設者であることから「特攻の父」とも称された大西中将だが、彼自身は特攻を「統率の外道」と称しており、むしろ特攻には否定的だった。
昭和天皇は「まことに遺憾であるが、しかしながら、よくやった」と称賛したが、皇太子明仁親王は「人的資源を消耗する一方」と疑問を抱いていた。

創設

1944年10月19日大西中将は夕刻マバラカット飛行場第201海軍航空隊本部で201空副長玉井浅一中佐、一航艦首席参謀猪口力平中佐、二十六航空戦隊参謀吉岡忠一中佐らを招集し会議を開いた。大西は「米軍空母を1週間位使用不能にし、捷一号作戦を成功させるため零戦に250㎏爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに確実な攻撃法はないと思うがどうだろう」と提案した。

山本司令が不在だったため玉井副長が自分だけでは決められないと答えた。大西は、山本司令から同意を得ていることを伝え、決行するかは玉井に一任した。玉井は時間をもらい飛行隊長の指宿、横川らと相談して体当たり攻撃を決意し大西に伝えた。玉井はその際編成に関しては航空隊側に一任してほしいと要望して大西はそれを許可した。

特攻の指揮官の選定は、猪口参謀から海軍兵学校出身者という意向を受けて玉井副長が関行男を指名した。猪口力平によれば指名された際にその場で熟考の後「ぜひやらせてください」と即答したというが、玉井浅一によれば関は「一晩考えさせてください」
と即答を避け翌朝受けると返事をしたという。報道官に関は天皇陛下の為でも日本帝国の為でも無く「KA(妻)をアメ公(アメリカ)から守るために死ぬ」と語ると共に腕に自信のある自分をこんな攻撃で死なせるようでは日本もお終いだという内容の事も語ったともいう。

編成を一任された玉井浅一は自分が育てた甲飛10期生を中心に33名を集め志願を募り24名の特攻隊を編成した。玉井によれば、大西の決意と特攻の必要性を説明し志願を募ると皆喜びの感激に目をキラキラさせ全員もろ手を上げて志願したという。志願者した山桜隊の高橋保男によれば「もろ手を挙げて志願した。意気高揚した。」という。志願者井上武によれば、中央は特攻に消極的だったため現場には不平不満がありやる気がうせていた、現場では体当たり攻撃するくらいじゃないとだめと考えていた、志願は親が死んだ上官の玉井だからこそ抵抗もなかったという。

しかし当時の志願者の中には、特攻の話を聞かされ一同が黙り込む中、玉井中佐が「行くのか行かんのか」と叫びさっと一同の手が上がったと証言するものもいる。
志願した浜崎勇によれば「仕方なくしぶしぶ手をあげた」と言う。
志願した佐伯美津男によれば強制ではないと説明された、セブで100機近く零戦を失った201空の責任上の戦法で後に広がるとは思わなかったという。
猪口力平参謀が「神風特別攻撃隊」の名前を提案し玉井も「神風を起こさなければならない」と同意して、大西がそれを認めた。
また大西は各隊に本居宣長の歌「敷島の大和心を人問わば朝日に匂ふ山桜花」から敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊と命名した。

戦果

『国史大辞典』では
>全期間を通じての特攻戦死者数は約四千四百人、命中率は十六・五%であった。
と記されている。

『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』では、次のようにある。
>戦果としては、駆逐艦以上の戦闘用艇約20隻を撃沈し、約200隻を損傷させた。命中率は普通爆撃よりすぐれるが、有翼機自体の体当りは、撃速が小で、貫徹力に欠け、損傷船に比べて撃沈数は10分の1にとどまった。
>このような非常な攻撃手段をとらざるをえなかったことは、日本軍がフィリピン防衛作戦 (1944.10.) 以後,もはや戦争継続能力を喪失しつつあったことを示している。

『日本大百科全書(ニッポニカ)』では、次の通りである。
>米軍は、レーダー網の整備や艦載戦闘機・対空火力の増強、特攻機の出撃基地に対する攻撃などによって特攻攻撃に対抗したため、日本軍搭乗員の練度の低下とも相まって、大多数の特攻機は目標突入以前に撃破され、戦局に影響を与えるほどの戦果をあげることはできなかった。
>こうした特攻攻撃は、悪化する戦局に対する軍上層部の焦慮感と兵士の人命を軽視する思想が生み出した特異な戦法であり、特攻攻撃への参加も、基本的には各自の志願によるものとされていたが、実際には、さまざまな形での強制が働いた場合も少なくなかった。

社会学者青木秀男の研究論文いわく、特攻の定義や用いられた資料により、出撃回数・出撃機数・帰還機数・戦果といった算定は変わる。

  • 服部省吾の算定:「出撃総数は約3,300機、敵艦船への命中率11.6%、至近突入5.7%、命中32隻、損傷368隻」。
  • 生田惇の算定:「出撃機数2,483機、奏功率16.5%、被害敵艦数358隻」。

当事者による戦果の評価

戦果については概して、アメリカ側は否定し、日本側は肯定するという傾向がある。

当時のアメリカ側は、当初特攻の戦果を殆ど皆無に等しいと主張し、アメリカ海軍太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ提督の談話では「日本のカミカゼ特攻は完全にその使命に失敗した」と話し、高速空母機動部隊の指揮官マーク・ミッチャー中将は「体当たり攻撃は1%しか効果的ではなかった」と公表していた。

しかし、これらは特攻攻撃がアメリカ海兵隊の兵士達に与えた衝撃と恐怖があまりに強大であったために、極度に過小評価して事態を鎮静しようとしたためだという(神経症を患い本国に帰還した者もいたという)。ミッチャー提督も心労で傍から見ても、酷いやつれ様であったと言われる。(それでも指揮官らしく特攻により一日で何度も旗艦を変更した折は、禿頭の彼は「奴ら、俺の頭に髪を生やしたいようだな」と冗談を言って部下を和ませたと言われる)

日本側は戦果を報告する直掩機を充分に編制できず、不完全な記録しか残っておらず、そのため特攻の戦果は大方アメリカ側の記録に依存せざるを得ず、厳密な数字には史料間でズレがあるが大筋は変わらない。おおよそ、特攻は多大な戦果を挙げたと述べられることが多い。

以下、アメリカ海軍が戦後公式に発表した『第二次大戦米国海軍作戦年誌』より
期間
昭和19年10月から10ヶ月間
作戦
フィリピン方面作戦、台湾・硫黄島作戦、沖縄決戦
戦果
沈没:32隻(護衛空母3隻、駆逐艦14隻、小艦艇およびその他15隻)
損傷:278隻(正規空母16隻、軽空母3隻、護衛空母17隻、戦艦14隻、重巡洋艦6隻、軽巡洋艦8隻、駆逐艦143隻、小艦艇およびその他71隻

米海軍機密文書『Observed Suicde Attacks by Japanese Aircraft Against Allied Ships』によれば、1944年10月から翌年3月まで5ヶ月間の沖縄戦以前の記録は、体当たり攻撃356回、特攻命中140機で命中率39%、敵艦至近での自爆によって被害を与えた特攻機59機で、至近自爆被害率17%となり、合計特攻効果率56%という数値を記載している。
もっとも上記の成功率は対象軍艦の視界内に特攻機が現れてからの最終段階での結果であり、機動部隊より先行した位置にレーダーピケット艦を配置して、それが早い段階でレーダーで特攻機を発見し、報告を受けた機動部隊は迎撃機を発艦させ、航空管制であらかじめそれらを優位な高度、位置に展開して待ち伏せる前段階を含むアメリカ軍の高度な防空システムが確立した沖縄戦ぐらいからは成功率は特に減少しているようである。
(ただ、このシステムでは、遠距離で疲労した特攻隊のパイロットはまず発見したレーダーピケット艦である駆逐艦を攻撃するきらいがあり、その任務の駆逐艦は大損害を受けた。その穴を埋める為には機動部隊本隊護衛の駆逐艦を割く必要があり、そうなると今度は機動部隊の護衛がおろそかになるというジレンマをアメリカ側は味わった。レーダーピケット艦の中には「勇敢なる日本軍パイロットに告げる。機動部隊はあちら、あちらですよ(勿論、位置は書いていない)」と書いた垂れ幕を掲げて士気を高めた艦もいたという)

  • なお、特攻機が撃沈できた正規空母や戦艦などの主力艦は1隻も存在しない(上述の通り、損傷によって戦線離脱に追い込んだケースは割とあるが、撃沈に比べればはるかに戦力の回復が早いのは言うまでも無い)。特攻機は零戦などの小型機が主力であり、搭載できた爆弾は250㎏~500㎏爆弾であったが、主力艦は250㎏~500㎏爆弾1~2発程度の命中では、積載弾薬や燃料の連鎖的な誘爆でもない限りは簡単に沈むものではなかった。また、攻撃の性質上、艦の上部構造物は破壊できるが、喫水線以下に大きなダメージを与えることが困難であった(そのため、中型以上の艦艇を沈没まで至らせるほどの効果があるのかは日本側も疑問を持っていた)。この事が、特攻の成果に対する低評価に繋がっている、とする指摘もある。とはいえ、以上の問題は特攻のみの問題でなく、航空機による艦船攻撃全体についても同じ事が言えた。

評価

軍事史学の評価

特攻について軍事史学は、決して高い評価をしているとは言えない。

  • 例:軍事史学会の研究論文
特攻は「不条理な死」の一種に分類されている。
(「第二次世界大戦の日本人戦没者像――餓死・海没死をめぐって」、『軍事史学』166号、2006年)

軍事史学会には、かつて特攻作戦参加を命じられたが生還できた、池田武邦も寄稿している。そこで池田は特攻を、「行動美学の実践」と評している(すなわち非感情的・論理的な行動の実践ではなかった)。

その上で、
>日本が戦争に突入してしまった歴史真実の究明と、そこから真の世界平和への道を学びとる叡智こそ重要な課題である
と池田は評している。
(「戦史史話 沖縄海上特攻 (特集 日本のシー・パワー)」、『軍事史学』44巻4号、2006年)

「特攻の目的は…死ぬことにあるんだ」

神風特攻隊は、いわゆる愛国主義や"命をかけた戦い"とは異なり、"死"そのものが目的化している面もあった。

  • 例:
生還した特攻隊員の角田和男によると、ではなく桟橋へ体当たりするよう命じられた特攻隊員も居た(フィリピンのレイテ島タクロバンの桟橋)。その隊員は「そこには輸送船もいるんだから、空振りでもいいから輸送船に体当たりさせてほしい。いくらなんでも、桟橋に体当たりするのはいやだ」と中島飛行長に頼んだ。しかし中島飛行長は、

>文句を言うんじゃない、特攻の目的は戦果にあるんじゃない、死ぬことにあるんだ!

と怒鳴りつけたという。
(森山康平『特攻』2007年、太平洋戦争研究会、83ページ)

死を目的化している特攻隊員も居た。
当時の大日本帝国はナチズム(国家社会主義)と同盟しており、その中で特攻隊員は、ドイツ社会主義やドイツロマン主義から多大に影響されていた。
そのため特攻隊の中には、自分たちの死や日本の崩壊によって、資本主義を超克した、新しい平等な日本が誕生するという思想・信念さえ存在していた。

  • 例:
特攻隊員の佐々木八郎は

>なお旧資本主義態制の遺物の所々に残存するのを見逃すことはできない。急には払拭できぬほど根強いその力が戦敗を通じて叩きつぶされることでもあれば、かえって或いは禍を転じて福とするものであるかも知れない。フェニックスのように灰の中から立ち上がる新しいもの、我々は今それを求めている。

と記した。この「フェニックス」という表現や、「復活の前提としての暴力的な死」というテーゼもドイツから輸入された概念であり、日本ロマン派(日本浪漫派)やロマン主義的知識人が多用している。

神風特攻隊にはこのような特徴があり、その背景となった文化や思想は「死の崇拝」と呼ばれる。大日本帝国では、「死の崇拝」に伴って徳富蘇峰などが「勝利の死」というプロパガンダによって、戦争や自殺攻撃を推進していた。
「死の崇拝」は、ナチスドイツのエルベ特攻隊や、イスラム過激派の「死は勝利」(自爆テロ)や「神の党」(ヒズボラ)の自爆戦術にも共通している。

  • 大日本帝国の神風特攻隊(さらにはその同盟国であるナチスドイツの自殺攻撃やエルベ特攻隊)が、現実の作戦としてどこまで有効だったかは疑わしい。上記のように、神風特攻隊は必ずしも苦肉の策ではなく、「」や神話的・宗教的蘇生を目的とする、「死の崇拝」の面もあった。
    • 実際、大日本帝国へ英雄主義や「死の崇拝」を伝えたドイツは、二度の世界大戦でいずれも敗北している。
    • 行政学者の村上弘によると、自殺攻撃の発生した背景には伝統的・集団主義的・権威主義的・感性的な文化があることが、複数の先行研究で指摘されている。こうした文化は、「市民」の理念を構成する自律性、合理性とは逆の特性」であり、過度な忠誠や「過労死」にも関連していると考えられている。
(村上弘「強くない日本の市民社会:市民の政治参加の「3層構造」モデル」)

隊員の遺書

特攻隊として出撃する隊員達が家族などに向けて書いた遺書は靖国神社の遊就館に展示されている。
隊員達の日記や家族に宛てた手紙は、大日本帝国への批判や特攻任務への拒否感、苦悩や絶望等について記されているが、これらは展示されていない。

特攻隊員の佐々木八郎は、理系技術者専門家を羨望し、特攻任務を資本家による「搾取」と同一視してもいた。佐々木はゲーテの『ファウスト』に由来する有名なドイツ語を引用した上で、次のように記している。

>Zwei Seelen wohnen Ach〔auch〕 in Mein Herz!!(ああ、我が心に宿る二つの!!) … 主計や軍令部付になるのは優秀な成績の者だと言われたり、才能もない輩が技術医務課の用のために安全な所に残って、しかもチヤホヤされるのを見たりすると、我々の如きは彼等の以て名目とする“国家”のために最も危険な所に置かれるのであると思い、かつて労働者資本家搾取されるとして労働を厭うた如き気分に陥ることもあるのである。そして自分に航空適性があるといって張り切る如きは全く馬鹿の骨頂だ、うまく二乙、三乙に逃れ、主計、技術、医務等に残って身を全うする者こそ本当に利口なんだ、そう思うこともあるのである。

特攻隊をテーマにした作品

映画

ドラマ

音楽

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