曖昧さ回避
- 『ラヴヘブン』の登場人物→ゲーテ(ラヴヘブン)
- 『文豪とアルケミスト』の登場人物→ゲーテ(文豪とアルケミスト)
概要
フルネームはヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)。
1749年にドイツ・フランクフルト・アム・マインで生まれ1832年にワイマールで没す。
詩人であり小説家、法律家、博学者でもあった。ドイツを代表する文豪であり、近世ドイツに大きな影響を与えた。さらに、哲学者としても当代一流の人物であった。政治家としてもヴァイマル公国の宰相を務め、男爵となった。
自然科学に関しても論文を残している。特に地理や考古学、色彩論に関するものが有名。
音楽は保守的なもの、民謡を理想とした。シラーの死を経た晩年も創作意欲は衰えず、公務や自然科学研究を続けながら『親和力』『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』『西東詩集』など円熟した作品を成した。大作『ファウスト』は20代から死の直前まで書き継がれたライフワーク。ほかに旅行記『イタリア紀行』自伝『詩と真実』、自然科学者として『植物変態論』『色彩論』などの著作を残している。
文豪としての代表作は、1人の若い貴族の愛と挫折、死を描いた小説「若きウェルテルの悩み」や、悪魔と契約したファウスト博士の生き様を描いた戯曲「ファウスト」。
かつては日本でも文学青年によく読まれていた。手塚治虫、水木しげるなどはそのリスペクトする人として有名である。
生涯
1749年8月28日、自由帝国都市であったフランクフルト・アム・マインの裕福な家庭にヨハン・ヴォルフガング・ゲーテとして生まれる。父方の家系はもとは蹄鉄工を家業としていたが、ゲーテの祖父フリードリヒ・ゲオルク・ゲーテはフランスで仕立て職人としての修業を積んだ後、フランクフルトで旅館経営と葡萄酒の取引で成功し大きな財を成した。その次男ヨハン・カスパーがゲーテの父である。
彼は大学を出たのちにフランクフルト市の要職を志したがうまく行かず、枢密顧問官の称号を買い取った後は職に就かず、文物の蒐集に没頭。母エリーザベトの実家テクストーア家は代々法律家を務める声望ある家系であり、母方の祖父は自由都市フランクフルトの最高の地位である市長も務めた。ゲーテは長男であり、ゲーテの生誕した翌年に妹のコルネーリアが生まれている。その後さらに3人の子供が生まれているがみな夭折し、ゲーテは2人兄妹で育った。
ゲーテ家は明るい家庭的な雰囲気であり、少年時代のゲーテも裕福かつ快濶な生活を送った。当時のフランクフルトの多くの家庭と同じく宗派はプロテスタントであった。
父は子供たちの教育に関心を持ち、幼児のときから熱心に育てた。ゲーテは3歳の時に私立の幼稚園に入れられ、読み書きや算数などの初等教育を受けた。5歳から寄宿制の初等学校に通うが、7歳のとき天然痘にかかって実家に戻り、以後は父が家庭教師を呼んで語学や図画、乗馬、カリグラフィー、演奏、ダンスなどを学ばせた。ゲーテはそのなかでは語学に長けており、少年時代にはすでに英語、フランス語、イタリア語、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語を習得。
少年時代のゲーテは読書を好み、『テレマック』や『ロビンソン・クルーソー』などの物語を始め手当たり次第に書物を読んだ(その中には『ファウスト』の民衆本も含まれる)。詩作が評判であったのも、幼少の頃からであり、最も古いものではゲーテが8歳の時、母方の祖父母に宛てて書いた新年の挨拶の詩が残っている。
これは法学を学ばせて息子を出世させたいという父親の意向であるが、ゲーテ自身はゲッティンゲンで文学研究をしたかったと回顧している。ゲーテは「フォイアークーゲル」という名の大きな家に二間続きの部屋を借りて、最新のロココ調の服を着て都会風の生活をし、法学の勉強には身が入らなかった。この時期、ゲーテは通っていたレストランの娘で2、3歳年上のアンナ・カトリーナ・シェーンコプフ(愛称ケートヒェン)に恋をし、『アネッテ』という詩集を贈る。 しかし都会的で洗練された彼女に対するゲーテの嫉妬が彼女を苦しめることになり、この恋愛は破局。さらに原因不明の病魔に苦しめられ、3年で自主退学。19歳のゲーテは故郷フランクフルトに戻り、その後1年半ほどを実家で療養することになる。この頃、ゲーテは母方の親戚スザンナ・フォン・クレッテンベルクと知り合った。彼女は真の信仰を魂の救済に見出そうとするヘルンフート派の信者であり、彼女との交流はゲーテが自身の宗教観を形成する上で大きな影響を与えた(後の『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』の第六部「美しい魂の告白」は彼女との対話と手紙から成っている)。またこの頃ゴットフリート・アルノルトの『教会と異端の歴史』を通じて異端とされてきた様々な説を学び、各々が自分の信じるものを持つことこそが真の信仰であるという汎神論的な宗教観を持つに至った。またゲーテはこの時期に自然科学に興味を持ち、実験器具を買い集めて自然科学研究にも精を出している。ゲーテは地質学から植物学、気象学まで自然科学にも幅広く成果を残しているが、既にこの頃にはその基礎を作り上げていた。
1770年、ゲーテは改めて勉学へ励むため、フランス的な教養を身につけさせようと考えた父の薦めもあってフランス領シュトラスブルク大学に入学した。この地で学んだ期間は1年少しと短かったが、ゲーテは多くの友人を作ったほか、作家、詩人としての道を成す上での重要な出会いを体験している。
とりわけ大きいのがヨハン・ゴットフリート・ヘルダーとの出会いである。ヘルダーはゲーテより5歳年長であるに過ぎなかったが、理性と形式を重んじる従来のロココ的な文学からの脱却を目指し、自由な感情の発露を目指すシュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)運動の立役者であり、既に一流の文芸評論家として名声もあった。当時無名の学生であったゲーテは彼のもとへ足繁く通い、ホメロスやシェークスピアの真価や聖書、民謡(フォルクス・リート)の文学的価値など、様々な新しい文学上の視点を教えられ、作家・詩人としての下地を作っていった。
またこの時期、ゲーテはフリーデリケ・ブリオンという女性と恋に落ちている。彼女はシュトラースブルクから30キロほど離れたゼーゼンハイムという村の牧師の娘であり、ゲーテは友人と共に馬車で旅行に出た際に彼女と出会った。彼女との恋愛から「野ばら」や「五月の歌」などの「体験詩」と呼ばれる抒情詩が生まれるが、しかしゲーテは結婚を望んでいたフリーデリケとの恋愛を自ら断ち切ってしまう。この出来事は後の『ファウスト』に書かれたグレートヒェンの悲劇の原型になったとも言われている。
1771年8月、22歳のゲーテは無事に学業を終え故郷フランクフルトに戻った。しかし父の願うような役所の仕事には就けなかったため、弁護士の資格を取り書記を一人雇って弁護士事務所を開設。友人、知人が顧客を回してくれたため当初から仕事はそこそこあったが、しかしゲーテは次第に仕事への興味を失い文学活動に専念するようになった。ゲーテは作家のヨハン・ハインリヒ・メルクと知り合って彼の主宰する『フランクフルト学報』に文芸評論を寄せ、またこの年の10月から11月にかけて処女戯曲『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』の初稿を書き上げた。しかし本業をおいて文学活動に没頭する息子を心配した父により、ゲーテは法学を再修得するために最高裁判所のあったヴェッツラーへと送られることになった。
フランス革命
フランス革命に対しては、ゲーテは当初その自由を希求する精神に共感したが、その後革命自体が辿った無政府状態に対しては嫌悪を感じていた。
1792年7月、フランスがドイツに宣戦布告すると、プロイセン王国の甲騎兵連隊長であったアウグスト公に連れ立ってゲーテも従軍し、ヴァルミーの戦いに参加。この戦いにおけるフランス革命軍の勝利に対し、『ここから、そしてこの日から、世界史の新たな時代が始まる。』との言葉を残す。
シラーとの交流
ゲーテとフリードリヒ・シラーは、共にドイツ文学史におけるシュトゥルム・ウント・ドラングとヴァイマル古典主義(「ドイツ古典主義」、「擬古典主義」などとも)を代表する作家として並び称されるが、出合った当初はお互いの誤解もあって打ち解けた仲とはならなかった。ゲーテは1788年にシラーをイェーナ大学の歴史学教授として招聘しているが、その後1791年にシラーが『群盗』を発表すると、すでに古典の調和的な美へと向かっていたゲーテは『群盗』の奔放さに反感を持ち、10歳年下のシラーに対して意識的に距離を置くようにしていた。シラーのほうもゲーテの冷たい態度を感じ、一時はゲーテに対し反感を持っていた。
だがその後1794年のイェーナにおける植物学会で言葉を交わすとゲーテはシラーが自身の考えに近づいていることを感じ、以後急速に距離を縮めていった。この年の6月13日にはシラーが主宰する『ホーレン』への寄稿を行っており、1796年には詩集『クセーニエン』を共同制作し、2行連詩形式(エピグラム)によって当時の文壇を辛辣に批評した。
こうして互いに友情を深めるに連れ、2人はドイツ文学における古典主義時代を確立していくことになった。
この当時、自然科学研究にのめりこんでいたゲーテを励まし、「あなたの本領は詩の世界にあるのです」といってその興味を詩作へと向けさせたのもシラーであった。ゲーテはシラーからの叱咤激励を受けつつ、1796年に教養小説の傑作『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』を、翌年にはドイツの庶民層に広く読まれることになる叙事詩『ヘルマンとドロテア』を完成させた。1799年にはシラーはヴァイマルへ移住し、二人の交流はますます深まる。また『ファウスト断片』を発表して以来、長らく手をつけずにいた『ファウスト』の執筆をうながしたのもまたシラーである。ゲーテは後に「シラーと出会っていなかったら、『ファウスト』は完成していなかっただろう」と語っている。
1805年5月9日、シラーは肺病のため若くして死没。
シラーの死の直前まで、ゲーテはシラーに対して文学的助言を求める手紙を送る。周囲の人々はシラーの死が与える精神的衝撃を憂慮し、ゲーテになかなかシラーの訃報を伝えられなかったという。実際にシラーの死を知ったゲーテは「自分の存在の半分を失った」と嘆き、周囲の不安どおり病に伏せっている。
一般にドイツ文学史における古典主義時代は、ゲーテのイタリア旅行(1786年)に始まり、このシラーの死をもって終わるとされている。なお1794年からシラーが没するまでの約11年間で交わされた書簡は1000通余りである。
晩年
1806年、イエナ・アウエルシュタットの戦いに勝利したナポレオン軍がヴァイマールに侵攻。
この際酔っ払ったフランス兵がゲーテ宅に侵入して狼藉を働いたが、未だ内縁の妻であったクリスティアーネが駐屯していた兵士と力を合わせてゲーテを救った。ゲーテはその献身的な働きに心を打たれ、また自身の命の不確かさをも感じ、20年もの間籍を入れずにいたクリスティアーネと正式に結婚することに決めた。カール・アウグスト公が結婚の保証人となり、式は2人だけで厳かに行なわれた。
また1808年にナポレオンの号令によってヨーロッパ諸侯がエアフルトに集められると、アウグスト公に連れ立ってゲーテもこの地に向かい、ナポレオンと歴史的対面を果たしている。『若きウェルテルの悩み』の愛読者であったナポレオンはゲーテを見るなり「ここに人有り!(Voila un homme!)」と叫び感動を表した。
晩年のゲーテは腎臓を病み、1806年より頻繁にカールスバートに湯治に出かけるようになる。ここで得た安らぎや様々な交流は晩年の創作の原動力となった。1806年には長く書き継がれてきた『ファウスト』第1部がようやく完成し、コッタ出版の全集に収録される形で発表された。1807年にはヴィルヘルミーネ・ヘルツリープという18歳の娘に密かに恋をし、このときの体験から17編のソネットが書かれ、さらにこの恋愛から二組の男女の悲劇的な恋愛を描いた小説『親和力』(1809年)が生まれている。またこの年から自叙伝『詩と真実』の執筆を開始し、翌年には色彩の研究をまとめた『色彩論』を刊行している。1811年『詩と真実』を刊行。1816年、妻クリスティアーネが尿毒症による長い闘病の末に先立つ。
1817年、30年前のイタリア旅行を回想しつつ書いた『イタリア紀行』を刊行。最晩年のゲーテは「文学は世界的な視野を持たねばならない」と考えるようになり、エマーソンなど多くの国外の作家から訪問を受け、バイロンに詩を送り、ヴィクトル・ユゴー、スタンダール・リエージュなどのフランス文学を読むなどしたほか、オリエントの文学に興味を持ってコーランやハーフェズの詩を愛読した。このハーフェズに憧れてみずから執筆した詩が『西東詩集』(1819年)である。
人物
- 道を散歩しているさなか、若い頃のベートーヴェンに遭遇。ゲーテの方が身分が上なのでベートーヴェンが道を譲るべきなのだが、旧来の身分制度を嫌ったベートーヴェンは頑として道を譲らなかった。このことはゲーテを苛つかせた。
- シューベルトはゲーテの信者であり、何百通ものファンレターをゲーテに送った。中にはゲーテに宛てた楽譜もあったが、その殆どがボツ。唯一、魔王だけはゲーテが認めた戯曲である。
- 人体の骨組織のひとつ・前顎骨を発見している。ヒツジを見て、ヒトにも同様のものがあると思い立ったという。
- 何万種もの標本を残している。
- 日本では異常に呼び名が多いことで有名。「ギョエテ」「ゲョエテ」「ギョーツ」「グーテ」「ゲエテ」など。舞台ドイツ語の影響だという。
作品
- ファウスト
- 若きウェルテルの悩み⋯当時、これを読んだ若者の自殺ブームが起こり、ウェルテル効果とよばれるようになった。
- 魔王
- ヴィルヘルム・マイスターの修業時代⋯教養小説の傑作、
- ヘルマンとドローテア
- ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン⋯処女戯曲。
- イタリア紀行
関連タグ
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- シラー⋯ゲーテと並ぶドイツの詩人。
参考
- ウィキペディア