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水木しげる

みずきしげる

日本の漫画家、妖怪研究家。大正11年(1922年)3月8日 - 平成27年(2015年)11月30日。
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水木しげる(本名:武良茂 〔むら しげる〕)は、日本漫画家妖怪研究家。一人称は「水木サン」。
その功績と長寿から、ファンからは「水木御大」の愛称で親しまれた。

人物

まさに泰然自若、超マイペースを絵に描いたような人物であった。
眠ることがとにかく大好きで、特に某公共放送生放送で水木夫妻に対するインタビューにやってきた際もマイペースに眠っていて、妻の布枝夫人だけがコメントをする羽目になったことがある。(ただしこの時のインタビューは布枝夫人を対象にしたものだったので特に問題なかったらしい)
ある時、漫画の神様ヒーロー作品の大家がお互いに不眠ぶりを自慢しあっていた際に「僕はどんな時でも10時間は寝ます。生きるためには寝なくては」と説いたところ両氏に笑われたというエピソードがあるが、その二人よりも歳上にも関わらず遥かに長生きをして持論を体現してみせた(水木と同様90歳過ぎまで活躍した遅咲き漫画家にも似たようなエピソードがあったりする)

食に対する執着心も強い。父親も胃が突出して強く、息子三人からイトツという渾名を付けられていたほど食いしん坊な人であった。それを受け継いだ水木自身は何でも食べる浅ましい奴という意味でズイダなどと呼ばれ、「国旗の先についている金の玉がおいしそうなので」食べようとしたなど、すさまじいエピソードがある。90を過ぎた辺りでもなおその食欲は健在で、メガマックドミノピザなどを平気で食べ、スタバデビューまで果たした程だった。

第二次世界大戦前以来のスタイルを受け継いだ古風な漫画調と、繊密で濃厚な劇画調を合わせた独特の画風。pixivではその画風を真似て描かれたイラストの作品が多い。なお公式の物でもパロディ的な画風は散見されるが、殆どワンアンドオンリーであり、弟子である京極夏彦荒俣宏池上遼一つげ義春の作風は、時に影響を受けつつも水木のそれと基本的には全く異なる。
ゲゲゲの鬼太郎』を代表とする妖怪漫画や怪奇漫画が特に有名であるが、それ以外にも世相を独自の視点で皮肉った風刺的な短編作品、自身の戦争体験に取材した『総員玉砕せよ!』等の戦争物、『劇画ヒットラー』のような伝記、現実に日本を含む世界各地で起きた妖怪的出来事を題材にした作品及びそれらに関わった人物の史伝的作品など、幅広く発表した。

1970年代に「南方へ引っ越す」ことを決意、家族へ「蚊はマラリアを持ってるから食われると一発でアウトだ」「一日三時間くらい畑仕事をしてればあとは寝ていられる」「意地汚いお父ちゃんでも食えない不味いイモがあった」などと説得(本人は大まじめならしい)、本気で行こうと思っていたらしいのだが、ラバウルの知り合いが酋長になり文明を受け入れると言ったため断念。その酋長トぺトロとはトラックを買ってやり、死後葬式も古式に則って出すなど生涯の友情が続いた。ラバウルはトペトロの死後に起きた火山の大噴火で一時期壊滅的な被害を受けてしまい、住民はオーストラリアなど別の地に移住したが、遺族と水木プロの交流は現在も絶たれてはいないとの事。

生涯

大正11年(1922年)3月8日、・武良亮一と・琴江の次男として大阪で生まれ、生後一ヶ月で鳥取県境港に帰郷。幼少期は「のんのんばあ」というお婆さんを慕い、昔話や死後の世界、妖怪の存在を聞いて育ち、絵描きに励んだ。

持ち前ののんびりした性格からどの職場も長続きせず、誤解も受けて転職を繰り返すはめに。絵を描きながら読書と宝塚に熱中する生活を送るが、そうこうするうちに戦争が始まり、昭和18年(1943年)に召集される。帝国陸軍鳥取連隊入隊。軍隊でもマイペースぶりで古兵から目を付けられてビンタの毎日。使い道が無いと見なされラッパ手にされるが練習しても上手く吹けずにビンタと敷地内を走らされる罰の日々に耐え切れず、自ら配置転換を申し出るという軍隊の常識では考えられない行動に出た結果、南方戦線に派遣されることが決定し目の前が真っ暗になるほどの衝撃を受けた。(上官から「南か?北か?」と問われ、本土内配置のつもりで「南であります」と答えてしまった)
最前線でも不運と虐めの連続で、ニューブリテン島ラバウルでは自分のマイペースぶりから上官にビリケツの不寝番を命じられて、それが幸いして自分以外の前線兵が全員戦死するも分隊で一人生き残る結果となった。しかし、自身も悲惨な逃避行を送り、命からがら本隊に帰還したが、「何で死ななかったんだ、この敗残兵」と上官から罵られてビンタされ、絶望的な心境へ追い込まれる。その後マラリアを発病して寝込んでいたところ、近くに落ちた砲弾の破片を浴びる重傷を追い、やむなく左腕を失ってしまった(その際の手術に麻酔は用いられず、激痛に霞む意識の中、血がバケツ一杯に溜まっていたことを覚えていたという)。
仲良くなったトライ族の現地住民達(水木は土と共に生きる人という意味合いで土人と呼ぶ)に助けられて九死に一生を得、彼らに惜しまれながら(酋長であったらしいイカリエンというおばさんから「家と嫁と畑を世話してやるから残れ」と言われたが、「包帯を巻いてる左腕の切断面に骨が出てるから再手術しないと死ぬ可能性がある」と軍医に言われて結局日本へ帰ることを決意。トライ族には何とか7年後には戻ってくると告げた)、終戦後の昭和21年(1946年)3月に復員船雪風により無事帰国した。

戦後は腕を再手術したが、職や生きる道に悩み、「生き延びた以上は少しでも好きな道を選びたい」と思い至り、得意だった絵を描く仕事として紙芝居や貸本漫画を描く生活を送る。水木の作品はマニアックな読者には人気だったが、一般読者には人気がなく、原稿料を値切られることもしばしばだった。売れる見込みがないという不評が広まり、あらゆる出版社から締め出しを食らい、生活苦を強いられるうちにいつしか暗い作風が強まっていき、そのせいで更に敬遠されるという悪循環に陥っていた。「戦場で殺されるよりはやんわりしているが、餓死も恐ろしい」と貧乏の苦しみを実感する。

そんな中、昭和36年(1961年)に、既に40近い息子を心配した両親の計らいで見合いにて結婚。・布枝は、結婚前に聞いていたのとは違う水木の極貧ぶりに驚いたが、新婚早々に漫画の原稿を手伝うことになり、水木の勤勉さに尊敬の念を抱くようになり、いつか必ず世に認められて成功すると心ひそかに期待していた。昭和37年(1962年)には長女が誕生。このあたりを描いた布枝の自伝が後に「ゲゲゲの女房」としてドラマ化(後に劇場映画化)されヒットした。貸本出版社の相次ぐ倒産による約束手形の連続不渡り、家賃が支払えずに不動産屋と弁護士に立ち退きを要求され、挙句の果てに大蔵省の誤った調査から土地の半分は国の物だと責め立てられる毎日を送り、温厚だった水木も怒りが爆発して関係者に逆上していった。そのため世の中の理不尽さえげつなさを憎むようになり、その怒りから酷い世の中と狡猾な人間を破壊して一掃する貸本漫画「悪魔くん」を構想。東考社の桜井昌一(水木作品の「メガネ出っ歯」のモデル)が水木ファンで出版採用するが、当時は売れずに打ち切りとなり、再評価は後年の雑誌リメイク発表まで待たねばならなかった。

冷酷な大蔵省には更に責め立てられ続けた結果、家の半分を持っていかれて帳簿が間違いと判明した後も謝罪は無く不信感に苦しむ日々が続き、いよいよ暮らしも追い込まれていった。そんな途方に暮れていた昭和39年(1964年)、貸本出版社の一つであった青林堂が雑誌を刊行する決心をし、社長の長井勝一から才能を見込まれて執筆依頼を受けて、収入が少し上がるが極貧な生活はあまり変わらなかった。昭和40年(1965年)、講談社から宇宙モノを描かないかと依頼されるも得意分野ではなかったのでひとまず断った。数ヶ月後に同社から再び依頼され、今度は編集方針が変わって自由に描いて欲しいと言われ快諾。講談社刊「別冊少年マガジン夏休みお楽しみ号」掲載の『テレビくん』で第六回講談社児童漫画賞受賞し、講談社の依頼が増えだし最低限の生活費がようやく稼げるようになる。同年に同社刊「週刊少年マガジン」8月1日号で『墓場の鬼太郎』「手」を掲載。
後に水木氏の代名詞となる鬼太郎だが、当初は陰鬱な作風があまり受けず、あえなく打ち切りとなりかけてしまう。しかし最終ギリギリの段階で、貸本時代の鬼太郎を知る一部の熱心な読者からの高評価と今後の要望が届いたことにより連載を再開させることが決定。これが人気作となり、「水木しげる」と「鬼太郎」の名を広める契機となった。これでようやく長い貧乏生活から解放されて、たまった質札とも決別(幸いに一度も流されずに済んだ)。

昭和42年11月にTVアニメ化が決まり、昭和43年「ゲゲゲの鬼太郎」と改題されて放映、大ヒット作となり、水木は一躍スターダムにのし上がり、一家は一転して金持ちになった。
後に水木氏は、「窮地に陥るといつも現れて救ってくれるのが鬼太郎だった」と語っている。他にも貸本時代に一部でしか評価されずに不遇を囲っていた悪魔くん河童の三平などの代表作を雑誌連載にてリメイクして再び世に送り出した。
「鬼太郎」シリーズはその後も10年周期でアニメ化を繰り返し、2018年現在では計7シリーズ製作されている。

日本人の心にほとんど忘れ去られていた妖怪へキャラクター性を与えて息を吹きかえらせ、様々な漫画家や文学者、果ては一般国民にまで影響を及ぼした。あまりの多忙から体調を崩して、その後ようやくトライ族との約25年ぶりの再会も果たして仕事量を減らしたことで、一時は再び低迷期もあり「妖怪なんて本当はいないんじゃないか?」という失意の日々が続き、再び窮地に立たされるも、昭和60年代から民俗学再評価の流れの中で妖怪が再ブームとなり復活。「ゲゲゲの鬼太郎」3度目のアニメ化でキャラクター商品も大好評を得た。そして3期終了後に時代は昭和から平成へと移り、妖怪の実在には以前迷いがありつつ激動の昭和と自分の経歴を描いた「コミック昭和史」を単行本似て執筆。平成3年(1991年)に紫綬褒章を授章。妖怪研究家としても活躍し、平成4年(1992年)に岩波書店から初のカラー版「妖怪画談」が出版される。これでバブル崩壊後の現在まで至る乱れた世相の中に、世界中で目には見えないけれど妖怪・精霊はいるという確信を水木自身も深く得ることになった。そして、平成15年(2008年)に旭日小綬章を受章。平成22年(2010年)には文化功労者に選ばれた。
また、画業50周年を記念して各出版社から復刻された妖怪画集や、戦争における自らの実体験を元に描かれた戦記の数々も、各方面に衝撃を与えた。

驚きの2本同時連載

平成25年(2013年)12月御年91歳にして、12月25日発売の「ビッグコミック」(小学館発行)の新年1号にて、新連載『わたしの日々』を開始する。

水木氏はこの時、平成9年(1997年)に有志と立ち上げた「世界妖怪協会」の季刊妖怪専門ムック『怪』(角川書店発行)で、『水木しげるの日本霊異記』の連載も持っており、90歳以上の漫画家が2本同時に連載を持つというのは異例すぎる出来事である。

『わたしの日々』は水木の人生を振り返るエッセイ漫画。2015年5月に連載終了を迎えるまで、平穏な日常から、戦争体験、貧乏生活、貸本や紙芝居まで、かつてエッセイなどで語られたエピソードが全て描かれた。全34話。ある意味、氏の妻が書いた『ゲゲゲの女房』と対の作品なのではないだろうか。

大往生、現世との別れ

水木しげる先生
水木先生
泣くのは人間ばかりなり
水木先生追悼漫画


90を過ぎてなお健啖家であり、家族もファンも当然のように「100を越えても長生きしてくれるのでは」と思っていた。
しかし平成26年末に心筋梗塞を発症し、約2ヶ月入院。
自宅に帰りしばらく外出は車椅子に頼ることになりつつも、妖怪等目に見えない存在への信頼と気力は衰えを見せず、食欲も旺盛な中で療養を続けていた翌年2015年11月、自宅で思わず転倒して頭を打ち、急性硬膜下血腫にて入院、これにより体が弱っていったと診られている(高齢者には転倒後急速に体調が悪化するのはよくあることである)
一時は小康を保ったかにも見え早期回復も期待されたが、平成27年(2015年)11月30日早朝、容体急変による多臓器不全により入院中であった都内の病院で亡くなった。満93歳。
睡眠と食欲旺盛が長生きの秘訣であった彼は現役漫画家のまま旅立った。看取った家族によると、容体急変でも穏やかな眠りにつく如き最期であったという。
今頃は天国ではなく、鬼太郎や妖怪の仲間達と一緒に百鬼夜行の行進に繰り出しているのではないだろうか・・・・・・。
それとも、かつて共に戦った戦友たちや置いてきた片腕との再会を喜んでいるのだろうか・・・。
いや、分霊してあの世とこの世にて現世の人々、特に日々真剣に生きる人たちを慈悲深く守っているのではなかろうか‥‥‥。
献花には、なんと天皇陛下を含む各界の超大御所や著名人達の名前が大勢含まれている。

ちなみに、2017年、このイラストの通り公式コラボが実現した。

さらに、2018年はアニメ「ゲゲゲの鬼太郎」50周年の節目の年で、6度目(「墓場鬼太郎」を含めれば7度目)のアニメ化が実現し、新たな妖怪及び鬼太郎ブームを巻き起こし、関連書籍が続々出版再開しだし、妻の布枝氏も「水木の魂が現世に帰って来ている気がする」とコメントしている(水木御大は霊として現世に舞い戻って、妖怪と人間たちの動向を観察しているのかもしれない)。


水木先生なら調布にいるよ


探偵!ナイトスクープでの水木氏逝去による悲しみの結末

朝日放送の探偵!ナイトスクープの「鬼太郎が大好きな少年」のロケ日が偶然にも水木氏が亡くなったまさにその日であり、まさかそのような事になっているとは知らない中、取材開始二時間経った頃に水木氏の逝去のニュースがスタッフの元にも入ったのである。本来ならばこの手の同好者と会う依頼はほのぼのとした形で終わる事が多いものだが、全く予期せぬ事態に裏ではスタッフ一同が困惑する中ロケは続いていく。
そして水木氏の訃報を依頼者の息子(と、その同じ鬼太郎ファンの少年)に田村裕探偵が二人が互いに鬼太郎の話題で夜まで和気あいあいとしている中、とうとうその事実を告げた。
最初、少年達は訃報の意味がわからなかったが、それが亡くなったという意味である事を知ると泣き崩れた。
田村探偵とスタッフは逝去の事実を正直伝えるかどうか迷ったそうだがファン愛に溢れる少年達にはきちんと伝えるべき大事な事であるとの考えで伝えたものである。そのVTRの最後には水木氏の画像と共に追悼のメッセージを捧げた。
田村探偵は「全く予期していなかった事で運命的なものを感じるロケだった」と振り返っている。

その後この番組を見た水木プロのスタッフと先生の娘さんが追悼式「水木しげるを送る会」に二人を招待しファン代表として贈辞の挨拶を依頼、この出来事はネットニュースに取り上げられるほどだったという。

代表作


関連イラスト

ゲゲゲの子供達


水木作品

ありがとう


水木風作品

水木画風にされたキャラ達。

ザ・ビースト
こわいのがくるよ


もがーっ!
水木しげる先生風 妖怪ウォッチ



水木の乗った復員船は、かの有名な駆逐艦雪風であるが、シン・ゴジラの身長と当艦の全長は同じである(他の御大とゴジラとの繋がりは大海獣や (おそらく)ガイガンにも見られ、作品としてのゲゲゲの鬼太郎はゴジラと同い年である)。

菊水作戦の雪風


関連タグ

漫画家 妖怪
手塚治虫 荒俣宏 京極夏彦 有里紅良 
やなせたかし・・・同じく出征経験(中国戦線)がある。

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