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雪風は、陽炎型駆逐艦の8番艦。多数の艦が失われるような主要海戦にことごとく参加し、無傷ないしは小破程度で乗り切った。太平洋戦争に参加した日本駆逐艦の中でも最高の殊勲艦と称される。


戦後、中華民国海軍に引き渡され、台湾海軍旗艦「丹陽」としてさらなる波乱の艦生を送ることとなった。


経歴

1940年1月20日、佐世保海軍工廠にて竣工。太平洋戦争の主要な海戦の殆どに出撃して、ほぼ無傷で生還した幸運の艦として有名。同じく武勲艦であり幸運艦と呼ばれた白露型駆逐艦2番艦の時雨と共に「呉の雪風、佐世保の時雨」と並び称された。


1941年12月の太平洋戦争開戦時、雪風は「華の二水戦」こと第二水雷戦隊麾下の第十六駆逐隊に所属し、約半年に亘って南方(フィリピン・インドネシア方面)、ニューギニア方面戦線で活躍。スラバヤ沖海戦では連合軍艦隊に完勝した。

1942年6月の ミッドウェー海戦で日本海軍の主力だった南雲機動部隊の空母が全滅した後は、第十六駆逐隊の僚艦と共に第十戦隊に編入され、主に機動部隊の空母の護衛を務める。同年10月の南太平洋海戦では主力空母の翔鶴瑞鶴らを護衛して戦い、勝利に貢献した。

アメリカ軍司令官に「停電した後の酒場の大騒ぎ」と評された第三次ソロモン海戦(第一夜戦)では、アメリカ軍水上部隊と激しい砲雷撃戦を交えている。戦闘後、行動不能(のち自沈)となった第十一戦隊旗艦比叡の乗組員を救助した雪風は、司令官旗を掲揚したため敵の空襲で標的にされてしまうなどピンチに陥ったが、最後は突如発生したスコールに守られて生還した。


年が明けて1943年、雪風は「駆逐艦の墓場」の異名を取ったソロモン海域に進出し、陸軍部隊や物資を揚陸する輸送任務に従事する。

駆逐艦のみの編制で1万人の日本兵を救出したガダルカナル島撤収作戦や、司令部の杜撰な作戦計画によって、参加艦艇が壊滅する事態となった第八十一号輸送作戦(ダンピールの悲劇と呼ばれる。このとき僚艦時津風を失う)などに参加。大きな損傷を負う事が無かった雪風は、休む間もなく戦い続けた。

同年7月には、輸送任務中に遭遇した連合軍艦隊との間で コロンバンガラ島沖海戦が発生。旗艦神通を失ったが、その後雪風が艦隊の指揮を引き継ぎ、艦艇数で2倍、砲塔数で3倍の敵艦隊を魚雷攻撃で返り討ちにする戦果を上げた。この時、雪風は新装備の逆探(電波探知機。詳しくは電探レーダーを参照)により敵艦隊の待ち伏せを見破った。


出航します

1943年の後半になると、雪風はソロモン海域を離れ、東南アジア方面やトラック泊地と内地を往復する、長距離の輸送や護衛の任務に携わる様になる。敵の偵察機との遭遇や潜水艦の襲撃に悩まされながら、護衛した艦艇に被害を出さずに任務を続けたが、1944年1月、同じ護衛任務に就いていた第十六駆逐艦の姉妹艦、天津風が大破。長期間の修理が必要となったため、稼働可能な艦が雪風一隻のみとなった第十六駆逐隊は1944年3月31日で解隊。雪風はソロモン海域で共に戦った馴染みの浜風谷風が所属する第十七駆逐隊に異動となった。

日米最後の機動部隊決戦となった マリアナ沖海戦、史上最大の海戦と呼ばれるレイテ沖海戦に雪風は参加し、いずれも無傷で乗り越えたが、日本海軍は次第に劣勢に追い込まれていく。雪風は多くの僚艦の最後を看取りながら、懸命に味方の兵の救助を行った。


駆逐艦陽炎型「雪風」(天一号作戦時)

1945年4月、戦艦大和による沖縄への特攻作戦に、雪風ら第十七駆逐隊の残存艦は護衛として同行した。大和はアメリカ軍艦載機の大空襲を受け沈没。護衛の第二水雷戦隊の旗艦・軽巡洋艦矢矧、第十七駆逐隊の僚艦の磯風、浜風らも沈没、作戦は失敗に終わったが、雪風は艦長が艦橋の天蓋から身を乗り出して敵の攻撃を読み操艦すると言う回避術と、魚雷1本が艦底を通過する幸運にも恵まれ、ほぼ無傷で生き残った。

死を覚悟の特攻作戦を前に、共に出撃した駆逐艦は煙突に菊水の紋章を描いたが、雪風では艦長の「俺たちはいつも通りやればいいんだ」の命令によりこの紋章を入れず、乗組員たちも必ず帰ってくるつもりだったと言う。

7月末、疎開先の京都府・宮津湾でまたしてもアメリカ軍艦載機の空襲を受けたが、ここでも直撃したロケット弾1発が不発と言う幸運もあって生き残り、そのまま同地にて8月15日の終戦を迎えた。


戦後は武装を取り外し、復員輸送艦として1万3千人の復員兵や引揚者を故郷の日本へ運んだ。漫画家の水木しげる氏も雪風によって復員した一人である。

復員輸送任務完了後も乗組員たちの整備が行き届いていた事から戦時賠償艦に指定され、抽選の末に中華民国に引き渡され、「丹陽」と命名されて中華民国海軍の旗艦任務に長く就いた。こちらでも数々の実戦に参加しているが重大な損傷を受ける事も戦没する事もなく、老朽化による退役という形で軍役を終えた。

雪風の後半生は丹陽を参照。座礁や機関の不調などのトラブルにしばしば見舞われるが、ピンチ時に機関が突然本調子を取り戻すなど、その幸運はしばしば発揮されたとされる。

丹陽の解体後の1971年、中華民国から日本に雪風の錨と舵輪が引き渡された。この雪風の錨と舵輪は現在、江田島の海上自衛隊第一術科学校校内の教育参考館に静かに安置されている。


警備艦<ゆきかぜ>

その名前は海上自衛隊のはるかぜ型護衛艦の2番艦「ゆきかぜ」に受け継がれた。



エピソード

雪風ハ沈マズ

同型艦の陽炎型駆逐艦、ほぼ同じ設計である夕雲型駆逐艦を含む計38隻の同型艦の中で、雪風1隻のみが生き残った。太平洋戦争をただ生き残っただけでなく、駆逐艦の消耗が激しかったソロモン海域の任務や特攻作戦など、絶望的な戦闘を生き残った不沈艦だった。

同じく不沈艦、強運艦として名高い時雨は抜錨の速さに自信があったが、ラバウル泊地が空襲を受けた際、停泊していた日本艦艇の中で一番早く機関を動かした時雨が湾外に脱出すると、空襲を予想して最初から湾外に停泊していた雪風の姿を見て驚いたと言う。

修理中も艦長命令により機関を止めず、敵襲があった際直ちに抜錨して難を逃れたエピソードもあり、これらの事から雪風は「超機敏艦」と呼ばれた、という証言も残っている。


幸運艦?強運艦?

従軍記者によると、太平洋戦争中、雪風は幸運艦ではなく強運艦、武運艦と呼ばれる方が多かったと言う。同じような表現だが、戦闘艦の場合、先ず戦場に送られる事が前提なので、幸運とは少し違うとの事。

確かに雪風の場合、全滅が必至と予想された第八十一号輸送作戦に「全滅覚悟で行け」と放り出されたり、大和の沖縄水上特攻に「要するに死んで欲しい」と随伴させられたりと、絶体絶命の作戦に何度も出撃させられた他、マリアナ沖海戦では、鈍足の油槽船と一緒に戦闘海域に置き去りにされた末に敵の空襲を受けたなど(補給部隊の戦時日誌に、本隊が雪風たちの補給部隊に空襲警報と撤退命令を伝えずに全速力で撤退した記録が残っており、囮にされた事が判っている)、かなりロクでもない使われ方をされており、素直に幸運とは言い難い面も。


助兵衛

雪風は助兵衛」というあだ名もあった。

幸運艦仲間の時雨と共に、料亭の芸者の間で「雪風と時雨の兵隊は呑兵衛で助兵衛ばかり」と有名だったが、先にこの評判を知った時雨が「時雨は呑兵衛で、助兵衛は雪風にしましょう」と、助兵衛の座を雪風に押し付けたのが由来らしい(時雨の乗員本人による証言)。

呉の雪風、佐世保の時雨」、またの名を「時雨は呑兵衛、雪風は助兵衛」。

もっとも「一番に上陸して遊びに行きたかったので港に接舷するのが早くなった」とか、「料亭に女遊びに出かけて帰ってこない艦長の元に部下が米を届けに行った」とか、「顔が見えないくらい遠くからでも、内股の微妙な違いで男か女かが判る兵がたくさんいた」とか、助兵衛と呼ばれても仕方ないエピソードが多いのも事実である。


悪評

「雪風以外の作戦参加艦艇の殆どが損傷や戦没したため、他艦の乗組員からは死神と忌み嫌われ同航するのを嫌がられた」と言う説があるが、これは作り話である。

戦争中の記録や歴史研究家の調査によって、同航した仲間が被害を受けた任務は雪風の全任務の1割程度と非常に少なかった事が判っている(詳細)。

「雪風の幸運は自分にしか発揮されない」、「雪風は僚艦の運を吸い取る」から死神扱いされたとする意見もあるが、後述する通り、雪風が偶然通りかかったお陰で救助された船が複数存在している事や、雪風の傍にいて雪風以上の幸運を発揮した記録が残っている。

戦後、雪風の元乗組員がインタビューを受けた中で「運がいいと有名になったら、厄神とか鬼神とか逆の噂を流す連中が出てきたらしい」と、実際の雪風の経歴とかけ離れた悪評について推測しているのは興味深い。

悪評が発生した時期について「戦時中から」、「戦後の創作」とで意見が分かれているが、戦争経験者の回想録や歴史研究者の著書で死神と嫌った兵の証言は確認されていない。一方で「漂流中現れた救世主は雪風だった」、「(雪風に救助された事で)死神の手を逃れる事ができた」と言う大和の元乗組員など、雪風を救いの女神とする正反対の証言は簡単に見つける事ができる。


働き者

太平洋戦争における駆逐艦は、乗組員自ら「車引き」と自嘲するほど酷使されたが、その中でも被害が少ない雪風は休む事なく出撃を繰り返した功労艦だった。大戦中、雪風を率いた4人の艦長は全員生還したが、交替の理由は3回とも激務による過労で艦長がダウンしたからで、開戦時の艦長は退艦の際、担架に乗せられそのまま病院に直行したとも言われる。

至る所で任務を与えられたため、とうとう艦隊司令部や駆逐隊の僚艦たちも雪風がどこで何をしているのかわからなくなってしまい、新兵を補充できなくなる事態になった。久しぶりに母港に戻ると、工廠で「雪風は沈んだ」と勘違いされていた事が何度かあったと元運用科の兵が語っているが、これも予定通り母港に戻れなかった影響かもしれない?

ある研究者が太平洋戦争中の雪風の作戦行動距離について調べた所、直線で9万6千マイル(約154,500㎞)、その中の三割はジグザグ航法を行ったと言う歴代艦長の意見を参考にして、総航行距離は12万4800マイル(約200,845㎞)に達すると見積もられた。あくまで研究者による調査で公式記録ではないが、12万4800マイルと言うと地球5周分に相当する

更に復員輸送任務中の雪風の航行記録には総航行距離38,733海里(約71,733㎞で地球1.8周分に相当。こちらは復員省に報告した実際の航行距離)とあり、小さな体で本当に良く働いた艦だった。


艦隊旗艦

雪風は3日間ほど第八艦隊の旗艦を務めている。本来の旗艦である巡洋艦鳥海を一時的に別の港に回航しなければならなかったためで、便宜上ではあるが、その間将旗を雪風に掲げた。

尚、この間も雪風は戦闘海域の偵察を行ったり、帰ってきたら「敵がいないなら輸送任務に出撃しろ」と命じられたり(ただし延期になった)しているので、旗艦になったからと言って港で休めた訳ではなかった様である。

偵察任務中も将旗を掲揚したままだったかどうかは不明。


戦闘

教本に書かれていないか、書かれていても実戦では中々試すことができない戦法でも、雪風は大胆に実践した記録が残っている。

探照灯を目晦ましに使い敵機を撃墜した」、「艦長が艦橋の天蓋から頭を出し航海長の肩を蹴って操舵の指示を出した」、「スコールに隠れて敵艦隊に接近し魚雷を命中させた」、「戦闘の合間に機関部のオーバーホールを行った」、「機関を停止して灯りと音を消して潜水艦の追跡を撒いた」、「艦首から発生する波を利用して魚雷を逸らそうとした」など、先の超機敏艦の話も加えると、漫画の様なエピソードは枚挙に暇がない。

尚、最後の魚雷を逸らそうとした話については、2本の魚雷のちょうど中間を雪風の艦体が通り過ぎてしまったため、艦首波の効果のほどは不明である。

変わった話では、陸軍の輸送船が遅刻してしまったため、雪風と時津風の兵が上陸作戦を決行し敵占領地を制圧したなんて事もあった(まあ戦闘らしい戦闘は殆ど無かったのだが)。

幸運艦として名高いが、乗組員の技術や訓練度も非常に高かった事が、僚艦の乗員や将官の証言の中に残されている。劇的な逆転勝ちとなったコロンバンガラ島沖海戦は、前述の逆探の他に、日本海軍艦艇の独自装備であった魚雷の次発装填装置を上手く利用した一例である。


不発弾

雪風と言うと「弾の方から逸れていく」、「弾が当たっても不発ばかり」とその幸運ぶりを称えられるが、あまり正確でない面もあって、実の所、遭遇した不発弾の数はそれ程多くは無い。

確実な記録として残っているのは、沖縄水上特攻における魚雷の艦底通過1本、宮津湾空襲でのロケット弾の不発1発、終戦直後の磁気機雷の遅延爆破1発の3回である。

太平洋戦争当時はどの国も爆弾や魚雷の不良が多く、不発弾のエピソードは雪風以外でもよくある事だった。例えば第三次ソロモン海戦第一夜戦で、比叡は魚雷数本(2~3本)が不発、同じく霧島も魚雷2本が艦底を通過し、当たった魚雷1本も不発だった。

大和の沖縄水上特攻でも、初春型駆逐艦の初霜が雪風と同様魚雷1本が艦底を通過、同じく秋月型駆逐艦の冬月はロケット弾2発が直撃したが不発の上、魚雷2本が艦底を通過(証言者によっては5本通過)、磯風に至っては8本の魚雷が艦底を通過するなど、雪風を凌ぐ不発弾の例は数多い。

雪風の場合被弾自体が少なく、やっと当たったと思ったら不発なのである。敵機の機銃掃射や至近弾を除くと、雪風を損傷させたのは第三次ソロモン海戦において医務室を吹き飛ばした艦砲射撃のみであり、しかもこれは味方からの誤射だった。


救助作業

戦闘で沈んだ僚艦の救助を多く行ったとされる。休みなく太平洋を駆け回ったため、緊急の救難作業に遭遇する事も多かった。

判っているだけで、1943年1月の平洋丸の生存者救助、1944年1月の樽島丸の生存者救助、同3月の東山丸の救難作業、同7月の陸軍軍属の漂流者の救助(これが樽島丸の生存者であるとの証言もあり、はっきりしない)、復員輸送任務中の第六青函丸の救難作業を行っており、これらは雪風が偶然近くを通りかかったり、近くの港に停泊していたりしたため救助できたケースである。

当時の雪風乗組員の回想録に「こういった任務外の救助活動はあまり取り上げて貰えませんね」と、どこか寂しさを感じさせる記述がある。


無抵抗の敵を撃たず

レイテ沖海戦の戦闘のひとつサマール沖海戦で激しく撃ち合った米駆逐艦ジョンストンが沈没する際、すぐ傍を通り過ぎた雪風の艦橋にいた士官(艦長、若しくは砲術長と言われる)が敬礼して見送ったエピソードがある。このエピソードはジョンストンの乗組員が戦後、アメリカの公刊誌に(当時は雪風の名前こそ知らなかったが)発表したことで広く知られる様になった。

この時、戦闘継続中だと勘違いした機銃手が発砲したが、艦長の制止により漂流するジョンストンの乗組員を撃たずに済んでいる。戦後、この機銃手は艦長の判断に感謝している他、ジョンストンの士官からも感謝の手紙が送られたとある。

雪風は、開戦間もないスラバヤ沖海戦でも連合軍艦艇の生存者を救助しており、終戦が近づいた沖縄水上特攻でも、味方の救助中に敵の機銃掃射で妨害されながら、「こちらがやり返していい理由にならん」と報復を禁じたエピソードがある。


現存する幸運艦

雪風に並ぶ強運エピソードの持ち主として 特務艦「宗谷」が挙げられる(宗谷は現存している)。pixivにおいては、この2隻は戦前・戦後にわたって活躍した「異能生存艦」としてしばしば並び称されているが、史実では紀元二千六百年特別観艦式に両艦が参加したくらいの繋がりで、この2隻が直接関わったことはほとんどない。

ミッドウェー海戦において、宗谷はミッドウェー島占領部隊の輸送船団の一員であり、雪風はその護衛として同じ部隊に所属していた・・・・・・が、船速の遅い宗谷は数日先行して出発してしまったため、雪風とは一緒に行動していないのであった。

なお、戦前最後となったこの観艦式に参加した艦船98隻のうち、戦後も生き残ったのは国内に残った宗谷と凌風丸、連合国軍に引き渡された波風と雪風の4隻のみであった。


駆逐艦雪風の擬人化(商業作品)

海戦センシティブな作品

左は『艦隊これくしょん』の雪風、右は『BattleShipGirl_鋼鉄少女』の丹陽。


『鋼鉄少女』は『艦隊これくしょん』の原点ともなった台湾(中華民国)の漫画作品。この作品で丹陽が主人公となったのは、第二次大戦後の中華民国の旗艦を務め、中共との台湾海峡海戦で活躍したためである。


登場作品

前述の擬人化作品のほかにも、天一号作戦を題材にした作品でも沈没した「大和」の乗員を救助する駆逐艦として登場する機会は多い。

また『艦隊のシェフ』(「幸風」)、『殴り込み艦隊』(「黒雲」)など「雪風」に相当すると思われる架空の駆逐艦が登場する作品も多い。

駆逐艦「雪風」の進水から終戦までを描いた映画。同名の海上自衛隊護衛艦「ゆきかぜ」を撮影に使用している。

商業作品としては特撮怪獣映画初登場。「高雄」、「」らと共に初めてゴジラと交戦した帝国海軍軍艦の一つとなった。

特に「響」などとは、物語終盤にて非常に重要な役割を担うこととなる。

余談だが、一つ前の作品に登場したゴジラの身長は、雪風の全長と同じである。


関連項目

雪風(艦隊これくしょん) 戦闘妖精雪風 はるかぜ型護衛艦

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