マリアナ沖海戦とは、1944年6月19日~同20日にかけて行われた日本海軍とアメリカ海軍による海戦。
太平洋西武にあるマリアナ諸島の争奪が主目標となったためこの名が付いた。アメリカ海軍の圧勝により、日本海軍の空母機動部隊および、それらを構成する海軍航空隊が事実上壊滅した。
あ号作戦、および海戦まで
1943年の終わりから1944年の中ごろにかけてアメリカ軍は中部太平洋への攻勢を強め、ニューギニアを占領、トラック諸島への空襲などを行うようになっていた。また、6月ごろにマリアナ方面に進出すると推測された。
そこで連合艦隊はそうなる前にアメリカ軍をパラオ方面へ誘い込み、空母機動部隊および基地航空隊によりそれを撃破するという作戦を立てた。
しかしながらこの作戦は立案の時点ですでにアメリカに漏洩(日本海軍の作戦文書は海軍乙事件によりアメリカ側に奪取された)しており、アメリカ軍に逆にその作戦を利用される羽目になった。
当初は距離の関係から基地航空隊の支援を受ける事が出来ず、機動部隊の艦載機の支援しか望めず、それに対して日本側は飛行基地を持ち、その支援を受ける事が出来るマリアナ諸島の攻略は困難としてアメリカ側は考慮せず、ニューギニアからフィリピン、東南アジアへの飛び石伝いに手薄な島を攻略して飛行場を建設し、その支援の元、更に攻略を進める方針であったが、強力な日本軍の航空兵力の反撃によりかなりの損失を被ると思われていた機動部隊による1943年11月5日のラバウル空襲で軽微な損失で日本側に大損害を与え、それ以後も機動部隊のラバウル・トラックへの空襲は成功をおさめた事からアメリカ側は機動部隊の支援のみでの攻略作戦に自信を持ち始め、一気にマリアナ諸島を攻略する事となった。
また、アメリカ軍はタウイタウイに集結した第一機動艦隊に対して潜水艦隊を派遣し、日本艦隊の動向を監視させると共に日本艦隊への攻撃も行なわせて駆逐艦を4隻、給油艦2隻を撃沈し、日本側は危険な為にとても沖合で訓練出来るものではなかった。更にタウイタウイ泊地は無風状態の為に航空隊の訓練が出来なかった為に搭乗員の練度不足をより深刻化させ、またこの折に駆逐艦を多数失ったことは警備体制の不備に繋がり、海戦に大きな影響を与える事となった。
更に、アメリカ軍は西部ニューギニア沖のビアク島に上陸、日本軍は敵軍の進路を読み間違え、マリアナから兵力を動かしてしまう。だが、ビアク上陸と共に動いていた空母15隻基幹の機動部隊によりサイパンを奇襲され、上陸を許してしまう。
日本軍の作戦と米軍の対応
日本軍の作戦としては「沈まざる空母」基地航空隊の航空戦力と、空母9隻を含む機動部隊の戦力を併せることで、戦力に勝る米機動部隊と渡り合う予定であった。段階としては、基地航空隊を主力とした航空部隊が敵空母の脆弱な飛行甲板を攻撃することで敵の航空戦力を減殺した後、戦艦を主力とする水上艦艇の突入により砲雷撃の艦隊決戦に持ち込み、撃破する狙いであった。
しかし、上述のように艦隊決戦にまで持ち込む条件として、緒戦の航空戦での勝利が絶対条件であり、そこで考案されたのがアウトレンジ戦法である。
要約すると、日本軍の艦載機の航続距離が米軍の艦載機よりも長いことを利用し、米機動部隊の攻撃可能範囲外から艦載機を発進させてこれを攻撃、反撃を受けないまま一方的に撃破することを狙った戦法である。
母艦搭乗員への負担が特に大きいこの作戦は、反撃の主力を担う基地航空隊の第一航空艦隊との連携が重要になるはずであった。だが、その第一航空艦隊に配備定数こそ約1500機であったが実際の配備は750機程で稼働機は500程となり、それすらも空襲による被害を受け、更には渾作戦のためニューギニア方面へ半数を派遣するなどの戦力分散などによって徐々に数を減らしていく。米機動部隊の攻撃を受けた6月11日時点では、わずか200機あまりが配備されていただけであり、この段階で、アウトレンジ戦法を含む上記の作戦はすでに崩壊の兆しを見せつつあった。
両軍の戦力
日本海軍
*甲部隊*(小沢提督直卒)
空母3隻
巡洋艦3隻
駆逐艦7隻
空母3隻
戦艦1隻
巡洋艦1隻
駆逐艦8隻
空母3隻
戦艦4隻
巡洋艦9隻
駆逐艦8隻
航空戦力
甲部隊(第601海軍航空隊)
乙部隊(第652海軍航空隊)
前衛部隊(第653海軍航空隊)
艦載機計:426機
第一航空艦隊(司令長官角田覚治中将。6月18日の攻撃隊のみ記載。19~20日の海戦には参加せず)
銀河陸攻隊(護衛機含む)
第261海軍航空隊:11機
第523海軍航空隊:2機
第521海軍航空隊:8機
爆装零戦隊(護衛機含む)
第121海軍航空隊:1機
第201海軍航空隊:8機
第263海軍航空隊:10機
戦闘603飛行隊:2機
戦闘301飛行隊:2機
出撃機計:44機
米海軍
第5艦隊(司令長官レイモンド・スプルーアンス大将。旗艦 重巡洋艦インディアナポリス)
*第58任務部隊*(司令長官マーク・ミッチャー中将。旗艦 空母レキシントン)
*第58.1任務群*(司令官ジョゼフ・クラーク少将。旗艦 空母ヨークタウン)
空母4隻
巡洋艦5隻
駆逐艦14隻
*第58.2任務群*(司令官アルフレッド・モンゴメリー少将。旗艦 空母バンカーヒル)
空母4隻
巡洋艦4隻
駆逐艦12隻
*第58.3任務群*(司令官ジョン・リーブス少将。旗艦 空母エンタープライズ)
空母4隻
巡洋艦4隻
駆逐艦13隻
*第58.4任務群*(司令官ウィリアム・ハリル少将。旗艦 空母エセックス)
空母3隻
巡洋艦3隻
駆逐艦14隻
*第58.7任務群*(司令官ウィリス・リー中将。旗艦 戦艦ワシントン)
戦艦7隻
巡洋艦4隻
駆逐艦14隻
航空戦力
第58任務部隊
第58.1任務群:ホーネット、ヨークタウン、べロー・ウッド、バターン
第58.2任務群:バンカー・ヒル、ワスプ、モンテレー、カボット
第58.3任務群:エンタープライズ、レキシントン、サン・ジャシント、プリンストン
第58.4任務群:エセックス、ラングレー、カウペンス
艦載機計:901機
第52任務部隊(6月11日時点の艦載機搭載艦のみ)
第52.14任務群:ファンショー・ベイ、ミッドウェイ、ホワイト・プレーンズ、カリニン・ベイ
第52.11任務群:キトカン・ベイ、ガンビア・ベイ、ネヘンタ・ベイ
艦載機計:169機
第53任務部隊(海戦後の7月21日の戦力)
第53.7任務群:サンガモン、スワニー、ジェナンゴ、コレヒドール、コーラル・シー
艦載機計:145機
航空戦力を比べると、日本機動部隊の陣容は大型正規空母3隻、改装中型空母2隻、改装小型空母4隻の合計9隻であり、開戦以来の大機動部隊である。
しかし対するアメリカ側は、第58任務部隊だけでも正規空母7隻と軽空母8隻の計15隻の空母を有しており、艦載機の搭載数は日本軍の倍に達している。第5艦隊全体と比較した場合では、両軍の航空戦力差はおよそ3倍にまで膨らんでいる。
日本側は第三次ソロモン海戦、南太平洋海戦で使用した空母を中心とする部隊を後方に置き、戦艦を主力とした海上打撃部隊を前方に突出させる運用法を行っているが、アメリカ側も空母とは別に戦艦を纏めた海上打撃部隊を編成している。
しかし、前述にもあったようにアメリカ側の各任務部隊が主力艦の数以上の駆逐艦を伴っているのに対して、日本側は空母中心の甲乙部隊は兎も角、前衛部隊は主力艦の半分の駆逐艦しか伴わないという駆逐艦の不足ぶりを露呈している。
海戦前
決戦始まる「皇国ノ興廃コノ一戦ニアリ」
海戦前の17日、発動された「あ号作戦」完遂のため、小沢中将率いる第一機動艦隊はマリアナ沖に集結。翌18日、徹底した索敵を行い米機動部隊を捉えるが、薄暮攻撃の危険ありと判断されたため、攻撃は当初の予定通り19日に持ち越される。
決戦を前に機動部隊旗艦大鳳には「皇国ノ興廃コノ一戦ニアリ」を意味するZ旗が掲げられ、空母「千代田」では作戦前に以下の訓示がなされた。
「いよいよ決戦の時来る。百年兵を養うも6月19日の為である。諸君には6月20日は無いものと覚悟せよ」
日本の命運を賭けた「あ号作戦」が開始されようとしていた。
第一航空艦隊の壊滅
第一機動艦隊がマリアナ諸島海域に到着する前の6月11日には第58任務部隊の1100機からなる奇襲を受け、100機程がばらばらにしかも少数で迎撃したものの壊滅的な打撃を受け、12日には少数の銀河、彗星による反撃を行うも成果は無く、逆に再び1400機の空襲を受けてマリアナ方面の航空隊は実質的に壊滅した。その後もマリアナ方面の残存機やヤップ島、パラオ諸島に派遣された航空隊が米機動部隊に対して攻撃を加えていたものの、17日の「ファンショー・ベイ」撃破以外、目立った戦果はなかった。連日の空襲により地上撃破される機体が多く、またビアク支援の渾作戦などに兵力を裂かれたことで肝心の航空戦力の集結が滞っているなか、整備員の未熟な技量も相まって航空機の稼働率が激減し、結果として散発的な攻撃に終始したためである。
また司令長官角田提督の勇猛果敢な性格が災いして、テニアン島に進出したばかりの2月23日のマリアナ諸島空襲に対して参謀の淵田美津雄中佐の反対にもかかわらず全力攻撃を行い93機中90機を失う壊滅的な損害を受けるなど海戦前から決戦の為に温存すべき航空兵力を積極的に使用して消耗していた事も一因とされる。
19日にはいまだ日本艦隊を発見できずにいた米軍がグアム島基地を攻撃。一航艦は最後の力を振り絞って抵抗するが、もはや基地上空の制空権維持すら困難な状況であった。
午前10時、第一機動艦隊の攻撃隊を察知した米攻撃隊がグアム島から引き上げる。それでも少数が機動部隊攻撃の為に出撃したが蟷螂の斧のようなものであり、一航艦は制空権の確保、第一機動艦隊との連携攻撃、などといった作戦目標を何一つ達成すること無く実質的に壊滅した。
6月19日
日本軍の航空攻撃
三航戦 第一次攻撃隊
一方の一機艦は午前6時29分に米機動部隊を再捕捉。7時30分、前衛部隊より三航戦第一次攻撃隊66機が発艦する。誘導の天山艦攻が攻撃隊の突入を助けるため途中分離してチャフを散布するが、攻撃隊はすでにレーダーで察知されていた。9時35分にF6F約62機の奇襲攻撃を受けた攻撃隊は42機を失って帰還。特に爆装零戦隊は32機を失う壊滅状態だった。戦果は戦艦「サウスダコタ」に命中弾1、重巡「ミネアポリス」に至近弾1。なお三航戦は諸々の事情によって第二次攻撃隊が出撃できなかったため、これが三航戦全戦果である。
一航戦 第一次攻撃隊
7時58分には甲部隊より一航戦第一次攻撃隊122機が発艦。米機動部隊へ向けて進軍途中の8時40分に前衛部隊に誤射され3機を喪失するトラブルに見舞われるが、攻撃隊は10時40分頃に米機動部隊の輪形陣を肉眼で捕捉できる地点に到達する。だが艦爆・艦攻隊が突撃隊形を作り始めたその瞬間、1000メートル上空から97機のF6Fに襲撃され、攻撃隊は瞬く間に苦境に陥った。
艦爆隊より高度が低かった艦攻隊は奇襲を逃れ、戦闘機隊に援護されながら輪形陣を目指していた。10時46分に総指揮官の艦攻隊長垂井明少佐が「全軍突撃セヨ」と発信するが、艦攻隊もその直後に襲撃されてしまう。生き残った攻撃隊は防空網を突破して艦隊を攻撃、11時10分過ぎには攻撃を終了して帰還した。
一航戦第一次攻撃隊は89機を喪失。標的になりやすい艦攻はもとより、F6Fの奇襲を真っ先に受けた艦爆や、多勢に無勢の戦いを強いられた艦戦の損害も甚大であった。引き換えに得た戦果は「ワスプ」、「バンカー・ヒル」に至近弾1、戦艦「インディアナ」に突入機1と、ごく僅かなものでしかなかった。
二航戦 第一次攻撃隊
一航戦第一次攻撃隊発艦後の9時00分、二航戦からも攻撃隊が発艦。しかし空中集合が上手くいかなかったことから、二航戦は飛鷹・隼鷹の攻撃隊(本隊)27機と、龍鳳の攻撃隊20機(内9機が飛鷹より発艦)が分離して行動することとなった。
本隊は11時35分頃に攻撃目標地点に到達。視認範囲に戦艦二隻を捉え針路を取るが、視界不良のせいで11時45分に予想地点へ到着したときには敵を見失ってしまっていた。本隊はしばらく付近を捜索していたが、12時00分頃、F6F約40機の奇襲攻撃を受け7機を喪失して遁走。一部機体は三航戦の空母へと着艦した。
一方で分離した龍鳳・飛鷹の攻撃隊は敵艦隊と遭遇せず、また敵機の襲撃を受けることも無く母艦に帰投した。一部の機は大鳳や瑞鶴で補給した後に帰還している(翔鶴はこの時点で沈没途中にあった)。
一航戦 第二次攻撃隊
第一次攻撃隊発艦後、一航戦では第二次攻撃隊の発艦準備が進められていた。出撃数は三空母合わせて約33機の予定であったのだが、大鳳の前部エレベーターが8時10分の被雷の影響で停止し発着艦が不能になってしまい、また先に発艦していた翔鶴と瑞鶴の戦闘機隊は上空直掩を行っていたため、瑞鶴から発艦した14機のみが米機動部隊へ向け進軍することになった。しかし攻撃を急いだせいで爆戦隊と艦攻隊はバラバラの出撃となり、10時30分に発艦した艦攻隊は接敵できず帰還(未帰還1)。それ以前に発艦していた爆戦隊10機も敵を発見できずに帰還するが、その途中で米索敵隊7機を発見し交戦。だが爆戦隊の訓練不足がここで露呈し、8機が撃墜されてしまう。
残った攻撃隊は15時15分過ぎに全機帰還。一部は二航戦に着艦した。
二航戦 第二次攻撃隊第一波
二航戦には九九艦爆と彗星艦爆の、速度が大きく異なる二種類の艦爆が配備されていた。そのため攻撃隊は、速度の遅い九九艦爆を戦闘機に守らせながら先行させ、彗星艦爆が時間差で後を追い戦場で合流するという手はずのもとで発艦を開始したという説がある(異論有)。また第二次攻撃隊はグアム基地、もしくはロタ基地に着陸するように指示されていたが、肝心の両基地はこの事を知らされていなかった。
先行の九九艦爆隊49機(戦闘機隊含む)は10時15分に高度3000メートルで進撃。しかし13時15分、高度6500で予想地点に到着するが敵艦隊を発見できず、攻撃隊は13時50分頃にグアム島へ向かった。当時のグアム島南部ではスコールが発生しており、それを東へ迂回して15時00分頃に高度2500以下で島上空に到達した。すでに発艦から5時間が経過しており、鈍足の九九艦爆を護衛する零戦隊の燃料もすでに底を突きかけていた。
部隊がグアム基地へ着陸しようとしたその時、上空から41機のF6Fに襲撃され空中戦となる。燃料が尽きかけ着陸態勢に入っていた部隊はろくな抵抗もできず、26機が撃墜され、着陸した機体も大多数が大破してしまった。19日のグアム基地は敵戦闘機による断続的な空襲を受けており、この奇襲攻撃はグアム基地と機動部隊の連絡不備が原因とされている。
二航戦 第二次攻撃隊第二波
後を追う彗星艦爆隊15機(戦闘機隊含む)は10時30分に発艦。しかしその直後に3機が故障で引き返し、さらに4機が進撃途中で隊列からはぐれてしまい、指揮官率いる部隊はわずか8機となってしまう。彗星艦爆隊も九九艦爆隊と同じく12時40分に予想地点に到着するが会敵せず。索敵も兼ねてグアム基地へと向かった。
グアム島西側を飛行中の13時40分、部隊は予期せず第58.2任務群を発見。13時45分に突撃を開始し「ワスプ」に至近弾2発、「バンカーヒル」に至近弾3発を与えた。隊長機を含む生き残りの彗星2機は追撃を振り切ってそれぞれグアム基地とロタ基地に着陸。また、途中分離した零戦1機がグアム基地に到着しているが、残りの3機は未帰還となった。
大鳳、翔鶴の沈没
一航戦第一次攻撃隊発艦直後の8時10分、大鳳は米潜水艦「アルバコア」から魚雷を一発受け、気化した航空機用燃料が上下の格納庫に充満し、作業員は対処に追われていた。航行に問題は無かったものの、前部エレベーターが昇降の途中で停止してしまい、第二次攻撃隊が発艦できない状態になってしまったため、穴を応急処置でふさいでとりあえずは発着艦が行えるようになされた。それと並行して気化ガスの換気作業も行われたが、こちらはエレベーターの穴をふさいだせいで遅々として進まず、14時23分、ついに火花が引火して大爆発を引き起こした。その後はもはや手の施しようも無く16時26分に沈没。小沢中将は旗艦を羽黒へと移して指揮を続けた。
大鳳沈没より少し前の11時20分、翔鶴は米潜水艦「カヴァラ」の魚雷を右舷に四本喰らい大火災を起こす。上空では対潜直掩の九九艦爆が1機警戒をしていたのだが、わずか1機では攻撃を阻止することはできなかった。
後の大鳳と同じく、翔鶴は気化した航空機燃料に引火して大爆発。14時10分に沈没する。生存者は矢矧、浦風などに救助された。
6月20日
迎撃戦
敵艦隊を求めて
一夜明けた20日早朝より、一機艦は米機動部隊を求めて偵察機を飛ばしていた。しかし機動部隊による索敵がどれも空振りに終わったため、司令部は戦力を整えた後、22日に再決戦を行うことを決意する。一方の米軍は14時40分、ついに日本艦隊を発見。薄暮攻撃となることを承知の上で攻撃隊を発艦させた。
日本軍もこの情報をすぐに察知して迎撃の用意を整えるなか、16時45分に待望の敵機動部隊発見の知らせが飛び込んでくる。
一航戦 第三次攻撃隊
敵発見の報を受けた司令部は薄暮雷撃を決断し、17時00分に前路索敵機、17時25分に7機の天山艦攻が発艦する。日没後の海上を進撃し、予想地点に到着するが敵は見当たらなかった。
その途中で攻撃隊は2機の所属不明機に後をつけられる。後部銃座の射撃で追い払った後、不明機を米艦載機と考えた攻撃隊は周囲を索敵。だが20時08分に2機が空中衝突を起こし墜落してしまう。
燃料も少なくなってきていたため、攻撃隊は会敵を断念し帰投。23時から24時にかけて全機艦隊の近くで不時着、救助された。空中衝突の機と合わせて3機が未帰還となった。
米攻撃隊の襲来
16時10分に捕捉した米攻撃隊221機は17時30分頃、一機艦に襲いかかった。この米攻撃隊は摩耶の対空電探が艦隊より170キロ地点、若月の電探が135キロ地点で捉えていたものの、情報伝達の不備から迎撃戦の準備に活かされることはなかった。
一機艦は甲・乙・前衛部隊より戦闘機と爆戦を発艦させ、迎撃戦を繰り広げる。日本側では本隊に約100機、前衛に約20機、補給部隊に約25機が襲来したと判断されていた。
対する一機艦の直掩は甲部隊が8機、乙部隊が41機(爆戦含む)、前衛が13機(爆戦含む)と圧倒的劣勢であった。なお一見すると数の多い乙部隊の直掩であるが、その半数は空戦訓練を受けていない爆戦隊であり、戦力になっていなかった(爆戦自体が零戦21型ベースの旧型機である他、機体には艦攻や艦爆の搭乗員が乗っていたため、空戦能力は皆無に等しかった)。
この攻撃によって乙部隊の飛鷹が魚雷2本と爆弾1発を受けて沈没。給油艦「玄洋丸」と「清洋丸」も沈み、瑞鶴、隼鷹、龍鳳、千代田、榛名、摩耶、給油艦「速吸」が損傷した。
米攻撃隊は16機を空戦で喪失。他に81機が不時着水または着艦失敗により失われた。夜間着艦かつ、燃料切れのが多かったせいであるが、その大半は救助され生還している。
6月20日以降
退却
21日。二日間の戦いで航空戦力のほとんどを失った一機艦は退却を開始。明け方過ぎまで敵機の触接が続くなか、後方索敵を繰り返しながら離脱した艦隊は、敵の追撃を受けることなく22日に沖縄の中城湾に到着した。艦隊はそこで補給を受け、23日に内地に帰還した。
こうして日本軍は決戦に敗れた。この「あ号作戦」で戦死した一機艦の搭乗員は425名と、総搭乗員の六割にもおよび、艦隊も新鋭空母の大鳳の他、翔鶴と飛鷹を失うという、まぎれもない惨敗であった。
結果
参加空母の30%、搭乗員60%、艦載機にいたっては90%以上を失った日本機動部隊は壊滅し、人的資源の問題や海軍の方針転換からこれ以降、完全に再建されることはなかった。更にマリアナ諸島を失ったことにより絶対国防圏が崩壊。日本本土は44年末より、米爆撃機による空襲に曝されることとなる。
また、大鳳と翔鶴を失い瑞鶴だけになってしまった第一航空戦隊は、雲龍型を中心とした部隊に引き継がれたが、稼働空母がいなくなった第二航空戦隊は7月10日解隊となった。本隊で唯一損害が軽微であった瑞鶴は、瑞鳳、千歳、千代田から成る第三航空戦隊に編入され、後のレイテ沖海戦で共に囮として散ることになる。
そして第三艦隊ならびに第一機動艦隊は11月15日に解散。日本機動部隊の歴史は幕を下ろした。
本海戦は米側が勝利したものの日本艦隊主力を取り逃した決着のつかなかった決戦として「翼のあるジュトランド沖海戦」と呼ばれる事もあるようであるが、機動部隊航空兵力は壊滅し、日本軍の戦略的目標であった絶対防衛圏の死守は失敗し、45年以降はB-29の大編隊が日本本土を焼け野原と化していく事を鑑みれば、日本の興廃を賭けた決戦の結果は明白であろう。
なお、マリアナ沖海戦では、あまりにも一方的な戦闘経過に米軍が「まるで七面鳥撃ちのようだ」と嘲笑ったという。
余談
上記のように、この海戦の一方的な空戦はマリアナの七面鳥狩り(Great Marianas Turkey Shoot)と呼ばれたが、現在アメリカ空軍ではこれを元ネタとした「オペレーション・ターキーシュート」という軍事演習を定期的に行っており、1000以上もの地上目標に対し戦闘機が一斉に攻撃をかける内容となっている。
また、この海戦に参加していた榛名は、後部甲板に直撃弾を受けてしまい、最大船速を出せなくなってしまった(修繕後も最大船速を出すと、艦尾が振動を起こすようになってしまい、これ以降は機関三軸運転を余儀無くされ、最大船速も26ノットまで落ちた)。
攻撃範囲内ぎりぎりで日本艦隊攻撃隊を発艦させたアメリカ側であったが、その為に80機以上の機体が不時着や着艦失敗により失われた。艦載機の帰還は日没以降となったが、第58任務部隊司令長官マーク・ミッチャー中将は潜水艦に対する危険も顧みずに母艦のライトを照射して攻撃隊を着艦させたという。
勝者のアメリカ側では、追撃が手緩く日本艦隊の主力を取り逃したとして(大鳳・翔鶴の損失は海戦直後にはアメリカ側には確認されていなかった)、船団・上陸部隊護衛任務を全うしたにもかかわらず第五艦隊司令長官であるレイモンド・スプルーアンス大将への批判が相次いだ。その影響がレイテ沖海戦でウィリアム・ハルゼー大将が小沢治三郎中将の囮である機動部隊への攻撃に全力を向けた遠因になったとも言われる。
マリアナ沖海戦にまつわる話でよく登場するのがVT信管(近接信管)である。
「米艦艇に配備されたVT信管が300機あまりの日本機を次々と叩き落としていった」……という話が昔は定説だったのだが、昨今では否定されている。
VT信管の配備後も従来の時限信管は使われており、そもそもこの海戦で使用されたVT信管の数は全5インチ砲弾中わずか20%である。米軍戦闘詳報では「19機」を対空砲で撃墜したことになっているが、この数を鵜呑みにしても総撃墜数の一割以下である。また戦争後半におけるVT信管と時限信管の撃墜数を比較しても、両者に際立った差があるわけでもない(0.1%が0.3%になった位の差はあるが)。
19日の航空戦で米軍が圧勝を収めた要因の一つは「CICの的確な指示によって、敵よりも圧倒的多数の戦闘機が、敵よりも圧倒的有利な位置(高度)につき、不意を突いて一斉に襲いかかった」からである。現に撃墜数の約90%は戦闘機による戦果である。
「VT信管」の活躍は、「レーダー射撃」と同じように、後世の人間によって半ば神話化(過大評価)されたものに過ぎない。
pixivにおいては
主として軍艦のイラストにこのタグが付けられているが、最近においては第二次世界大戦で活躍した軍艦を擬人化したキャラクターが登場するブラウザゲーム『艦隊これくしょん』のイラストが多い。