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小沢治三郎

おざわじさぶろう

「アウトレンジ戦法」 最後の連合艦隊司令長官

略歴
 明治19年(1886)10月2日~昭和41年(1966)11月9日(80歳没)。宮崎県児湯郡高鍋町出身。
 海軍兵学校第37期生。同期に「最後の海軍大将」井上成美草鹿任一(草鹿龍之介の従兄)がいる。
 兵学校卒業後、遠洋航海に出るが、その時の乗艦(宗谷)の艦長鈴木貫太郎大佐(終戦時の首相)、候補生を指導する指導官が山本五十六大尉(開戦時の連合艦隊司令長官:当時は高野姓)、指導官付が古賀峯一中尉(山本の後任の連合艦隊司令長官)という豪華極まりないものだった(階級は当時)。

 開戦時は南遣艦隊司令長官として陸軍と共同してマレー半島攻略に貢献し、そのため陸軍側から「海軍で一番偉いのは小沢中将だ」と評価された(同期の井上は大の陸軍嫌い)。インドネシア攻略を担当する陸軍の第16軍司令官今村均中将の要請を受け、独断で護衛の艦艇を派遣した(第七戦隊第三水雷戦隊の大部分、第四航空戦隊)。

 昭和17年11月11日、南雲忠一の後任として第三艦隊司令長官となるが、着任早々の仕事が搭乗員の訓練だった。その搭乗員も目途が付いた頃になると、二度にわたって陸上基地へ転用させられ(昭和18年4月のい号作戦、11月のろ号作戦)、大部分の搭乗員が失われる結果となった。
 参謀からは「小沢さんが気の毒だ。あれ(度重なる母艦艦載機の陸上基地転用)は賽の河原だ」と気の毒がられた程である。

 昭和19年3月1日、第一機動艦隊司令長官兼第三艦隊司令長官。
 シンガポール近くのリンガ泊地で訓練を実施していた小沢に、フィリピン・スル海近海のタウイタウイ泊地に異動命令が下ったのは5月上旬。そして5月16日にはタウイタウイ泊地に第一機動艦隊の全艦艇が集結した。
 タウイタウイは油田が近くにあったが、泊地は狭いため艦載機の発着艦訓練をするには泊地を出なければならなかった。しかし日本海軍の作戦を事前に察知していたアメリカ軍は泊地周辺に多数の潜水艦を配備しており、発着艦訓練のために空母が泊地を出た途端に雷撃を受けて、慌てて泊地に戻る始末だった。対潜掃討として駆逐艦を出せば、逆に攻撃を受けて沈められる始末だったため、機動艦隊の参謀が「駆逐艦を出すな」と悲鳴を上げたという。
 6月13日、タウイタウイを出撃した第一機動艦隊はマリアナ沖に向かうが、タウイタウイ集結の間に空母搭載機の発着艦訓練やコンパスの調整が十分に出来なかった事が響く事になる。
 6月18日早朝から索敵を開始し、午後に米機動部隊を発見。前衛部隊の第三航空戦隊(瑞鳳千歳千代田)から攻撃隊が発艦するが、小沢は攻撃後の帰艦が夜半になり、夜間発着艦訓練がマトモに出来ていない事を考慮して攻撃中止を命じ、機動艦隊と敵との距離を開くべく西方へ針路を執ったが、この措置は敵潜水艦の哨戒網に飛び込む結果となり、翌19日に大鳳翔鶴を失う結果となった。

 マリアナ沖海戦に際して、小沢が考案したのはアウトレンジ戦法である。
これは日本の艦載機がアメリカのそれより航続距離がある事を利用して、母艦艦載機で敵空母の飛行甲板を使用不能にして、最後に前衛部隊(第二艦隊)を突入させる、というものであった。食うか食われるかの一発勝負の母艦航空戦においては構想は立派だが、問題は搭乗員の腕であった。この時、第一航空戦隊搭乗員の飛行時間が長い者で半年、第二航空戦隊が3ヶ月、第三航空戦隊に至っては2ヶ月という有様であった(ちなみにアメリカ軍は1年)。この時、既に共同作戦をすべき第一航空艦隊(基地航空部隊)は壊滅していたが、その事には誰も気付いていなかった。
 麾下部隊の参謀や搭乗員からは、アウトレンジ戦法に対する懸念や異論はあったものの、小沢に直言出来る者はいなかった。機動艦隊の航空参謀を務めた田中正臣少佐は「少佐と中将という格の差いうものもあるが、人間の迫力の差だ。くつろいだり、酒を飲んだりしている時でも、この差があって、トコトン意見をぶつけられない」と評している。
 果たして、6月19日に3つの航空戦隊から放たれた攻撃隊は、アメリカ艦隊の防御(待ち構えるグラマンF6Fヘルキャット戦闘機の迎撃、猛烈な対空砲火)の前にその過半数が撃墜されてしまう。それらを運良くくぐり抜けることが出来た少数の機も、ごく僅かな損害を与えることしか出来なかった。翌20日には、アメリカ艦隊の追撃を受ける立場になり、3隻目の空母飛鷹を失った。

 マリアナ沖海戦後に機動部隊の再建に取り掛かったが、台湾沖航空戦によってまたもや母艦艦載機を取り上げられる羽目になり、レイテ沖に向かう栗田健男中将率いる第二艦隊の支援として、敵機動部隊を引き付ける囮の役を与えられた。
 この時、ブチ切れた小沢が「それなら第二艦隊の指揮を他の者に任せるのではなく、連合艦隊司令長官が自ら出て行ってレイテ湾に殴り込め。無力な第三艦隊を囮に使うという破天荒な作戦が成功するなどと、そんな上手い話があるか!」と軍令部の担当者を怒鳴りつけるほどだった。
しかし軍令部はそれを無視し、連合艦隊司令部は神奈川県の慶應義塾大学・日吉キャンパスの敷地内にあった地下司令部から動く事はなかった。
 そして連合艦隊司令部が小沢に下達した命令が「敵機動部隊を北方に誘致し、第二艦隊のレイテ湾突入を間接に掩護する」「いかなる機会をも逃さず、敵艦隊を捕捉撃滅すべし」というものであった。
 小沢は台湾沖航空戦に投入されなかった艦載機を掻き集めて第三航空戦隊(旗艦:瑞鶴。以下、瑞鳳千歳千代田)に搭載したものの、その数は116機(米正規空母の1隻分)にしかならなかった。
 昭和19年10月20日、小沢機動部隊は出撃し、平文電報を出しながらフィリピン北方海域へと南下していった。出撃前、小沢は機動部隊の将兵に対して「何が何でも敵機動部隊を北に引っ張り上げる。栗田艦隊がレイテに突入するには我々が犠牲になる事で成功する。全滅覚悟で行く」と言ったそうで、敵機動部隊の索敵機に発見された時には「バンザイ」の声が上がったらしいが、小沢は「囮だから早く発見されるのを望むが、それは部下の殺されるのを望んでいると同じだから、こんなバカな話はない」と言ったという。

 昭和19年11月18日、海軍軍令部次長兼海軍大学校長。
 この時、小沢は陸軍の石井四郎中将と共同してPX作戦を立案する。これは蚊やネズミなどに細菌等を付着させ、それを伊号潜水艦(伊400型)の艦載機に搭載してアメリカの主要都市にばらまく、というものであった。翌20年3月には作戦が認可される直前まで行ったが、陸軍参謀総長・梅津美治郎大将が「非人道的な作戦である」と難色を示して作戦は中止になった。
 5月29日、海軍総隊司令長官兼連合艦隊司令長官、海上護衛司令長官。海軍大臣・米内光政大将から大将へ昇進するよう要請されるが、これを固辞する。



 逸話
 柔道に長じ、旧制宮崎中学時代は野球の指導も後輩に実施していた。

 中学時代に不良に因縁を付けられてケンカとなり、それが新聞沙汰になって学校を退学させられ、東京の私立成城中学に編入したは良いが、ここでも因縁を付けられてケンカをするが、その人物は、後に「柔道の神様」と言われる三船久蔵だった。

 兵学校1期上の南雲忠一は飲み友で、人事面でも小沢は南雲の後任の場合があった。
南雲が第八戦隊司令官(軽巡部隊)の頃、着任したばかりの参謀が南雲に質問をすると「それは小沢が良く知ってる」「小沢に聞いた方が良い」と言ったという(後任が小沢と決まっていた)。

 新聞沙汰になって学校を退学させられた連合艦隊司令長官はおそらく彼だけかも知れない。

 似たような境遇の西村祥治中将に対して「君は舎監の不正を訴えての退学だから良いよ。オレは不良をブチのめして退学になったんだからね」と言ったともいう(西村は旧制秋田中学時代に宿舎の舎監の不正を訴えて退学となり、同県内の旧制横手中学に編入)。

 南遣艦隊司令長官時代にミッドウェー海戦の戦闘経過から、敵に暗号が漏れているのではないか、という疑惑を持ち、たまたま小沢を訪ねた軍令部の参謀に調査を依頼したが、帰国後に軍令部へ確認したところ、返って来た言葉が「そんな事はありません」というものであった(実際はダダ漏れ状態だった)。

 同期の井上成美は「オレのクラス(37期)で戦上手なのは小沢治三郎、草鹿任一、大河内伝七の三人だけ」と評している。
 同期の草鹿は「オレのクラスの特徴は実務家の多い事だ。井上は軍政、小沢は戦術・・・また艦隊司令長官、司令官、術科学校長などもオレのクラスから多く出ている」と言っている。
 小沢と草鹿は兵学校時代に同じ分隊にいた事もあって仲が良く、戦後になっても交流を続け、戦後に草鹿が軍人恩給復活運動に関係し始めた時に「貴様は恩給運動で大いにやれ。オレは戦前の在郷軍人のようなものを再建する必要がある」と激励し、小沢の運動は現在の日本郷友連盟の基礎となった。

 山本五十六が戦死する直前に「戦のやり方を変えてみたい。差し当たり黒島(亀人先任参謀)を替えたい」と小沢と草鹿に語ったという。

 山本五十六は多くの揮毫をして部下などに送っているが、小沢はそういう事はせず、戦後に詠んだ和歌が2首あるのみである。
「新玉の春の海原、眺むれば、夢又夢のよみがゑるかも」
「秋風五丈原、唱ひし頃の若い夢。夢を抱いて我は生き抜く」

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