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概要編集

「金剛」の名を持つ軍艦は現在までに3回建造されている。

ここでは2代目の金剛について解説する。


艦名は、奈良県大阪府の境にある金剛山にちなんで命名された。

旧国名ではなく山岳名となったのは、当初「装甲巡洋艦」として計画され、一等巡洋艦の命名慣例に従ったためである。

日本初の超弩級戦艦で、金剛型戦艦の一番艦。

エルトゥールル号遭難事件に遭ったトルコ将兵を母国に送り届けたコルベット艦「金剛」を襲名したもので、海上自衛隊のこんごう型ミサイル護衛艦1番艦の「こんごう」に名が受け継がれている。

3代とも外国製・もしくは外国での設計に依るという珍しい存在である。

建造の経緯編集

1907年英国ヴィッカース社(現・BAE LS)に金剛の建造を依頼。

当時日本では弩級戦艦(河内型)を建造中であったが、欧米の戦艦の著しい進歩により建造中に陳腐化してしまい、イギリスの進んだ建艦技術を学ぶ事が目的にあった。

オスマン帝国に輸出予定の戦艦レシャド5世を元に設計され、英国で計画中の巡洋戦艦タイガーの設計見直しにも影響を与えている。


第二次世界大戦中は最古参の戦艦にもかかわらず、30ノットの快速で空母機動部隊に随伴し、最も活躍した戦艦となった。乗員数は同型艦の中でも最も多く、大和や武蔵といった大型戦艦に次ぐ人数が金剛に乗船していた。


戦記物では、「高速戦艦」と呼ばれることも多い。

二度に亘る改装編集

一次改装、二次改装共に榛名から行なわれている。また金剛や霧島に改装以前から標準装備されていた武装を改装後に榛名にも追加装備としてまわしている(武装面での優先順位が低い)ことからも、榛名をテスト艦としていたと思われる。これ以外にも度々小改装が実施されている。


第一次改装編集

水平防御を強化した結果、速力が低下した。砲塔部分の防御力強化やバルジの設置などで水中防御の改善も行われた。類別を巡洋戦艦から戦艦に変更


第二次改装編集

水雷戦隊との作戦が考慮され、機関出力を強化し速力30ノットへ。主砲と副砲の仰角を更に引き上げ、射程延長。弾薬庫が改造され九一式徹甲弾が使用可能となっている。


諸元編集

新造時

全長214.6m
全幅28m
基準排水量26330t
満載排水量32100t
武装
  • 45口径35.6cm連装砲塔4基
  • 50口径15.2cm単装砲16門
  • 53cm魚雷水中発射管8本
装甲
  • 水線部203mm
  • 甲板19mm
  • 弾火薬庫甲板64mm
速力27.5ノット
乗員1201名

第二次改装後

全長219.4m
全幅31m
基準排水量31720t
満載排水量36314t
武装
  • 45口径35.6cm連装砲塔4基
  • 50口径15.2cm単装砲8門
  • 40口径12.7cm連装高角砲塔6基
  • 25mm三連装機銃18基
  • 25mm連装機銃8基
  • 25mm単装機銃30丁
航空兵装
  • 水上偵察機3機(カタパルト1基)
装甲
  • 水線部203mm
  • 甲板80mm
  • 弾火薬庫甲板125mm
速力30.3ノット
乗員2367名

艦歴編集

1913年8月16日、英国ヴィッカース社で竣工。同日、横須賀鎮守府に入籍。

1913年12月1日、第一艦隊旗艦を務める(※)。

1914年、第一次世界大戦ではミッドウェー方面哨戒。

1928年10月20日~1931年9月20日、第一次改装実施。

1935年6月1日~1937年1月8日、佐世保鎮守府移籍。第二次改装実施。

1941年12月、榛名と共にマレー方面に進出。その後、空母機動部隊に随伴してインド洋作戦に参加。

1942年10月13日、ガダルカナルヘンダーソン飛行場に対して夜間砲撃を行なった。金剛は旗艦として榛名と共に出撃し、一時的に飛行場を使用不可能にした。これ以前にも重巡洋艦青葉古鷹衣笠によるヘンダーソン飛行場への艦砲射撃が行なわれているが、巡洋艦の中口径主砲では効果が無かった。日本海軍は合計7回に渡り同様の作戦を展開したが、米軍はすぐに飛行場を修復したため失敗に終わり、比叡霧島を喪失している。

1944年10月25日、サマール沖での米護衛空母群(タフィ3)と遭遇戦(サマール沖海戦)。金剛はこの遭遇戦で米護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツのボート・デッキに主砲を直撃させ撃沈。また利根や羽黒らと共に米護衛空母ガンビア・ベイに接近戦を行い喫水線下に砲撃を与えガンビア・ベイを浸水によって沈没させている。戦艦による空母の撃沈例は世界的にも珍しく、他にはドイツの巡洋戦艦シャルンホルストグナイゼナウがイギリス軍空母グローリアスを撃沈しているのみである。

1944年11月21日3時6分、レイテ沖海戦による損傷のため日本へ帰投する最中、基隆沖台湾海峡にて米潜水艦シーライオンの雷撃を受け2発の魚雷が命中。当初は航行には支障が無かったが、徐々に浸水。乗員がこれに気づき修理を行なった時には既に遅く、午前5時30分頃転覆・沈没。艦長島崎利雄少将・第三戦隊司令官鈴木義尾中将以下約1,300名が戦死した。


※通例、第一艦隊旗艦は連合艦隊旗艦でもあるのだが、この年は連合艦隊が編成されなかった。ただし、1923年・1931年・1933年には連合艦隊旗艦を務めている。

余談編集

  • 第一次世界大戦中、ドイツの巡洋戦艦などの高速艦艇に苦しめられていた英国海軍は、日本に金剛の貸与を打診した。
  • ヘンダーソン飛行場を夜間襲撃した際、ガダルカナルに駐留していた米軍の主力は、当時、米国最強と言われていた「第1海兵師団」。その砲撃の最中、壕に避難した師団長アレクサンダー・ヴァンデクリフト少将に参謀が、「閣下はどのように思われたか分かりませんが、私はこれに比べたら爆撃や野砲の砲撃の方がはるかにマシだと思います」という内容を述べ、ヴァンデクリフトも内心では同意していたという。
  • 日本海軍史上唯一の潜水艦に撃沈された戦艦である。
  • 第一次近代化改装にてロ号艦本式ボイラーに載せ替える形でヤーロー式ボイラーは全基撤去されたが、一部は東京の海軍技術研究所・科学技術庁金属材料研究所の建物用ボイラーとして1993年まで使用され、現在は広島県呉市の大和ミュージアムに寄贈され一般展示されている。
  • 1917年(大正6年)に海軍機関学校の英語教師をしていた芥川龍之介が金剛へ搭乗し、その時の体験を『戦艦金剛航海記』に記している。同書では、「帽子をかぶった軍艦の夢」を見たと書かれている。
  • 上官による新兵のしごきが「地獄」に例えられるほど厳しいのは、当時の戦艦勤務の逸話では有名な話だが、こと金剛の厳しさは「鬼金剛」という異名がつき、「横須賀山城佐世保の金剛」と並び称され“しごきの東西両横綱”とまで言われたほど厳しかった。
  • 海外に発注し建造された最後の主力艦であり、その為か改装工事では国産である比叡、榛名、霧島と比べて頑丈で工員泣かせだったとも言われる。

同型艦編集

比叡 榛名 霧島

戦艦金剛に関連する作品/キャラクター編集


その他にアメリカのTVドラマ「スタートレック」には、エンタープライズ号の姉妹艦として「USSコンゴウ NCC-1710」が存在するとされる(設定のみ。この設定ができた時期は海自のこんごうが就役する前である)

関連タグ編集

大日本帝国海軍 戦艦 金剛型戦艦

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