詳細は、Wikipediaの比叡(戦艦)へ。
艦名の由来
比叡の艦名は、京都府にある比叡山に由来する。戦艦であるのもかかわらず旧国名ではなく山岳名になっているのは、金剛型が当初「装甲巡洋艦」として計画され、一等巡洋艦の命名慣例に則った為である。
建造の経緯
英ヴィッカース社へ発注して建造した金剛の設計図を元に、主要部品をヴィッカース社に発注し横須賀海軍工廠にて「卯号装甲巡洋艦」として起工。1912年11月に「卯号巡洋戦艦」として進水し、大正天皇による命名式が行われ比叡となった。
3度にわたる改装
練習戦艦に改装
1929年10月15日より呉海軍工廠にて第一次改装に着手されるが、1930年にロンドン海軍軍縮条約が締結され工事は一旦中止。条約により戦艦1隻が練習戦艦へ改装されることになり、金剛型で工事の一番遅れていた本艦が選ばれた。
工事は4番主砲と舷側装甲の撤去及び機関の変更が行われ1932年12月31日に完了、翌1933年1月1日に練習戦艦に類別変更された。
御召艦に改装
練習戦艦となった比叡は兵装が撤去され、艦内のスペースが余っていた。また、スケジュールを組みやすいことから昭和天皇の御召艦として利用された。
1933年5月には展望台を設けるなど、御召艦用施設の設置工事を横須賀工廠で行った。
大改装
1936年11月により呉工廠で戦艦として復活する大改装が行われた。第一次改装を実施していなかった比叡は姉妹艦で二度に渡って行われた改装を一度に行う形となった。
比叡の近代化改修は大和型戦艦のテスト艦としての役割も担っていた。艦橋は大和型と似た塔型構造を採用し、艦橋トップの方位盤も大和型で採用予定のものを搭載している。これにより姉妹艦とは艦影がかなり変わった。
また浮力を増す為に増設されたバルジの厚みも姉妹艦に比べ大きく取られている。
戦歴
1941年12月8日、真珠湾攻撃を行う南雲機動部隊を護衛する。
1942年3月1日、ジャワ島南方海域で米軍駆逐艦・エドソールを副砲射撃で撃沈した。
6月5日、ミッドウェイ海戦では正規空母4隻沈没の後、米軍機動部隊との水上戦闘を企図したが果たせなかった。
8月24日の第二次ソロモン海戦、10月26日の南太平洋海戦に出撃するも、特に戦果はなかった。
1942年11月12日、第三次ソロモン海戦が勃発し、ヘンダーソン飛行場への夜間艦砲射撃の任務に就いた比叡は米艦隊と遭遇。集中砲火を浴び火災が発生、舵が故障する。
夜が明けると、同じ場所をグルグル回ることしかできなくなった比叡は米軍機の空襲を受け、損傷甚大とされ、処分が決定された。混乱により、自沈だったのか雷撃処分だったのかは不明。
「機関室全滅」の報告を受けての判断だったが、総員退艦後に誤報と判明。だが時既に遅く、一度退避した味方駆逐艦が戻ったころには比叡の姿がなく、沈没と判定された。
比叡は太平洋戦争で沈没した日本海軍初の戦艦となった。
それから77年後の2019年1月31日、武蔵を発見したことで知られるポール・アレン財団により比叡は発見された。転覆状態で艦体の3分の1が吹き飛んでいることが判明しており、比叡の最期の謎が解明されることが期待されている。
諸元
新造時
全長 | 214.6m |
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全幅 | 28m |
基準排水量 | 26330t |
満載排水量 | 32100t |
武装 |
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装甲 |
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速力 | 27.5ノット |
乗員 | 1221名 |
大改装後
全長 | 222m |
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全幅 | 31m |
基準排水量 | 32350t |
満載排水量 | 36600t |
武装 |
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航空兵装 |
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装甲 |
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速力 | 29.7ノット |
乗員 | 1222名 |
余談
- 御召艦時代に、本艦が切手として描かれ、写真週報でも報道されるなど、戦前の日本海軍を代表する軍艦であった。これらにより戦前では長門型戦艦、高雄型重巡洋艦と同じくらい親しまれた艦であったという。日本の戦艦が切手に登場したのは、同じく御召艦であった香取型戦艦(香取と鹿島)を描いた1921年発行の昭和天皇帰朝記念切手以来2度目のことであった。
- 1936年2月の二・二六事件では、横須賀鎮守府の井上成美参謀長が米内光政司令官に「万一の場合は陛下を比叡に御乗艦願いましょう」と進言しており、より深刻な事態になった場合は昭和天皇が「比叡」から指揮を執る事態もありえた。同年には北海道で行われた陸軍大演習に際し、天皇を横須賀から小樽まで送り届けた。
Wikipedia:比叡(戦艦)参照。