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詳細は、Wikipediaの榛名(戦艦)へ。



艦名の由来編集

榛名の艦名は、群馬県にある上毛三山の1つ、榛名山に由来する。


戦艦にも拘らず旧国名ではなく山岳名を持つ理由は、本艦を含む金剛型は当初「装甲巡洋艦」として計画されたため、一等巡洋艦の命名慣例に従ったものである。


同型艦として金剛比叡霧島がある。


建造の経緯編集

「第二号装甲巡洋艦」として計画され、1911年4月、神戸川崎造船所(現・川崎重工)に発注された。主力艦として初めて、国内の民間造船所に建造発注された艦である。以降、民間造船所でも主力艦の建造が行われるようになる。

一方、三菱合資会社三菱造船所(現・三菱重工長崎造船所)にも「第三号装甲巡洋艦(のちの霧島)」が発注され、工程の進捗状況がほぼ同時であったことから両社は激しい競争意識をもって建造に当たった。途中、故障で予定が遅れた川崎造船所造で機工作部長が自刃するという事件が起き、事態を重く見た海軍は榛名と霧島を同時竣工とさせ、両造船所のメンツが立つよう配慮した。


新造時の特徴編集

川崎造船所はジョン・ブラウン社と技術提携を結んでいたため、ブラウン・カーチス式直結タービンをライセンス生産したものを主機として搭載していた。

主砲には国産の四一式36センチ砲(正確には14インチ=35.6センチ砲)が、本艦より採用された。

副砲は両舷の甲板よりやや低い砲郭に片舷8門計16門を装備したが、第一次世界大戦以降、戦艦で小口径砲が利用される機会は激減し、後に重量軽減や不沈対策の名目で削減され、戦争後半には片舷4門計8門を残す状態となっていた。

姉妹艦同様、新造時に53.3cm魚雷発射管を片舷4門ずつ計8門装備していた。砲戦距離の延長もあって、実戦で魚雷が使われた記録は無い。発射管については後に撤去された稼動かは不明である。


艦歴編集

建造編集

1912年3月16日、川崎重工業神戸造船所で起工。1913年12月14日進水、1915年4月19日巡洋戦艦として竣工、横須賀鎮守府に入籍。同年12月に第二艦隊第三戦隊に同型艦3隻と共に編入。

1916年、方位盤射撃照準装置(試作機)を、日本で初めて搭載。

第一次世界大戦編集

第一次世界大戦には日本も連合国側として参戦していたため、榛名は中国方面・中国北部方面・ロシア方面などへの警備活動を行っている。

近代化改修編集

1920年9月12日、戦闘訓練中に1番砲塔右砲内で榴弾が破裂する事故が発生、船体全域に亘る損傷を負い修理のため横須賀へと回航された。その頃、ユトランド沖海戦の戦訓から大落角の砲弾に対する巡洋戦艦の水平防御力の脆弱性が問題となり、入渠した榛名に水平装甲強化と主砲射程延長などが行われた。

1921年、ワシントン海軍軍縮条約が締結された。金剛型の代替として計画されていた天城型は建造中止となり、金剛型の戦力維持を図ることとなった。

まずは榛名に更なる改装工事が施された。1924年より従来の石炭・重油混焼缶から重油専焼缶への換装、上部構造物と船体の大幅近代化が行われて、それまでの低い司令塔と高い櫓の組合せであった艦橋から、日本の戦艦の特徴と言われる”城郭型檣楼”(パゴダ・マスト)に改められた。ただし、予算の都合で榛名は混焼缶を一部残しており、8年の長きに亘り現役を退くことになった。

改装によって重量が増したため速力が25ノットに低下。このため後の1931年6月1日付で姉妹艦3隻と共に巡洋戦艦から戦艦に艦種変更された。


1928年12月4日、昭和天皇即位を記念して挙行された大礼特別観艦式において御召艦を務めた。1931年11月8日の熊本行幸の際にも御召艦を務めている。


1933年9月、海軍軍縮条約失効をにらんだ二度目の大改装が施されることとなり、再び榛名が金剛型で最初となった。出力を新造時の倍としたことで速力も30ノットを超える高速戦艦(これ以降の金剛級戦艦は、そう称される。公式類別は「戦艦」)として生まれ変わった。

太平洋戦争編集

太平洋戦争開戦時は第一艦隊第三戦隊に配属、金剛と共に第一小隊を組み、南方作戦支援に回された。1941年12月4日、馬公を拠点に出撃し、陸軍の馬来上陸作戦支援を皮切りに、比島上陸作戦・蘭印攻略作戦などを支援した。この間、戦艦プリンス・オブ・ウェールズ・巡洋戦艦レパルスを中心とする英国東洋艦隊を迎撃すべく邂逅を図るも、同艦隊が日本軍航空隊に壊滅させられ果たせず(マレー沖海戦)。


1942年2月には南雲機動部隊と合流、姉妹艦4隻が揃ってセイロン沖海戦に従事。

3月1日、ジャワ島近海で米駆逐艦エドソールを僚艦と共に砲撃により撃沈。

3月7日、クリスマス島に艦砲射撃を行った。

6月5日、ミッドウェー海戦では霧島と共に機動部隊の護衛に当たるが、味方空母部隊は全滅。空母飛龍の乗員を救助中、榛名も至近弾を受けて損傷した。

7月14日に第二艦隊へ異動し、金剛と共に第三戦隊を再編成した。

9月、前進部隊本体に編入され、トラック島へ本拠を移した。

10月13日、金剛と共にヘンダーソン飛行場に艦砲射撃を行った。

10月26日、南太平洋海戦に参加するが、空母艦隊同士の航空戦に終始し、また主力とは別行動で戦闘の機会は無かった。


1943年2月、ガダルカナルからの撤収作戦(ケ号作戦)を支援する。

その後は内地とトラック島を行き来するが、翌年まで戦闘に参加することはなかった。


1944年6月19日。マリアナ沖海戦に参加。前衛部隊の一艦として出撃するも、主力空母部隊は大損害を受け敗退、榛名も直撃弾2発を受けて損傷。修理完了後も全速力を出すと艦尾が振動するなど戦力発揮に影響を与えた。修理と併せて舷窓閉塞など不沈工事や対空火器の大幅増強が行われている。


10月にレイテ島に上陸した米軍に対し発令された、捷一号作戦に第一遊撃部隊の一艦として参加。

25日、サマール島沖で米第77任務部隊第4群第3集団の護衛空母群("タフィ3")と交戦。米艦隊を追撃したが、艦尾振動の影響で戦果は上げることができなかった。帰途、スルー海において至近弾を受け損傷。内地に帰投、呉にて修理を行った。

以後、出撃する機会は二度と無かった。

最期編集

1945年に入ると日本は艦船を運用する燃料に事欠くようになり、榛名も呉で停泊するのみとなった。

2月に呉鎮守府の警備艦となり、3月19日に空襲を受けたが被害は軽微だった。

4月に予備艦籍に入り、対空火器や副砲、対空指揮装置などを陸上防衛に転用のため撤去された。

6月22日、空襲で直撃弾1発を受け、防空砲台となるべく呉の対岸・江田島小用沖に転錨。

7月24日と28日の呉軍港空襲により、命中弾を受け大破着底し、そのまま終戦をむかえた。

11月20日除籍。

1946年5月2日、浮揚解体作業に着手し、7月4日完了。


開戦時すでに艦齢26年の老朽艦ながら、最前線にあって主要海戦の多くに参加し、しばしば損害を受けた。日本戦艦で最も多くの海戦を生き延び、その終末を解体という形で迎えた。

兵庫県尼崎市の難波八幡神社境内に第二次近代化改装で撤去されたマストの一部が設置されている。また、広島県江田島市の江田島公園に、装甲巡洋艦「出雲」の戦没者と共に、留魂碑が祀られている。


記録編集

戦艦榛名が持つ記録として「敵軍が戦意高揚のため虚偽の撃沈を報道した回数」6回、というものがある。これは日本軍艦艇で1位、世界ランキング2位にあたる。

ちなみに1位は愛称「ビッグE」こと空母エンタープライズ(USS Enterprise, CV-6)の9回。


諸元編集

新造時

全長214.6m
全幅28m
基準排水量26330t
満載排水量32306t
武装
  • 45口径35.6cm連装砲塔4基
  • 50口径15.2cm単装砲16門
  • 53cm魚雷水中発射管8本
装甲
  • 水線部203mm
  • 甲板19mm
  • 弾火薬庫甲板64mm
速力27.5ノット
乗員1221名

第二次改装後

全長222m
全幅31m
基準排水量32156t
満載排水量36023t
武装
  • 45口径35.6cm連装砲塔4基
  • 50口径15.2cm単装砲8門
  • 40口径12.7cm連装高角砲塔6基
  • 25mm三連装機銃24基
  • 25mm連装機銃2基
  • 25mm単装機銃23丁
航空兵装
  • 水上偵察機3機(カタパルト1基)
装甲
  • 水線部203mm
  • 甲板80mm
  • 弾火薬庫甲板125mm
速力30.5ノット
乗員1315名

Wikipedia:榛名(戦艦)参照。

関連タグ編集

大日本帝国海軍 戦艦

戦艦金剛 戦艦比叡 戦艦霧島

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