概要
ワシントン海軍軍縮条約とは、1922年にアメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.で結ばれた条約。
世界初の軍縮条約でもあり、列強諸国の海軍の軍拡競争(主に戦艦)を終息させることが主な目的だった。
pixivでは、この条約で運命の狂った空母赤城・加賀や、その擬人化キャラクターである『艦隊これくしょん』の赤城・加賀を条約に絡めて描いたものが多い。
背景には、当時、戦艦とは極めて戦略的な兵器だという幻想があったことがある。当時の戦艦に匹敵する捉え方を(主に感覚面において)されるのは、現在では核兵器しかない。
基本的に現状で状況を固定し、軍拡競争を制限することで国際緊張や財政負担を和らげることを狙っていたが、保有量が制限されなかった巡洋艦・駆逐艦・潜水艦などで軍拡競争を招いた面もある。
また、日本では米英の6割に押さえられて、戦争になれば勝ち目がないと憤慨する意見もあったが、米英を日本の約1.67倍に押さえこみ、国力の差を考えればむしろ過大な保有枠を与えられていた。
具体的には下記のようになる。
- 戦艦(巡洋戦艦など含む、以下戦艦とあるものはすべてこの意味)の保有量を、現状に基づいて、アメリカ合衆国・イギリス(大英帝国)は52.5万トン、日本は35万トン、フランス・イタリアは17.5万トンとする。
- 上記のため、保有制限を超える旧式戦艦の廃棄、並びに工事中・計画中の新型戦艦の中止を行う。
- 残る旧式艦の更新は認められるが、さしあたり10年間は禁止(海軍休日)。
- それまで艦の大きさについてあやふやだった定義を「排水量を基準とすること」になり、基準排水量という統一定義が生まれた。
- 更新される戦艦は、最大基準排水量3.5万トン、最大主砲口径16インチとする。
- 空母の保有量も制限し、アメリカ・イギリスは13.5万トン、日本8.1万トン、フランス・イタリアは6万トンとする。
- 廃棄される戦艦のうち2隻は、空母に改造してもよい。
- 補助艦艇の基準排水量は1万トン以下、最大主砲口径8インチとする。
- 基準排水量1万トン以下の艦艇は制限なし。
- 南洋諸島やフィリピンなどの要塞化を禁止。
艦艇建造への影響
- 八八艦隊が長門型戦艦2隻のみ、ダニエルズ・プランがコロラド級戦艦3隻のみで中断となった。
- 日米英のバランスを取るためネルソン級戦艦が出現した。
- 「未成艦を含めた戦艦・巡洋戦艦の空母化改装」が認められたため、天城型巡洋戦艦の天城・赤城、レキシントン級2隻の計4隻が空母に改造された。(天城については関東大震災の影響により廃艦処分、代替として同じく条約締結により解体待ちだった加賀型戦艦の加賀が空母として就役した。)
- 日本においては数的不利な条約であったため、それを補うべく、条約の制限をすり抜ける形での艦艇の増備を決行した。「基準排水量1万トン以下の艦艇は保有制限なし」という項目を逆手に取り、1万トン未満の船体をもとに、武装をマシマシに強化した条約型巡洋艦や、数を揃えて集中運用することで多数の航空機を投入できるようにすることを想定した軽空母(龍驤)を建造するというもので、これを見た条約批准国が追従したため、新たな形の海軍拡張競争が始まった。
- 条約以前、特に第一次世界大戦以前では「水雷艇駆逐艦」「護衛駆逐艦」として細々とした雑務が主であった駆逐艦も、条約型巡洋艦同様に吹雪型を初めとする「より大型で、より高性能な航洋能力を持たせた条約型駆逐艦」への発展も推進された。これらは次のロンドン海軍軍縮条約で制限されることになる。
- 戦艦の新規建造が凍結されたため、既存戦艦の近代化改装が盛んに行われた。改装にも制限があり、改装による排水量の増加は3000トン以内に収めることや舷側装甲や主砲の換装などが禁止されていた。
- イギリスが条約締結時に保有していたフッドは、条約が規定する最大基準排水量3.5万トンを超えていたが、特例として保有が許された。
陸奥問題
特急工事による滑り込みで竣工した(ことにした)戦艦陸奥が現有艦かどうかは会議で問題となった。結局半ば特例として認められたものの、戦力均衡のため、アメリカは廃棄予定だったコロラド級2隻の復活、イギリスはネルソン級2隻の新規建造が認められたため、日本にとってむしろ不利になったのではという見方もある。日本側としては同一艦二隻で戦隊を組みシステマティックに運用するのが基本的な考え方であり、長門一隻だけ有っても使いにくい、などと言う思惑があったとの説も。
この結果、世界の16インチ主砲戦艦は7隻となった。これを「ビッグ7」という。
条約の影響
軍拡競争に歯止めをかけ経済破綻を回避したことは当初の目論み通りであり、日本にとっても祝うべきであった(当時の日本の歳出が15億円だったのに対して、八八艦隊が計画通り完成した際の維持費は推定8億円)のだが、「世界の一等国」という軍国主義的な大国意識が膨張しつつあった日本では米英にしてやられたという被害者意識を抱く者も少なくなかった。
また、海軍内部でも条約に不満を抱く将校がおり、彼らは続くロンドン海軍軍縮条約で日露戦争の英雄東郷平八郎元帥を担いで条約交渉に横やりを入れ、条約肯定派(条約派)と否定派(艦隊派)の間で内輪もめが起こるようになる。
条約の終焉
1934年、日本が脱退したことで、ワシントン条約は1936年に無効となり、第二次世界大戦に至る制限なき軍拡競争が始まった。