海軍内に設置された、陸戦や上陸作戦などを主たる任務とする部隊のこと。
単に陸戦隊とも呼ばれる。
この項目では特に大日本帝国海軍のものに関して説明を行う。
大日本帝国海軍
概要
大日本帝国海軍陸戦隊は、大日本帝国海軍内に設置された陸戦を主たる任務とする部隊である。
原則として、陸軍と同様の装備品を用いるが、独自に改良を加えたり日本で製造されていない物品は海外から購入したり、或いは必要に応じて開発を行うことがあった。
車両などには陸軍が用いた日章旗ではなく、軍艦旗の意匠を記入した。
1920年代末まではあくまでも臨時部隊であったが、1930年代には常設部隊が結成されるようになり、太平洋戦争末期には乗るべき艦艇を喪った多くの兵士が銃を取って「陸戦隊」となった。
黎明期
明治維新によって近代海軍として結成された大日本帝国海軍は、当初砲撃や衝角による攻撃以外にも、敵艦に乗り移って敵兵士および要員の殺害や艦船の破壊、拿捕を目的とした海兵隊を保有していた。
しかしながら、軍艦の鋼鉄製船体化、本格的な蒸気機関の搭載、砲および魚雷等の改良によって交戦距離が大きく伸びたことにより「敵艦に移乗して戦闘を行う」行為は非現実的であると判断され、早くも明治9年には海兵隊は廃止された。
初期の陸戦隊
一方、艦船を港に係留させた際および陸上拠点の警備などに、歩兵を中心とした戦力は必要不可欠であり、艦船乗組員の水兵が陸戦武装の上で臨時に「陸戦隊」を結成し陸戦任務に当たった。
また、海兵団などの陸上勤務の水兵なども、特に必要とされた場合は陸戦装備の上で「特別陸戦隊」を結成することがあった。いずれの場合も、常設の部隊ではなくあくまでも臨時に結成された部隊であり、規模も余り大きいものでは無かったものの、西南戦争をはじめ、日露戦争、第一次世界大戦等で功績を上げた。
陸戦隊は規模こそ小さくとも、軍艦という「拠点」があり「強力な支援が受けられる移動手段を持つ軽歩兵」が「海岸のあらゆる場所に現れる」というものは、敵に与える心理的効果は大きく、実戦でも華々しい戦果を挙げることがあった。
上海特別陸戦隊
租界があった上海には居留民等の権益保護のため軍隊が派遣されており、1927年にはそれらの部隊の陸戦部隊が臨時の上海陸戦隊として設置されるようになり、1932年の第一次上海事変( 排日運動をもとに、上海共同租界周辺で発生した国民革命軍との軍事衝突 )の終結後、それまで臨時部隊であった上海特別陸戦隊が組織され、治安の維持及びその後発生した第二次上海事変などで活躍した。
上海特別陸戦隊は、これまでの日本軍の陸戦部隊と打って変わって、市街地での戦闘の特性が良く考慮された、軽装かつ短い交戦距離も意識されたものであり、ベルグマンMP18短機関銃や、クロスレイ装甲車に代表される装甲車両など他の部隊に見られない特別な装備を有していた。
クロスレイ装甲車
短機関銃で武装した兵
太平洋戦争期
太平洋戦争においては、戦線が大幅に拡大し、外地や前線における海軍の重要拠点が大きく増えることとなった。
そのため、戦略上の理由から陸軍と協議の上で重要拠点の防衛に当たることとなり、「陸戦隊」「特別陸戦隊」の他に「守備隊」「警備隊」などが新設され防衛任務に当たることとなった。しかしながら、急激な陸戦要員の増員により小火器の深刻な不足が問題となった。甚だしい例では、小火器の調達ができずに丸腰で任地に赴いた海軍兵が現地の陸軍部隊から小銃を融通してもらうという事態も発生した。
そこで、陸軍において実用不適とされたイ式小銃( イタリア製。Wikipedia参照)を譲り受けたり、耐用年数を超過している三十五年式海軍銃( 三十年式歩兵銃の改良型。Wikipedia参照)を九九式小銃と共用の7.7mm口径に改造して使ったりと、現場の状況は決して恵まれているとは言えなかった様子である。
しかしながら、上海事変の戦訓から装甲戦闘車や火砲の開発と導入はかなり熱心であったという記録も残っている。
一例では、特二式内火艇などの上陸作戦の為の歩兵支援車輌を独自に開発したり、艦艇に搭載されている対空機関砲を陸上で防空任務に当たる部隊に融通したりと、小火器には恵まれなかったが決して軽んじられていた存在では無かったとも言える。
海軍陸戦隊は拠点の防衛が主任務ではあったものの、海軍の拠点の多くは太平洋に点在する島嶼部であり、アメリカ軍の大規模な反攻作戦が始まると、多くの部隊が悲劇的な運命を辿ることとなった。
太平洋戦争期の陸戦装備
海軍空挺部隊
大日本帝国海軍は空挺部隊を保有していた。
陸軍の空挺部隊と比較すると規模は小さかったものの、研究開始から実戦部隊編成までは極めて速やかに行われ、太平洋戦争緒戦で活躍した。特に欄印作戦ではオランダ領セベレス島メナドへ先陣を切って降下し、日本軍として初めての空挺降下作戦を成功させた。これは、陸軍挺身団のパレンバン空挺作戦に先駆けて実施されたものであったが、パレンバン空挺作戦に比べて小規模であった事と陸軍との軋轢を避ける為に発表が遅れられた。
しかしながら、全体的には華々しい戦果を挙げた陸軍挺身連隊と比較すると戦果は地味であった。(尤も陸軍挺身連隊とは規模が違う為、単純な戦果の比較のみで判断することは不適切である)
海軍における陸戦訓練
そもそも「海軍軍人は艦艇や航空機で戦うことが主たる任務であるが、陸戦の訓練を受けていたのか?」という疑問が出るが、回答としては肯定である。
軍人として生活する上で欠かせない動作である敬礼などの基本動作や集団行動、体力錬成はもちろんのこと、基礎的訓練である執銃( 銃の扱い方 )から始まり、兵卒たる海兵団所属の兵や飛行予科練習生等も例外なくある程度の陸戦に関する知識を叩き込まれた。
また、横須賀海兵団などの関東の教育部隊においてはかつて藤沢市にあった海軍砲術学校辻堂演習場(戦後は在日米海軍辻堂演習場に。後に返還)で3日間に渡って行われた「辻堂演習」が著名なものである。
これは斥候に始まり、攻撃部隊の攻勢や防御部隊の応戦、やがて交戦距離が縮まり、最終的には銃剣突撃で刃を交えて、鎌倉から横須賀まで駆け抜けるという軍歴が浅いものに対しては過酷なものであったとされる。同様の演習が、全国各地の海軍兵の教育カリキュラムの中に組み込まれていた。しかしながら、この訓練は陸戦の教育ではなく軍人としての精神素養の面が大きかったと思われる。
陸戦部隊の指揮にあたる士官の育成は、海軍砲術学校で行われた。
中華民国海軍陸戦隊
中華民国海軍内に設置された陸戦部隊である。
台湾本土や島嶼部の防衛や奪還、軍事基地の警備などを担当し、アメリカ軍の支援を受けて結成された経歴を持つことからアメリカ海兵隊に近い運用要領であると思われる。台湾海兵隊と称される場合もある。詳細はWikipediaにて
別名・表記ゆれ
関連タグ
対義語?
陸軍特殊船とは大日本帝国陸軍の陸軍船舶兵によって運営されていた艦船である。