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ミッドウェー海戦

みっどうぇーかいせん

太平洋戦争のターニングポイントの一つとなった戦闘。
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ミッドウェー海戦とは、昭和17年6月5日アメリカ合衆国標準時では西暦1942年6月4日)から同月7日まで北太平洋のミッドウェー島沖において大日本帝国海軍アメリカ海軍が交戦した海戦である。ミッドウェー島占領とそれに伴う敵空母撃滅作戦(MI作戦)の前哨戦と位置づけられていた。

海戦までの経緯

昭和16年12月8日ハワイ真珠湾のアメリカ海軍基地および艦隊へ大打撃を与えたハワイ海戦、その2日後の10日のマレー沖海戦(「ハワイ・マレー沖海戦」と総称される場合もある)でイギリス海軍の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ」、「レパルス」を航空機だけで撃沈、翌17年2月のスラバヤ沖海戦で勝利し、4月のセイロン沖海戦ではイギリスの空母「ハーミーズ」を沈没させるなど、制空権・制海権を握り快進撃を続けていた日本海軍だったが、この間肝心のアメリカ海軍の主力空母を撃沈できなかったことが後々問題となる。

4月18日に航空母艦「ホーネット」に搭載された「B-25」16機が日本の主要都市を空爆(ドゥーリットル空襲)。この一件により連合艦隊司令部は、かねてより進めていた米機動部隊撃滅の計画(MI作戦)を推し進めることとなる。作戦を要約すると「始めに米軍拠点のミッドウェー島を攻撃し、それを迎撃しに出えてくる米艦隊に決戦を挑む」というものである。だが、事前の研究では、作戦目的である敵空母の捕捉撃滅が難しい、作戦のリスクが高い、など、多くの問題点も指摘されていた。

軍令部は当初、この作戦に否定的であった。軍令部では、アメリカとの戦いが長期戦になると見ており、その対策としてアメリカとオーストラリアのシーレーンを遮断する作戦(FS作戦)を優先すべき、という意見が強かった。一方、山本五十六をはじめとする連合艦隊司令部は、圧倒的な国力を持つアメリカを相手に長期戦を戦うのは不可能と考えており、短期決戦による戦争の早期終結を意図していたため、作戦の実施を強く主張した。結局、軍令部との意見対立や、上記の問題点を残したまま、山本長官は作戦を推し進めた。

作戦実施が近づくにつれ、新たな問題と不安要素も現れてきた。5月の珊瑚海海戦で日米機動部隊が初めて衝突し、日本軍は米空母「レキシントン」を沈め、「ヨークタウン」を中破させたが、日本側も空母「祥鳳」が沈没、「翔鶴」が中破、「瑞鶴」は被害が無かったが航空機パイロットの補充が必要となるなど、少なからぬ損害を受けた。このため、ミッドウェー作戦に参加できる日本海軍機動部隊の正規空母は6隻から4隻に減少してしまった。

これに加えて、開戦当初から連戦続きであった機動部隊には疲労が蓄積していたこともあり、司令長官の南雲忠一中将、二航戦司令官の山口多聞少将、そして大本営(軍令部)は作戦内容の危険性や艦隊の状況から作戦の中止ないし延期を求めていた。しかし、山本長官はじめ連合艦隊司令部は、戦争を短期決戦に持ち込むためには積極攻勢を続けることが必要と考えており、永野修身軍令部総長に直接働きかけ半ば強引に作戦の許可を得たのだった。
かくして太平洋戦線を大きく左右する歴史的海戦が始まろうとしていた。

海戦

ミッドウェー海戦の前に日本海軍は陽動作戦を発動し、空母「龍驤」と「隼鷹」を基幹とする第二機動部隊をアリューシャン列島のアッツ・キスカ両島の占領向かわせる。作戦は完了し無事に両島を占領したが、米軍は暗号解読によって日本軍の主目標がミッドウェーであることを突き止めていたため、陽動は無意味に終わる。(ニミッツ司令は万一に備えシオボルド少将が指揮する巡洋艦を主力とする水上部隊をアリューシャン方面で警戒に当たらせていた。)
米軍は珊瑚海海戦で中破した「ヨークタウン」を3日間の突貫作業で修理し、米本土へ修理のため帰る「サラトガ」の航空隊を搭載して第17任務部隊を再編成。珊瑚海海戦で指揮を執ったフランク・J・フレッチャー提督が、引き続き総指揮官として座乗し、レイモンド・スプルーアンス提督が指揮する「エンタープライズ」・「ホーネット」基幹の第16任務部隊と共にミッドウェーに向け出撃した。潜水艦部隊も投入され、ミッドウェー方面やアリューシャン方面などに合計25隻が展開した。
他にもパイ中将が指揮する戦艦7隻を中心とする水上部隊の投入が検討されたが、これを援護する戦力が無いため投入は見送られた。

対する日本軍は南雲忠一中将が指揮する第一航空艦隊(空母「赤城」・「加賀」・「蒼龍」・「飛龍」基幹)を中心とした第一機動部隊(南雲機動部隊)がミッドウェー島を攻撃。その後やってくるであろう米機動部隊を迎え撃つべく、戦艦「大和」を中心とした山本長官率いる主力部隊が後で合流する運びとなった。

経過

(以下の時間表記は、みなミッドウェー島の現地時間によるものである)

6月4日

3時00分 
南雲中将はそれまでの情報から
・敵艦隊はミッドウェー攻略後に出撃してくる可能性が高い。
・敵の哨戒圏は約500海里と推定。
・現時点ではまだ敵に発見されていない。
・敵機動部隊が付近で行動中と推定する資料はない。
・ミッドウェーを空襲、基地航空隊を無力化し上陸作戦を成功させた後に、敵機動部隊に対処し撃滅することが可能。
などの情勢判断を行う。

4時00分
PBY」11機が索敵のために発進。
「B-17」16機(15機とも)が輸送船団攻撃のためにミッドウェー基地を発進。
「B-17」はミッドウェー航空指揮官のラムゼイ中佐からは日本の空母を発見した場合は攻撃目標を変更する場合があると連絡を受けていた。
6時頃に「B-17」に発見した空母への攻撃命令があり目標に向かう。

4時30分 
南雲機動部隊より7機の偵察機と、友永丈市大尉が指揮する第1次攻撃隊108機が発艦。攻撃隊は6時30分にミッドウェーを空襲するが決定的な打撃は与えられず帰還。
また、カタパルトの不調により「利根」の偵察機が定刻より30分遅れで発艦する。

5時20分
南雲中将より各空母へ「本日敵機動部隊出撃の算なし」、「敵情に変化なければ第2次攻撃は第4編成(指揮官加賀飛行隊長)をもって本日実施予定」の予令が信号で送られる。
当時赤城艦橋にあった吉岡航空参謀によれば、「敵が出撃してこないと油断したなんてみっともないから」と言う理由で「本日敵機動部隊出撃の算なし」の箇所を戦闘詳報から削除したと1976年に証言したとも、それとは逆に「予令そのものを全然知らないし、源田実航空参謀も知らないだろう」と1980~1983年の間に証言したとも言われている。

5時30分
米偵察機が南雲機動部隊を発見、敵空母2隻及び戦艦群などの報告。6時頃にミッドウェー基地航空隊の攻撃隊が発進する。

5時55分
利根1号機から「敵編隊が艦隊へ向かった」との連絡を受ける。
南雲司令部では6時40分ごろに襲来すると予想、直掩機の増加を命じた。
直掩に第六航空隊の零戦の投入を検討したのはこの頃だといわれる。

6時07分
フレッチャー少将、スプルーアンス少将に対して南西に進み位置の明らかな敵空母を攻撃するように指示。
索敵の艦爆隊の収容と偵察機の報告からヨークタウンの攻撃隊は予備とした。事前情報では日本軍の空母は4~5隻と予測されていた。


7時00分
友永大尉が第2次攻撃の必要あり(カワ・カワ・カワ)と打電。
米機動部隊から「ホーネット」より59機、「エンタープライズ」より33機の攻撃隊が発艦開始。
スプルーアンス少将は当初の予定では報告された日本空母との距離が100海里以内になるまで接近するつもりだった。

7時10分
ミッドウェー基地航空隊の「TBF」雷撃機6機と「B-26」爆撃機4機が日本艦隊を攻撃。米軍は「TBF」を5機、「B-26」を4機喪失する。護衛機が随伴していないのはシマード司令官が、ニミッツ司令より防空は対空火器に任せ航空機はすべて日本空母に向かわせるように指示を受けていたが、ミッドウェー島の防空に全戦闘機を投入したためとする説がある。
日本側は「赤城」が機銃掃射を受けたのみ。飛龍戦闘詳報ではB-17を4機発見とあるが、他の資料ではB-17はこの攻撃隊に含まれていない。

7時15分
旗艦「赤城」に友永大尉から「ミッドウェー島への第2次攻撃要請(前述)」の無電が届く。
この報告と偵察機からの報告が無いことを踏まえて、南雲中将は「第二次攻撃隊本日実施 待機攻撃機爆装ニ換ヘ」と指示し、陸用爆弾への換装を命じた。

7時28分
定刻より遅れて発艦した「利根」の索敵4号機が「敵らしきもの10隻見ゆ。ミッドウェー方位10゜距離240浬(艦隊より200浬地点)」と発信。また「エンタープライズ」より第2波攻撃24機が発艦する。
同じ頃、日本偵察機を確認した米機動部隊は各航空隊に日本艦隊への攻撃を指示する。すなわち『戦爆雷撃機全機を空中集合させ、全航空兵力一体の協同攻撃を行う』という本来の戦略企図を破棄し、発艦済みの部隊から逐次攻撃に向かわせる方針転換を行ったのである。

7時32分
「B-17」が南雲機動部隊を発見するが、雲の影響で空母を見つけれなかったため付近の捜索を行う。

7時40分
司令部に上記の無電が届く。

7時45分
南雲中将は機動部隊に対し「敵艦隊攻撃準備、攻撃機雷装そのまま」と指示。
戦史叢書では「雷装其の儘」は雷装への復旧命令と解釈している。同書では、「其の儘」の文言を使用した理由として、7時15分から開始した兵装転換はあまり進んでおらず、殆どの機体が雷装のままであって簡単に雷装への復旧が可能と南雲長官が判断したためと捉えている。
この下令は発見した敵艦隊に空母が含まれるのか不明であるため兵装換装の一時中止だったとの解釈も存在する。
評論家の大塚好古は戦史叢書の解釈の通りだった場合(大塚はこの命令を一時中止だったと解釈している)、この時点で赤城では17機の艦攻の内9機が、同じく加賀は26機の内9機が爆走への転換が完了していたと推測している。一方で、整備兵たちの努力によって、南雲長官の予想に反して爆装への転換はかなり進んでいたと記した調査史料もある。
この時、赤城の格納庫内で待機していた第二次攻撃隊のパイロットの証言では、戦史叢書の解釈と異なり、この時間帯はまだ雷装への復旧作業は始まっていない(9時以降だったと回想している)。

7時47分
「利根」偵察機に対して47分に「艦種確め触接せよ」と返信。

7時53分
ミッドウェー基地航空隊の「SBD」16機が日本艦隊を攻撃し8機を喪失。日本側の被害は無し。

8時00分~
「利根」偵察機に「艦種知セ」と通信。
第1次攻撃隊が艦隊の上空へ帰還。空襲中のため上空待機となる。

8時09分
「利根」偵察機より「敵巡洋艦5、駆逐艦5見ゆ」と連絡が入る。

8時10分~
ミッドウェー基地航空隊の「B-17」爆撃機17機、「SB2U」爆撃機11機が日本艦隊を攻撃。この際、「B-17」が加賀を除く3空母を空撮する。日本側に損害無し。米側は「SB2U」を3機喪失。

8時20分
「利根」偵察機より「敵はその後方に空母らしきもの1隻伴う。ミッドウェー島より方位8度、250浬(約460km)」と続報が入る(母艦側の受信と暗号解読のため、南雲司令部がこの続報を認識したのは8時30分)。だがこれは間違いで、本当の座標は150海里(約280km)だった。

8時25分
潜水艦「ノーチラス」は南雲機動部隊の戦艦に対し魚雷を発射したが、命中はしなかった。

8時30分
南雲中将が二航戦に対して「艦爆隊、2次攻撃準備250kg爆弾揚弾(対艦船攻撃用の通常爆弾)」と指示。 また一航戦に雷装への転換を指示。この時、帰還してきた一航戦の艦爆隊への爆装準備と二航戦の艦攻隊への雷装を命じたとする説がある。
ほぼ同時刻、二航戦司令官の山口少将が「現装備のまま直ちに攻撃隊発進の要ありと認む」と具申するが、司令部はこれを却下する(却下した理由は後述)。
同時刻に二式艦偵が偵察のため発艦するが、防空戦闘の影響で発艦に遅れが生じていた。

8時37分
第1次攻撃隊の収容を開始。
同時刻、フレッチャー少将、発見している敵空母へのヨークタウンの攻撃隊を投入することを判断。
米機動部隊の「ヨークタウン」より第1波攻撃隊18機が発艦。9時05分には第2波攻撃隊19機が発艦する。
残る半数はまだ発見されていないと思われる日本空母に備え控えられた。

8時55分
「攻撃隊の収容後、北に変針し敵空母の捕捉撃滅を行う」との指示が出される。

9時15分
「ホーネット」艦爆隊21機が会敵を断念し帰還。

9時18分
第1次攻撃隊の収容が完了。空母によっては9時30分から9時50分頃まで収容に時間がかかったとある。
赤城艦内で待機していたパイロットによれば、陸上攻撃用に爆装された第二次攻撃隊の九十七艦攻の雷装への復旧作業は、第1次攻撃隊の収容が完了したこの時間帯からようやく始まったとある。

9時25分
「ホーネット」艦攻隊15機が日本艦隊を攻撃するが文字通り全滅する。日本側に損害無し。

9時37分
「利根」偵察機より帰還要請が届く。「我燃料不足接触を止め帰投す」

9時38分
防空戦闘の影響で準備が遅れていた筑摩5号機が触接交替のため発艦する。

9時40分
「エンタープライズ」艦攻隊14機が日本艦隊を攻撃。日本側に損害無し。米側は10機を喪失。
また空襲の激化により、直掩機への補給も並行して行われることとなる。

9時52分
「エンタープライズ」艦戦隊が日本艦隊を発見するも燃料不足により帰還する。

10時00分
蒼龍の二式艦偵が利根機が報告した地点に到着するが、利根機の報告位置が誤っていたため米艦隊を発見することはできなかった。

10時10分
「ヨークタウン」艦戦6機、艦攻12機が日本艦隊を攻撃。艦戦隊は新戦術「サッチウィーブ」で日本軍艦戦(零戦)5機を撃墜するが、艦攻の攻撃は失敗し11機を喪失する。

10時20分
南雲中将は機動部隊に対して「艦戦(直掩機)は準備でき次第発艦せよ」と指示。

10時22分~24分
「エンタープライズ」、「ヨークタウン」の艦爆50機が高空より日本艦隊を攻撃。直掩隊は10時10分に艦攻へ対処するため低空に下りており、阻止が間に合わず、「加賀」に爆弾4発、「蒼龍」に爆弾3発が命中する。

ミッドウェー1942
加賀



10時26分
「赤城」より艦戦1機が緊急発進。その直後に爆弾2発が命中する。赤城を攻撃した数機は当初は加賀を目標にしていたが、急遽目標変更をしていた。
米攻撃隊は直掩隊の追撃を受けて17機を喪失。

10時45分
南雲司令部が移乗を開始。
同時刻、「蒼龍」が総員退艦を発令。

10時46分
南雲長官が旗艦を「赤城」から「長良」に移す。

10時50分
山口少将が「我航空戦の指揮を執る」と機動部隊に通達。

10時55分
偵察機から敵艦隊がミッドウェー島より方位10、130海里の地点に存在し24ノットで航行中との報告を受ける。

11時00分
「飛龍」より第1次攻撃隊24機が発艦。

飛龍の反撃



11時30分
「飛龍」第1次攻撃隊が「ヨークタウン」を攻撃し爆弾3発を命中させる。攻撃隊は小林隊長機を含む12機を喪失。「ヨークタウン」は航行不能に陥ったが、応急修理により1時間後には20.5ノットで航行可能となる。

12時20分 
山本長官、北方の第二機動部隊に急ぎ第一機動部隊に合同するよう命じる。

13時30分
「飛龍」より第2次攻撃隊16機が発艦。

13時40分
「飛龍」第1次攻撃隊が帰還。

13時45分
偵察機の報告により、米空母が3隻存在することを確認する。

13時59分
「ノーチラス」は加賀に向け、魚雷を4本発射。1本が命中したが、不発だった。

14時30分
「飛龍」第2次攻撃隊が修理を終えた「ヨークタウン」を攻撃。魚雷2本が命中し、「ヨークタウン」には総員退艦が発令されたが、応急修理により6月7日には自力航行可能となる寸前まで回復した。攻撃隊は友永隊長機を含む8機を喪失。

14時45分。
米偵察機が「飛龍」を発見する。「エンタープライズ」より21機が発艦。

15時20分
山口少将、攻撃隊から報告を受け被害の大きさと残存機数から昼間攻撃の成功率は低いと判断、第三次攻撃を薄暮に延期する。
飛龍には他空母の直掩機を収容しており、艦戦は残存攻撃機や爆撃機と比較すれば数があり敵空母機の来襲があっても防げると判断した。

15時40分
「飛龍」第2次攻撃隊が帰還。この時点での残存戦力は艦戦10、艦爆5、艦攻4の計19機のみ。

16時23分
「加賀」が総員退艦を発令。

16時30分
山口少将、第三次攻撃は18時発進予定と報告。

17時05分
「エンタープライズ」攻撃隊が「飛龍」を攻撃。「飛龍」は爆弾4発を受け大破炎上。米攻撃隊は3機を喪失。

19時15分
「蒼龍」沈没。艦長以下718名が戦死。

19時25分
「加賀」沈没。艦長以下800名が戦死。「赤城」が総員退艦を発令する。

トラウマ



00時15分
連合艦隊司令部は「MI作戦」の中止を決定。

6月5日

2時30分
「飛龍」が総員退艦を発令。駆逐艦「巻雲」により雷撃処分される。艦長、山口少将含む417名が戦死。

5時00分
「赤城」が駆逐艦「嵐」「萩風」「野分」「舞風」により雷撃処分される。221名が戦死。

6月6日

13時00分
潜水艦「伊168」が「ヨークタウン」と、駆逐艦「ハンマン」を雷撃。「ハンマン」は轟沈。「ヨークタウン」は横付けしていた「ハンマン」の爆雷誘爆で激しく損傷し、総員退艦。

6月7日

5時00分
「ヨークタウン」が沈没。

三隈沈没

この一連の海戦の裏で、第七戦隊である重巡「最上」、「三隈」、「鈴谷」、「熊野」はミッドウェー島を砲撃すべく別働部隊にて出陣したが、南雲機動部隊の全滅と同時に作戦の中止を決定、別働部隊の撤収を命じる。
しかしそこに米潜水艦「タンバー」が現れる。
旗艦「熊野」は一斉回頭を命じるが、現場部隊の伝令の混乱もあり、「最上」と「三隈」が衝突。
「鈴谷」と「熊野」は海域を離れ、「最上」と「三隈」は退避をするも、「タンバー」からの伝令を受けた米軍機が襲来し「最上」と「三隈」に対し攻撃を開始。5日のミッドウェー基地から飛来した「SBD」や「B-17」などの攻撃では被害は軽微であったが、6日の米機動部隊の攻撃は「三隈」に集中し、塔載していた酸素魚雷が誘爆。致命傷を負った「三隈」は単艦で海域を離脱、沈没した。「三隈」の生存者を救出し、「最上」の離脱を護衛した駆逐艦朝潮荒潮にも死傷者が出ている。

結果

本海戦はこれまで防戦一方であった米海軍が日本海軍に初勝利した戦いである。
とはいえ、米海軍の艦載機搭乗員の戦死数は128名(陸上基地航空隊も合わせると172名)で、日本軍より多かった。
収容空母を失ったことにより多数の航空機を喪失した日本海軍であるが、海戦全体での艦載機搭乗員の戦死者数は110名に留まり、戦死者の殆どは飛龍の搭乗員で他3空母の戦死者は合計50名以下である。このため「『日本海軍はこの海戦で多くの熟練搭乗員を失った』という説は誤りである」という主張もある。ただし、それまでのどの海戦より艦載機搭乗員の戦死者が多い戦闘だったのも事実で、決して『軽い損害』ではない。
ミッドウェー海戦が太平洋戦争における海戦のターニングポイントと呼ばれるのは『一時的とはいえ、日本の機動部隊が壊滅したことにより、日本側の一方的な戦いが終了したこと』とである。
特に、日本海軍が保有していた主力空母6隻のうち4隻を一挙に喪失した影響は大きかった。翔鶴型の2隻(「翔鶴」は修理中)を除けば、小型の旧式空母や速力が十分とは言い難い改造空母ばかりで、新造するにも長い時間が必要(当時の日本の工業力で約3年)だった。空母の数が限られる中、日本海軍はそれまでのように積極的な攻勢に出ることが難しくなった。

米軍の勝因は複雑であるが、端的に言えば情報戦の勝利である。ミッドウェー島攻略作戦の事前察知や連合艦隊の位置特定の速さがカギとなった。また、通常なら「愚策」とされる攻撃隊の逐次投入が結果として功を奏した。

ミッドウェー海戦後のアメリカ海軍では、止むを得ず単鑑による作戦行動が多かった航空母艦の今までの使用法が、本海戦での「飛龍」隊の「ヨークタウン」攻撃に見られるようにリスク分散として評価されたのか、ガダルカナルの戦いでも空母を単艦に分散する方法を継続し、日本機動部隊に苦戦を強いられている。
しかし、戦前から建造を進めていたエセックス級空母の数が揃うと、空母機動部隊として集中運用するようになった。大戦後期のマリアナ沖海戦レイテ沖海戦では、20隻もの空母を含む大艦隊を運用するようになる。

一方の日本軍によせられる批判は、主にミッドウェー海戦以前のセイロン沖海戦珊瑚海海戦で起きた、索敵不足や誤認、艦載機の兵器換装中での敵機襲来などの経験を生かさず、この海戦においても同じ失敗を繰り返したというものである。
しかし、インド洋作戦からの帰還より1ヶ月ほどしか経過しておらず、十分な対策を施すには時間的な猶予が無かったという面もある。
また、直前に生起した珊瑚海海戦では敵艦の艦種確認を怠った結果、タンカーを空母と誤認したまま攻撃隊を発艦させてしまい、先制攻撃による勝利の可能性を逃しただけでなく、攻撃隊をすり減らしたことで「ヨークタウン」を討ち漏らす遠因を作った。南雲中将による艦種報告の徹底は、この時の戦訓である。
一方、戦訓を分析・共有する努力が十分でなかったのも事実である。珊瑚海海戦における「翔鶴」の被弾とダメージコントロールに関する戦訓についての「翔鶴」の福地運用長による講話が、ミッドウェーへの出撃直前に実施されたが、一航戦の幹部たちは図上演習などで多忙だったこともあり、その内容を重視していなかった。

ミッドウェー海戦での戦訓は、偵察の多段化や防火設備の充実などに生かされるが、その後は局地戦(第一次ソロモン海戦南太平洋海戦等)での勝利を除き退勢に陥ることとなる。
また、本海戦を生き延びた搭乗員は機動部隊の再編により「翔鶴」や「瑞鶴」、その他の空母や基地航空隊に異動したものの、南太平洋海戦やそれ以降の攻防戦で多くが戦死し、特にマリアナ沖海戦後の44年後半からは急速に質の低下が進んでいく。

兵装転換と山口少将の意見具申

「南雲司令部の二転三転した兵装転換命令が発艦準備の致命的な遅れを招いた。転換命令を出さなければ第二次攻撃隊は発艦が間に合っていたかもしれない」
「兵装転換などせず、山口少将の進言通り第二次攻撃隊の発艦を優先させるべきだった」

日本軍の敗因についてよく言われているのがこの2度目の兵装転換である。歴史にIFは無く、艦爆隊だけで先手を打っていた場合、第2次攻撃隊の発艦を優先した場合などにどうなっていたかは可能性・推論の域を出ない。
山口少将の意見具申について評論家の大塚好古が以下の反論を行った。但し大塚の反論は根拠が明確でない部分も含まれており、その疑問点についても記す。

1.大塚の反論

大塚好古が学習研究社の「歴史群像 太平洋戦史シリーズVol.55 日米空母決戦ミッドウェー」で主張した「通説に対する反論」は概ね以下に要約される。

反論① 通説では山口少将から進言があった時、二航戦の空母2隻(飛龍、蒼龍)の飛行甲板には艦爆隊が出撃できる状態で並んでいたとされる。しかし米軍機から撮影された飛龍、蒼龍の飛行甲板に艦爆隊は並んでいなかった事が判明した。

反論② 通説では7時15分に出された最初の転換命令で二航戦の空母の艦爆隊は通常爆弾から陸用爆弾へ兵装転換したとされる。しかし南雲中将は7時15分の転換命令は一航戦の空母にしか出しておらず、セイロン沖海戦の教訓から二航戦の空母2隻の艦爆隊は状況の変化に対応できるように未武装の状態で待機させていた。二航戦に対しては8時30分に対艦攻撃のための爆装命令が出された。

反論①より、大塚は山口少将の進言は実行不可能だったと主張している。また反論②より、山口少将の進言を聞き入れたとしても、二航戦の空母の艦爆隊が兵装を開始したのは二度目の兵装転換の決定と同じ時刻であったため、結果は同じであったと主張している。

2.大塚説の信憑性

しかしこの大塚説は以下の理由から信憑性には疑問がある。

大塚説の疑問① 反論①の「山口少将の進言時、二航戦の空母2隻の飛行甲板では艦爆隊が出撃できる状態で並んでいた」と言うのは映画などのフィクションで見られる演出であり、軍事・歴史研究的には通説ではない。戦闘詳報や戦史叢書、多くの戦史研究家の著書において、この時間帯、空母を護衛する直奄戦闘機が随時発着艦を繰り返していたので飛行甲板は空けてあり、艦爆隊や艦攻隊の整備は格納庫で行っていた事は普通に書かれている事で、戦史研究分野においては寧ろ飛行甲板は開けておいたとする認識の方が一般的である。

大塚説の疑問② 反論①について、戦史や研究家の著書の多くは山口少将の進言を「2度目の兵装転換が完了するまで出撃を遅らせるな」の意味で捉えており、戦闘詳報や戦史叢書の通り進言時に空母の飛行甲板が空けてあったとしても何ら矛盾はない。大塚が山口少将の進言を不可能と主張するのは、進言の意味を「今出撃できる艦爆隊があるのだから今すぐ発艦させろ」と認識している事による。
尚、山口少将の進言の文面は、著書や作品によってかなり違いがあるので(「現装備のまま」が省略されているのが多い)、前後の場面の流れから進言の意味を読み取る必要がある。

大塚説の疑問③ 反論②の「南雲中将は二航戦の艦爆隊は状況の変化に対応できるように未武装の状態で待機させていた」と言う主張は、ミッドウェー海戦に参加した将兵の証言や、戦史叢書などの調査結果と異なっているが、大塚はこの通説と異なる主張の根拠を「アメリカの調査結果によってわかった」と述べるのみで、信頼性のおける根拠(研究者名、調査資料名)を記していない。

大塚説の疑問④ 同じく反論②について、当時の日本海軍の艦爆隊用の250㎏の爆弾には、艦船攻撃用の通常爆弾と陸用爆弾の2種類がある。8時30分の「艦爆隊、2次攻撃準備250kg爆弾揚弾」の命令は敵空母攻撃の装備への転換を命じたもので、ここにある爆弾とは艦船攻撃用の通常爆弾の事を指すが(戦史叢書や多くの戦史著書では普通にそう記されている)、大塚はこれも最近のアメリカの調査結果に「8時37分のミッドウェー第一攻撃隊収容の時点で陸用爆弾の揚弾を開始した」とあったとして、「二航戦の艦爆隊はそれまで未実装だった可能性が高い」と反論を行っている。大塚、及びアメリカの調査結果が揃って2種類の爆弾を誤認した可能性はあるが、少なくとも大塚は艦船攻撃用への兵装転換命令が出されたのに、陸用爆弾の揚弾を開始したと言うアメリカの調査結果を疑っていない。

上記の通り、大塚は海戦当時の状況や、戦後の研究資料に関する知識、批判の対象とした通説についての認識において、深刻な誤りや欠損を含んでいる。

山口少将の評価

「ミッドウェー海戦は山口少将に指揮を取らせるべきであった」と言う意見があるが、その理由として上述の兵装転換に対する山口少将の進言があったからと言うのは誤解がある。
この進言の時点で、米空母から攻撃隊の出撃がほぼ完了しており、例え山口少将の進言が聞き入れられたとしても飛龍以外の三空母の損失は避けられず、良くて相討ちではないかと言う推測もある。
山口少将の評価を高めたのは以下の理由による。

評価① セイロン沖海戦における兵装転換の失敗を教訓としていた。
セイロン沖海戦後に飛龍艦内で兵装転換にかかる作業時間を調査し、戦闘中の兵装転換は多大な時間がかかると山口少将や飛龍の艦長から南雲司令部に対して報告が出されていた。この報告では魚雷から爆弾への換装は1時間半から2時間半かかるとされた。
司令部への報告と並行して二航戦では兵装転換の訓練も行ったが、ミッドウェー海戦の1ヶ月前に海軍で大幅な人事異動があったため、整備兵が入れ替わってしまい、訓練は振り出しに戻ってしまった。

評価② 索敵の改善を訴えていた。
ミッドウェー海戦に出撃する前日(5月26日)、赤城艦橋で作戦計画の打ち合わせが行われた際、水上偵察機中心(機数の内訳は水偵5機、艦攻2機。)の一段索敵計画では不十分であると主張していた。具体的な内容は不明であるが、索敵機数の増加を進言したとされる。
セイロン沖海戦の索敵不備を反省したと思われるが、セイロン沖海戦の最中から「索敵機が足りない」と進言していたとの証言もある。
索敵機を増やすべきとの意見は山口以外の将官からも度々上がっていたらしい。しかしミッドウェー海戦で採用された索敵計画は当時の日本海軍における攻撃重視の用兵理論に則したもので、索敵機を増やすため戦闘用の機体を割かねばならなくなるとの反対意見により却下された。
従来のままでも敵空母からの攻撃を受ける可能性の海域をほぼカバーできる計画であったとの意見もあるが、南雲機動部隊司令部はミッドウェー島攻略中に敵艦隊が出現するとほとんど考えていなかった事も索敵の改善案を却下した理由であったと索敵計画を担当した参謀長が証言しており、そのため「いない事を確認しておこう」と言った程度の消極的な索敵だったとされる。結局ミッドウェー海戦では索敵が不十分だったという結果になり、戦訓として多段索敵の導入につながった。

評価③ ミッドウェー攻略作戦に反対していた。
山口少将は上述の訓練不足などを理由に時期尚早と判断していた。

評価④ ミッドウェー海戦当日「敵空母出現の確率が高い」と南雲中将に進言していた。
7時15分、友永隊からの第2次攻撃要請の無電を受け、南雲中将は第二次攻撃隊の地上攻撃用装備への転換を命じた。この攻撃隊は連合艦隊司令部との戦闘前の申し合わせにより敵機動部隊出現に備えて対艦用装備のまま待機させていた部隊で、南雲中将の兵装転換命令はこの申し合わせを破る指示であったが、これを聞いた山口少将は「本朝来種々の敵機来襲に鑑み敵機動部隊出撃の算あり。考慮せられたし」と兵装転換を留まるよう進言していた。生出寿の記述によると、山口少将がそう判断した理由として、敵編隊の中の新型艦載雷撃機(TBF)の存在によるものとされる。
山口少将の進言があったのは南雲中将の最初の兵装転換命令(7時15分)が出されてから利根4号機からの第一報(午前7時40分頃受信)があるまでの間と、利根4号機からの第一報受信の直後との2つの説があるが、いずれにせよ南雲中将が敵空母発見の報告を受けて敵空母の撃沈を優先しようと決断した(8時30分。この直後、山口少将から「現装備のまま攻撃隊発信の要あり」の有名な進言があった)より1時間も前の事であり、このタイミングで敵空母撃滅に目標を絞っていれば日本軍逆転の可能性はまだ高かった。
この日の朝の南雲中将の「本日敵機動部隊出撃の算なし」の信号(5時20分発令)をなぞった様な山口少将のこの進言は、戦後の研究家より「上官の油断に対するあてつけ」と指摘される事もあるが、この海戦の後、敵空母は出撃して来ないと油断した事について海軍上層部で責任の擦り合いとなったのに対し、山口少将にその油断は無かった。
2度目の兵装転換後の進言が有名なためこの進言は隠れがちだが、この進言の方が山口少将の優秀さを表していると評価する意見もある。

日米の評論家から「生死がかかった戦場では時として独断専行が許される事もあるのだから、山口は指揮下の二航戦だけでも切り離して好きに動かすべきだった」とする批判があるのは、山口少将の指揮の正当性を支持したものであるものの、皮肉である。
尚、三空母が被弾した後、山口少将が飛龍一隻で反撃した事について、山口少将の独断専行であり余計な被害を増やしたと批判する意見があるが、これは山口少将が次席指揮官阿部司令より先んじて最も早く反撃に動いた話であり、上官の指揮に背いて飛龍による反撃を専行したわけではない。
山口少将より遅れはしたが阿部司令官も飛龍による反撃を支援し、軽巡長良に移った南雲中将も飛龍の攻撃に策応して夜戦を決行する準備を進め、草鹿参謀長も「飛龍一隻だけで攻撃を意気込み、その自信があった」と回想しており(3者の行動は全て戦史叢書に記述がある)、飛龍一隻で反撃に出るとしたのは、南雲機動部隊司令部の総意である。

南雲司令部の判断

ミッドウェー海戦の敗因に挙げられる兵装転換を南雲司令部が実行した事や、山口少将の進言を却下し艦爆隊を先行させなかった理由として次のものがあるとされる。

兵装転換を実行した理由

①偵察機が索敵線の先端に到達する時刻になっても敵艦隊に関する報告はなかった事から、南雲司令は予想していた通り付近に敵艦隊は存在しないと判断した(戦史叢書の記述のまま)。詳しくは後述。

②友永隊から第二次攻撃の要ありとの報告から基地機能はまだ健在であることや攻略部隊に被害も出ており、ミッドウェー作戦の目的の一つであるミッドウェー島攻略に重大な支障をきたす恐れがあり、基地制圧を急ぐ必要があった。
尚、当初の予定では輸送船団が敵哨戒圏に入る前に空襲を行うことになっていたが、準備の遅れから空襲が1日遅れることになり、一方でミッドウェー島上陸予定日は変更されなかったため、ミッドウェー島の防備を破壊する時間的余裕は少なくなっていた。

③この日の通信記録によれば、南雲司令部は5時20分に「本日敵機動部隊出撃の算なし。敵情に変化なければ第2次攻撃は第四編制(対艦装備で待機していた攻撃隊を全てミッドウェー島攻撃に向ける事)をもって本日実施予定」と命令したが、これは米空母が出現する可能性は低く、それを確認できた時点で兵装を対地用に変更してミッドウェー島への第2次攻撃を行うと予令したものである。ミッドウェー島第1次攻撃隊の出撃が完了(発進は4時30分開始)して間もない時点で旗下に通達した所からも、友永隊の戦果に関わらず兵装転換を行う事は南雲司令部にとってある程度既定路線だった事が戦闘詳報の記録から明らかとなっている。

④米軍空母が出現しないと思い込んでいた。南雲司令部の航空参謀だった吉岡少佐はこれが一番の理由だったと述べている。吉岡少佐は、油断は連合艦隊司令部も同罪だとした上で、「我々は本当にアメリカ軍空母が出てくると思ってなかった」と証言した。日本軍では5月15日にマーシャル諸島南方を西進する米軍機動部隊を発見していたので、米空母は南太平洋方面で活動中と判断しており、ミッドウェー島の攻略後に進出してくると判断していた。
上述の判断理由にある「偵察機の報告が無い事」も、別に敵がいない根拠にならないのだが(当たり前だが、偵察機が敵機に遭遇して撃墜されていたらやはり報告はない。しかし、機動部隊発見の報告が無いことを判断理由の一つとする事は第二次ソロモン海戦直前でのフレッチャー少将の判断など他の海戦でも見られる。)、それにも関わらず米軍機動部隊不在と早合点したのは、5時20分の信号の時点で敵空母の存在を示す情報は無く、南雲司令は敵空母が付近に待ち受けているとは全く考えていなかったからである。

連合艦隊の黒島主席参謀や佐々木航空参謀らによれば、6月3日の午後、連合艦隊旗艦の大和の敵信班がミッドウェー島付近で敵空母らしい呼び出し符号を傍受していた(この傍受内容は正しかった)が、ミッドウェー基地により近い南雲機動部隊でも同じ通信を傍受しているだろうと考え、南雲司令部に連絡しなかったとある(黒島参謀は回想によって情報を入手した経緯が異なる)。
この時、無線封鎖を破ってでも傍受した通信内容を報せておけば、敵艦隊が出現しないと言う考えを南雲司令部は払拭できたかもしれない。重要な作戦転換の情報などがあった時は連合艦隊から知らせるよう事前に話がついていた事もあって、南雲司令部では敵情に変化が無いものと判断していた。南雲司令部の吉岡参謀は「油断は連合艦隊司令部も同罪だ」と抗議している。宇垣連合艦隊参謀長は出撃前に「各部隊は必要な場合は躊躇することなく電報を打ち、協調を保つことが肝要である」と発言していたのもあったためか、「当司令部としても至らぬところがあり、すまないと思う」と記述した。

南雲機動部隊で米機動部隊についての情報が得られた可能性も存在する。
(日本時間)6月4日の夕方以降に飛龍通信室で5、6秒ほどという短い時間であるが強感度の電波を傍受、暗号室に報告したところ敵空母の符号と判断されたと白木二等兵曹の証言がある。
この報告は原因は不明ながら山口少将だけでなく、通信参謀にも知らされていなかったとされており、暗号室内に留まったとされる。
白木二等兵曹は戦後、飛龍戦友会が開かれた際にこの件についてたずねたが、当時の通信長は戦死しており、他の上官の記憶にも無く詳細は不明だった。他に裏付ける資料は現在の所、発見されていない。
赤城や利根などの他の艦では受信できなかったとされている。仮に知らされていれば南雲司令部にも報告され索敵計画なども見直されたとの意見がある。

第六艦隊通信参謀であった高橋勝一少佐によれば「ミッドウェーで戦闘が始まる2、3日前に敵空母らしい電波をとらえ、方位測定の結果、ミッドウェーの北北西170海里とわかった。このことは東京通信隊から全艦隊に放送された」と証言した(ただし実際の米空母の位置は北北東だった)。一方で戦史叢書では東京からは敵の通信情報が連続放送されていたが、その内容は敵情に大きな変化が認められないという主旨のものだったとしており、源田参謀も同様の回想を残している。また宇垣纏連合艦隊参謀長が記した戦藻録の記述や当時の資料の調査結果と異なる理由から、戦史叢書ではこの話を「何かの間違いではないか」としている。
また「(日本時間)6月4日、米海軍はこの緊急電報に気付き、その後まったく電波を出さなくなった。」との証言もあるが、連合艦隊や南雲機動部隊、第二艦隊などの受信記録や将兵の証言にはこれら第六艦隊の情報が無いこと、米側が奇襲を前提とした行動をとっていること、「記憶にない」と言う三戸寿第六艦隊参謀長の証言もあることなどから疑問が残る。

一方で、言葉は悪いが連合艦隊司令部は何もしなかったのであって、敵艦隊は出てこないと太鼓判を押したわけではないので、偵察機の報告結果を待たずに「敵艦隊はいない」と兵装転換を急行した南雲司令部の指揮には批判がある。「敵機動部隊出撃の算あり」と進言した山口少将の他にも、加賀の艦攻隊分隊長や赤城の通信士らは米空母の出現は有り得ると考えていた。他にも連合艦隊は作戦の最優先事項の一つにミッドウェー航空兵力の撃破を命じていたことなども関係しているとされる。

尚、当時の日本海軍の偵察機の索敵線は同じ航路を引き返すのではなく、逆三角形を描くようにして帰路につくので、往路と帰路は合致しない(つまり帰路も含めて索敵範囲である)。母艦側から索敵線の末端に到達したであろう時刻を予想して、偵察結果を推測したと言う手段について、帰路の海域を索敵する時間を計算に入れておらず、方法に不備があった点が研究家から指摘されている。実際、利根4号機からの重要な報告を少し後に受けることになった。
筑摩1号機が雲上飛行により敵艦隊を発見できなかったとする説があるが、航跡は重なるが筑摩1号機は既に通過して離れた状態であり、実際には視認範囲外であったのではないかとする説も存在する。

艦爆隊を先行させなかった理由

①偵察機が報告してきた敵艦隊と機動部隊の距離は約210海里。司令部ではこの距離では敵は護衛機をつけるために接近する必要がある、ミッドウェー基地航空隊もこれまでの空襲から殆どが攻撃してきたと見られ次の空襲までは時間の余裕があると判断した。仮に護衛機無しで攻撃してきた場合は直掩機で防げるとされ、護衛機無しで攻撃したミッドウェー基地航空隊が戦果を殆どあげることができていなかったこともこの判断を後押しした。

②防空戦闘で攻撃隊に随伴させる護衛機がいなかった。珊瑚海海戦では護衛無しで攻撃隊を送ったが戦果は上げれず、大損害を出していた。機動部隊に襲来した護衛無しの米雷撃隊のようになる可能性が高く、護衛機無しで攻撃を行った米軍機の多くが撃墜されたのを目撃していたことも影響した。

③発進を優先させ第一次攻撃隊を収容しなかった場合、殆どの機体を不時着させる恐れがあった。

④戦力の逐次投入よりも十分な準備を行った上での全力攻撃のほうが成功率が高いと判断した。

尚、時間の余裕については、主に源田参謀が①の理由から余裕はあるとこの時は判断したと証言したが、吉岡参謀も同じく時間的余裕があると判断した事と攻撃隊の発進を遅らせる事になっても大兵力が整うのを待つ方が有利であるとの判断だったと証言しており、当事者間でも認識に共通している部分と違う部分がある。

攻撃隊の収容を後回しにし、意見具申の通り発進を優先させた場合の結果については不明であるが、この時点では敵艦隊の位置が誤っていることにまだ気づいていないので会敵できない可能性もある。
元日本海軍中佐の千早正隆は、二航戦の山口少将らが兵装転換問題を研究する必要を認めて実験を行い、兵装の再転換には最低でも2時間は要すると言う報告書を纏めていたにも関わらず、これを受けた南雲司令部は問題の解決に積極性を欠き、次の作戦に反映させようとしなかった事を批判した。

GHQ元戦史室長のゴードン・ウィリアム・プランゲは南雲司令部の判断を「あの時に得ることができた情報からは妥当な判断だった」と肯定的に評価した。また、インド洋作戦中、索敵機が複数回機位を失ったため母艦が電波を出すことになり敵に艦隊位置を暴露することになった事、日本海軍が攻撃一辺倒で偵察を軽視していた事、日本海軍では偵察に使用する兵力を10パーセント以内としていた事が、南雲司令部が索敵機数を必要最小限にした理由であるとを述べている。
ただしミッドウェー海戦の大敗につながる問題点がインド洋作戦で既に現れていたにも関わらず、日本海軍は図上演習など作戦計画を考える段階でそれらの戦訓を反映させなかった経緯(その戦訓を反映させなかった驕り体質も含めて)があった事を、プランゲは十分に研究できていない点は念頭において読む必要がある。これはGHQ戦史室の一員であった付き合いから、プランゲが亡くなるまで30年余プランゲの活動に協力していた千早正隆によるプランゲ評である。
プランゲがミッドウェー海戦について記した著書「ミッドウェイの奇跡」は、プランゲの遺稿を彼の弟子が千早に事前確認させずに発行してしまったもので(千早は日本語版翻訳のみ行った)、後に千早の評価を知った「ミッドウェイの奇跡」の編集者ドナルド・ゴールドスタイン(上述のプランゲの弟子)は、プランゲの著書を不完全なものにしてしまったと嘆いたという。
長くなってしまったが、要するに注意すべきは1980年に亡くなり、日本側の戦史スタッフとの議論も未達のままだったプランゲの研究は錯誤を含んでいる点である。彼の言う「索敵機を飛ばしすぎたせいで無駄な無電を発してしまい母艦の位置を露呈してしまったから」と言う説は、少なくとも源田参謀や吉岡参謀が索敵計画を改めなかった理由に上げていない(軍事クラスタ間の雑談の話で恐縮だが、このプランゲ説は、主観によった証言が多いと有名な淵田美津雄の意見を鵜呑みにしてしまったのではないかとも言われている)。
千早はその後も精力的に戦史活動を進めたが、プランゲの死後5年程経った頃、アメリカの戦史研究学会に参加した際、インド洋作戦における日英の戦いの流れがアメリカでは殆ど知られておらず、驚いたと述べている。

米軍司令部の決断

南雲司令部の判断と同様、米軍の機動部隊も当初は全力攻撃を企図していた。機動部隊の指揮はこれが初めてだったスプルーアンス提督も、戦闘の基本原則として戦力の逐次投入が非常に拙い手段であり、各個撃破による自軍の大損害に繋がる事は充分理解していた。この時点での発艦は攻撃隊の航法などの負担を増やすことになり、雷撃機は航続力の関係から母艦への帰艦が不可能になる恐れもあった。実際に戦闘機隊が攻撃機隊とはぐれたり、会敵できなかった攻撃隊が出た。
しかし日本軍の偵察機が艦隊上空に出現し一刻の猶予も無くなった事、日本の機動部隊がミッドウェー島攻略に集中しているタイミングを逃せば勝利はないとの判断から、味方パイロットの多大な犠牲を覚悟の上で、攻撃隊全機の発艦が終わるまで攻撃開始を待つ事をせず、発艦の済んだ部隊は直ちに攻撃に向かうよう命令した。
これはスプルーアンス提督の決断ではなく、彼の副官ブラウニングが強く説得したとの説もある(後にこの将官がこの時の功績から昇進を打診された際「あんな非人道的な指揮は2度とできない」と固辞したとされる)。
米軍の作戦指揮の柔軟さとこの一戦にかけた覚悟の強さは高く評価されている。


関連タグ

第二次世界大戦 太平洋戦争 ミッドウェー
九九式艦上爆撃機 九七式艦上攻撃機 零式艦上戦闘機
SBD TBD F4F F2A

提督の決断
1943カプコンのシューティングゲーム サブタイトルは『ミッドウェー海戦』だが、実際にこの海戦が起こったのは西暦1942

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