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ミッドウェー海戦

みっどうぇーかいせん

太平洋戦争のターニングポイントの一つとなった戦闘。
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ミッドウェー海戦とは、昭和17年6月5日アメリカ合衆国標準時では西暦1942年6月4日)から同月7日まで北太平洋のミッドウェー島沖において大日本帝国海軍アメリカ海軍が交戦した海戦である。ミッドウェー島占領とそれに伴う敵空母撃滅作戦(MI作戦)の前哨戦と位置づけられていた。

海戦までの経緯(日本側)

背景

昭和16年12月8日ハワイ真珠湾のアメリカ海軍基地および艦隊へ大打撃を与えたハワイ海戦、その2日後の10日のマレー沖海戦(「ハワイ・マレー沖海戦」と総称される場合もある)でイギリス海軍の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ」、「レパルス」を航空機だけで撃沈、翌17年2月のスラバヤ沖海戦で勝利し、4月のセイロン沖海戦ではイギリスの空母「ハーミーズ」を沈没させるなど、制空権・制海権を握り快進撃を続けていた日本海軍だったが、その後の具体的な計画を持ち合わせていなかった。

一応全く構想が無かったわけではなく、海軍内では軍令部による米豪遮断案と、聯合艦隊によるハワイ攻略案が並立し、半ば対立した状態にあった。。
米豪遮断とは南太平洋の島々を占拠することによりアメリカ-オーストラリアの連絡を絶ち、オーストラリアの陥落から連鎖的に対英講和、対米講和に持っていく案である。
オーストラリアが根負けするまで日本が包囲を維持できるのか、またオーストラリアが落ちても英国が折れるか? 米国は? と問題が山積みであり、聯合艦隊はこの案に難色を示していた。
一方ハワイ攻略案は、米国海軍の最重要拠点であるハワイを制圧、またその過程で米海軍艦艇を駆逐し海上優勢を盤石にして講和に持ち込む、という分かりやすいものであるが、単純に軍事的に無謀であるとして軍令部からは睨まれていた。
(本来聯合艦隊は軍令部の判断に干渉できる立場ではないが、それはこの際置いておく)

これに加えてインド経由でドイツと連絡し協同することを目論む陸軍の意向もあり、戦争終結計画である第二段作戦の策定は混迷を極めることになる。

MI作戦内定まで

第二段作戦案に着手したころ、ミッドウェー島攻略の構想はまだ無かった。
聯合艦隊の考えるハワイ攻略案は、実行に移すことが可能なのは10月ごろであると見積もられており、それまで聯合艦隊はやることが無かった。
そこで聯合艦隊が発案したのがセイロン島攻略作戦である。
これは4月に行われるインド洋作戦とは別に考えられていたものであり、セイロン島を占拠して英海軍をインド洋から追い出し、太平洋方面での戦闘に於いて後顧の憂いをなくす目的があった。

しかしながら陸軍が時期尚早であるとして戦力派出を拒んだことにより、セイロン島攻略は棄却される。
第二段作戦の締め切りが迫る中、聯合艦隊は急ぎ代わりの作戦を考える必要があった。

ここで聯合艦隊が注目したのが、真珠湾で取り逃し、1月から太平洋上の各地へ散発的な襲撃を繰り返していた米空母である。。
攻撃そのものの被害はあまり大きなものではなかったが、海上輸送路への脅威としては看過しがたいものであり、何らかの対処を講じる必要があった。
しかしながら米空母の行動は迅速であり、後手の対応で仕留めることは難しく、何らかの形で米空母を釣り出す必要があった。
そのためのちょうどいい餌として選ばれたのがミッドウェー島である。
しばしば「真珠湾の玄関口」と称されるこの島は、日本にとってはハワイ攻略の足掛かりとできる島であり、米海軍にとってもハワイを防衛する上で最も重要な哨戒拠点であった。よってこの島を脅かせば米海軍は全力で反撃に出るだろうと聯合艦隊は期待したのである。

軍令部は当初この作戦案に難色を示した。
同島への攻撃で米空母を引きずり出せる保証がなく、また付近に日本の拠点が存在せず支援が受けられない環境では危険が大きいためである。
また軍令部が推進する米豪遮断案であれば、オーストラリアを守るために米空母は出てこざるを得なくなり、別途誘引のための作戦を用意する必要は無いという考えもあった(この読みが当たっていたことは、その後の珊瑚海海戦の通り)。

聯合艦隊は永野修身軍令部総長に直接働きかけ、交渉の結果軍令部はミッドウェー島に哨戒拠点としての価値を見出し、聯合艦隊が米豪遮断案に対し大幅に譲歩したこともあって、MI作戦を受け入れることになる。
そしてこのMI作戦の陽動として、また北太平洋の哨戒拠点確保のために、アリューシャン列島のアッツ、キスカ島を占領するAL作戦も追加される。

第二段作戦は4月15日に上奏裁可された。
その大まかな内容は、「英国インド洋艦隊を撃滅し、と同時に米豪間を遮断し、更に艦隊決戦により米太平洋艦隊を撃滅する」というもので、平たく言えば陸軍参謀本部、海軍軍令部、そして聯合艦隊のやりたいこと全部盛りだった。
またMI作戦、AL作戦の詳細も決定した。概略は以下の通り。

  • 機動部隊
第一航空艦隊の空母「赤城」・「加賀」・「蒼龍」・「飛龍」・「瑞鶴」・「翔鶴」を擁し、南雲忠一中将が指揮する第一機動部隊(南雲機動部隊)。
護衛としては一航艦隷下部隊の大部に加え、第一艦隊より金剛型戦艦2隻、第二艦隊第四水雷戦隊より駆逐隊1が加わる。
6月4日よりミッドウェー島への爆撃を開始、3日間爆撃を行った後、島を占拠次第ハワイ方面へ展開し、敵空母出現を待つ。

  • 攻略部隊
攻略部隊を積載した輸送船を、空母「祥鳳」、第十一航空戦隊の「千歳」、第二艦隊の大部、第一艦隊の金剛型2隻、第四艦隊の掃海隊、哨戒隊が護衛、支援する。
6月7日にミッドウェー島へ上陸し占拠、速やかに修復して哨戒拠点としての機能を復旧する。

  • 北方部隊
海軍陸戦隊を「龍驤」、第五艦隊、第五戦隊、第一水雷戦隊、第七駆逐隊、第一潜水戦隊が支援する。
アリューシャン諸島のキスカ、アッツを攻略する。

  • 基地航空隊
6月3日までに飛行艇を使用して真珠湾基地を偵察する。航続距離不足はフレンチフリゲート礁で潜水艦から補給を受けることで補う。
ミッドウェー島占拠後は航空機を同島に派出する。

  • 主力部隊
戦艦「大和」ほか、聯合艦隊直属、および第一艦隊所属の戦艦7隻で構成される大艦隊……と言えば聞こえはいいが、実際は小回りが利かずに前線に出れなかった余り者の集まりである。
名目上は作戦支援を担うとなっているが、ミッドウェー島北西600海里(1100キロメートル以上)という布陣を考えれば戦術的意義を期待されていないことは明らか。
活躍の機会に恵まれなかった戦艦乗員の不満解消と、山本五十六以下聯合艦隊司令部が作戦に参加することによる士気の向上が目的である。
なお司令部が進出したことにより司令部までが無線封止を厳とせねばならず、作戦指揮に支障を来している。

状況の変化と作戦の変更

第二段作戦が裁可された直後の4月18日、航空母艦「ホーネット」に搭載された「B-25」16機が日本の主要都市を空爆する(ドゥーリットル空襲)。
これにより哨戒強化の必要性を感じた陸軍がMI作戦への協力を快諾し、上陸戦力が大幅に強化された。

作戦実施が近づくにつれ、新たな問題と不安要素も現れてきた。5月のMO作戦で日米機動部隊が初めて衝突し、日本軍は米空母「レキシントン」を沈め、「ヨークタウン」を中破させたが、日本側も祥鳳が沈没、翔鶴が中破、瑞鶴は被害が無かったが航空機パイロットの補充が必要となるなど、少なからぬ損害を受けた。
このため、MI作戦に参加できる日本海軍機動部隊の正規空母は6隻から4隻に減少し、祥鳳の代役としては瑞鳳が充てられることになる。
AL作戦には商船改造空母の「隼鷹」を充てることとなったが、MI作戦への補填は行われなかった。

これに加えて、開戦当初から連戦続きであった機動部隊には疲労が蓄積していた上、帰投後に大規模な人事異動が行われて練度が大幅に低下しており、司令長官の南雲忠一中将、二航戦司令官の山口多聞少将、第二艦隊、そして大本営(軍令部)は作戦内容の危険性や艦隊の状況から作戦の中止ないし延期を求めていた。
しかし月齢まで考慮して厳密にくみ上げられた繊細な計画を延期することは不可能であり、補給のために1日の出航延期が認められたのみである。他の日程は変更されなかったため、島への攻撃に使える日数が1日減ったことになる。
加えて本来守られるべき攻略部隊が機動部隊に先行する形となり、敵に先んじて発見される公算が大となったが、聯合艦隊は「囮になって好都合」とこれを問題視しなかった。

また基地航空隊が行うはずだった真珠湾偵察は、以前に同じ手口を使っていたために予測されており、フレンチフリゲート礁に先んじて米駆逐艦を派遣されてしまっていたために不可能となった。

開戦までの経緯(米側)

日本の奇襲という形で戦争に巻き込まれた米国は、対日戦の準備が全く整っていなかった。
一応対日戦争の終結プランとして、いわゆる「飛び石作戦」は既に構想されていたが、実現のための戦力が揃うには米国の工業力をもってしても数年を要すると見積もられ、当面の間は大きな攻勢に出ることは不可能だった。
そこで米海軍が取った戦術が、日本軍の拠点に対する散発的な奇襲攻撃である。
空母艦載機の攻撃力では大打撃を与えることは困難であるが、多少なりとも戦果が得られれば自国の士気は保たれるし、日本側がこれに焦って拙速な行動に出てくれれば儲けものでもある。上述したドーリットル空襲もその一環として行われた。

5月に入ると暗号解読が進み、MI作戦の概要が見えてくるようになる。
作戦に際して問題となったのは、珊瑚海海戦でヨークタウンが損傷を受け、その復帰が危ぶまれていた点、そしてミッドウェー島基地の防備がとても十分とは言い難い点である。

ヨークタウンについては調査の結果、ボイラー等の損傷により修理には最低でも2週間が必要であると見つもられたが、修理せずとも30ノット近くを発揮可能であり、甲板が既に修復されていたこともあって航空機運用機能には問題が無かった。
そのためヨークタウンはボイラーの修理を断念、燃料漏れが起きていた船体の応急修理に絞り、昼夜兼行の突貫工事で作戦期日に間に合わせた。
損耗していた航空隊はハワイに下されていた「サラトガ」の航空隊により補填され、第17任務部隊として再編成される。
珊瑚海海戦で指揮を執ったフランク・J・フレッチャー提督が、引き続き総指揮官として座乗した。

ミッドウェー基地については暗号による作戦判明以前から攻撃を受ける可能性が高いと見られており、多数の航空機が増派され、一応頭数だけは確保されたが、F2AバッファローSB2Uヴィンディケーターといった旧式機体を多く含み、搭乗員も経験の浅い者ばかりという寄せ集め状態だった。

そして「エンタープライズ」・「ホーネット」基幹の第16任務部隊は、ハルゼー提督の病気入院によりレイモンド・スプルーアンス少将が司令官となる。

太平洋艦隊司令官チェスター・ウィリアム・ニミッツは、これを単なる島の防御ではなく、島に敵を引き付けて敵に痛打を与える好機と捉え、「作戦計画29-42」を作成する。。
計画ではミッドウェー島基地隊並びに潜水艦隊が同島の西方やや北よりの範囲を索敵し、2つの任務部隊は島より北東方向に展開することとされた。参加各部隊には日本海軍艦艇に最大限の損害を与えるように命令が出されていた。
日本海軍機動部隊は地理的に北西方向より島に接近することが確実視されており、任務部隊は島を攻撃する機動部隊を真横から奇襲する形になる。
一方でニミッツは戦力の過剰な消耗を回避することも重要視しており、基地航空隊には必要に応じてオアフ島に退避することが許可され、任務部隊には損害が過大であると予想される場合には接触を避けるよう命令されていた。

他にウィリアム・パイ中将が指揮する戦艦7隻を中心とする水上部隊は日本軍のアメリカ西海岸への攻撃を警戒するため出撃した。
ワシントンがMI作戦の情報を偽電と疑い、本土攻撃を恐れたためである。
また本土で修理を終えていたサラトガを基幹とする第11任務部隊もミッドウェー島に急ぎ向かうよう指示が出たが、こちらは距離の都合で間に合うとは期待されていなかったようである。

海戦

AL作戦は完了し無事に両島を占領したが、アメリカ海軍は暗号解読によって日本海軍の主目標がミッドウェーであることを突き止めていたため、陽動は無意味に終わる。(ニミッツ司令は万一に備えシオボルド少将が指揮する巡洋艦を主力とする水上部隊をアリューシャン方面で警戒に当たらせていた。アッツ・キスカ両島への攻撃も事前にアメリカ海軍に察知されていたのだが、シオボルド少将はそれは日本側の策略で戦略的価値の低いアッツ・キスカ両島への攻撃は陽動で、自身の艦隊をおびき出している間にダッチハーバーへの攻撃を計画していると考えコデアックに留まった。)

経過

(以下の時間表記は、みなミッドウェー島の現地時間によるものである)

6月4日

3時00分 
南雲中将はそれまでの情報から
・敵は戦意に乏しきも我が攻略作戦進捗せば出動反撃の算あり。
・敵の哨戒圏は約500海里と推定。
・現時点ではまだ敵に発見されていない。
・敵機動部隊が付近で大挙行動中と推定せず。
・ミッドウェーを空襲、基地航空隊を無力化し上陸作戦を成功させた後に、敵機動部隊に対処し撃滅することが可能。
などの情勢判断を行う。

4時00分
PBY」22機が索敵のために発進。
「B-17」16機(15機とも)が輸送船団攻撃のためにミッドウェー基地を発進。
「B-17」はミッドウェー航空指揮官のラムゼイ中佐からは日本の空母を発見した場合は攻撃目標を変更する場合があると連絡を受けていた。
6時頃に「B-17」に発見した空母への攻撃命令があり目標に向かう。

4時30分 
南雲機動部隊より7機の偵察機と、友永丈市大尉が指揮する第1次攻撃隊108機が発艦。攻撃隊は6時30分にミッドウェーを空襲するが決定的な打撃は与えられず帰還。
また、カタパルトの不調により「利根」の偵察機が定刻より30分遅れで発艦する。

5時20分
南雲中将より各空母へ「本日敵機動部隊出撃の算なし」、「敵情に変化なければ第2次攻撃は第4編成(指揮官加賀飛行隊長)をもって本日実施予定」の予令が信号で送られる。
当時赤城艦橋にあった吉岡航空参謀によれば、「敵が出撃してこないと油断したなんてみっともないから」と言う理由で「本日敵機動部隊出撃の算なし」の箇所を戦闘詳報から削除したと1976年に証言したとも、それとは逆に「予令そのものを全然知らないし、源田実航空参謀も知らないだろう」と1980~1983年の間に証言したとも言われている。

5時30分
米偵察機が南雲機動部隊を発見、敵空母2隻及び戦艦群などの報告。6時頃にミッドウェー基地航空隊の攻撃隊が発進する。

5時55分
利根1号機から「敵編隊が艦隊へ向かった」との連絡を受ける。
南雲司令部では6時40分ごろに襲来すると予想、直掩機の増加を命じた。
直掩に第六航空隊の零戦の投入を検討したのはこの頃だといわれる。
余談だが、第六航空隊の零戦は北方部隊の「隼鷹」にも12機が搭載されたとされる。

6時07分
フレッチャー少将、スプルーアンス少将に対して南西に進み位置の明らかな敵空母を攻撃するように指示。
索敵の艦爆隊の収容と偵察機の報告から「ヨークタウン」の攻撃隊は予備とした。事前情報では日本軍の空母は4~5隻と予測されていた。


7時00分
友永大尉が第2次攻撃の必要あり(カワ・カワ・カワ)と打電。
米機動部隊から「ホーネット」より59機、「エンタープライズ」より33機の攻撃隊が発艦開始。
スプルーアンス少将は当初の予定では報告された日本空母との距離が100海里以内になるまで接近するつもりだった。

7時10分
ミッドウェー基地航空隊の「TBF」雷撃機6機と「B-26」爆撃機4機が日本艦隊を攻撃。米軍は「TBF」を5機、「B-26」を4機喪失する。護衛機が随伴していないのはシマード司令官が、ニミッツ司令より防空は対空火器に任せ航空機はすべて日本空母に向かわせるように指示を受けていたが、ミッドウェー島の防空に全戦闘機を投入したためとする説がある。
日本側は「赤城」が機銃掃射を受けたのみ。飛龍戦闘詳報ではB-17を4機発見とあるが、他の資料ではB-17はこの攻撃隊に含まれていない。
空襲を受けたことや友永隊の報告から、速やかに第二次攻撃を行いミッドウェー島を制圧する必要があると南雲司令部は判断した。

7時15分
南雲中将は索敵機の索敵線先端到達時刻(7時15分ごろ)まで待機したが米艦隊の報告は無かった。
これらを踏まえて南雲中将は「第二次攻撃隊本日実施 待機攻撃機爆装ニ換ヘ」と指示し、陸用爆弾への換装を命じた。

7時28分
定刻より遅れて発艦した「利根」の索敵4号機が「敵らしきもの10隻見ゆ。ミッドウェー方位10゜距離240浬(艦隊より200浬地点)」と発信。また「エンタープライズ」より第2波攻撃24機が発艦する。「ホーネット」と「エンタープライズ」には艦戦34機、艦爆7機が防空と哨戒のため残った。
同じ頃、日本偵察機を確認した米機動部隊は各航空隊に日本艦隊への攻撃を指示する。すなわち『戦爆雷撃機全機を空中集合させ、全航空兵力一体の協同攻撃を行う』という本来の戦略企図を破棄し、発艦済みの部隊から逐次攻撃に向かわせる方針転換を行ったのである。

7時32分
「B-17」が南雲機動部隊を発見するが、雲の影響で空母を見つけれなかったため付近の捜索を行う。

7時40分
司令部に上記の無電が届く。

7時45分
南雲中将は機動部隊に対し「敵艦隊攻撃準備、攻撃機雷装そのまま」と指示。
戦史叢書では「雷装其の儘」は雷装への復旧命令と解釈している。同書では、「其の儘」の文言を使用した理由として、7時15分から開始した兵装転換はあまり進んでおらず、殆どの機体が雷装のままであって簡単に雷装への復旧が可能と南雲長官が判断したためと捉えている。
この下令は発見した敵艦隊に空母が含まれるのか不明であるため兵装換装の一時中止だったとの解釈も存在する。
評論家の大塚好古氏は戦史叢書の解釈の通りだった場合(大塚氏はこの命令を一時中止だったと解釈している)、この時点で赤城では17機の艦攻の内9機が、同じく加賀は26機の内9機が爆走への転換が完了していたと推測している。一方で、整備兵たちの努力によって、南雲長官の予想に反して爆装への転換はかなり進んでいたと記した調査史料もある。
この時、赤城の格納庫内で待機していた第二次攻撃隊のパイロットの証言では、戦史叢書の解釈と異なり、この時間帯はまだ雷装への復旧作業は始まっていない(9時以降だったと回想している)。戦史叢書では兵装転換復旧下令と共に再度空襲が7時45分に始まり、8時40分まで続いた影響で兵装転換は予想に反し進捗しなかったとしている。

7時47分
「利根」偵察機に対して47分に「艦種確め触接せよ」と返信。

7時53分
ミッドウェー基地航空隊の「SBD」16機が日本艦隊を攻撃し8機を喪失。日本側の被害は無し。

8時00分~
「利根」偵察機に「艦種知セ」と通信。
第1次攻撃隊が艦隊の上空へ帰還。空襲中のため上空待機となる。

8時09分
「利根」偵察機より「敵巡洋艦5、駆逐艦5見ゆ」と連絡が入る。

8時10分~
ミッドウェー基地航空隊の「B-17」爆撃機17機、「SB2U」爆撃機11機が日本艦隊を攻撃。この際、「B-17」が加賀を除く3空母を空撮する。日本側に損害無し。米側は「SB2U」を3機喪失。

8時20分
「利根」偵察機より「敵はその後方に空母らしきもの1隻伴う。ミッドウェー島より方位8度、250浬(約460km)」と続報が入る(母艦側の受信と暗号解読のため、南雲司令部がこの続報を認識したのは8時30分)。だがこれは間違いで、本当の座標は150海里(約280km)だった。
誤った位置を報告した理由は諸説ある。
戦史叢書では航法上の誤差や作図ミスが挙げられている。ただ、同書によれば当時の天候や証言から航法上の誤差は考えられないとも記述しており、この作戦では海図ではなく白紙に記入していたが、ミッドウェー島か発艦位置を誤って記入しており、その誤差による影響としている。
柳田邦夫氏によれば、白紙を使った理由は索敵機が撃墜された際に母艦の位置を敵に知られないようにするためとされる。

8時25分
米潜水艦「ノーチラス」は南雲機動部隊の戦艦に対し魚雷を発射したが、命中はしなかった。

8時30分
南雲中将が二航戦に対して「艦爆隊、2次攻撃準備250kg爆弾揚弾(対艦船攻撃用の通常爆弾)」と指示。 また一航戦に雷装への転換を指示。この時、帰還してきた一航戦の艦爆隊への爆装準備と二航戦の艦攻隊への雷装を命じたとする説がある。
ほぼ同時刻、二航戦司令官の山口少将が「現装備のまま直ちに攻撃隊発進の要ありと認む」と具申するが、司令部はこれを却下する(却下した理由は後述)。
同時刻に二式艦偵が偵察のため発艦するが、防空戦闘の影響で発艦に遅れが生じていた。

8時34分
利根4号機、「我今より帰途につく」と報告。

8時37分
第1次攻撃隊の収容を開始。
同時刻、フレッチャー少将、発見している敵空母への「ヨークタウン」の攻撃隊を投入することを判断。
米機動部隊の「ヨークタウン」より第1波攻撃隊18機が発艦。9時05分には第2波攻撃隊19機が発艦する。
残る半数はまだ発見されていないと思われる日本空母に備え控えられた。

8時54分
敵味方の関係方位を確認するため、利根4号機に長波輻射が命じられる。

8時55分
「攻撃隊の収容後、北に変針し敵空母の捕捉撃滅を行う」との指示が出される。
第8戦隊より利根4号機に「帰投待て」と命令。

9時05分
利根4号機に「筑摩4号機が来るまで触接せよ。長波を輻射せよ」と命じられる。原因は不明だが、戦史叢書によれば利根4号機は長波輻射は実施しなかったとされる。

9時15分
「ホーネット」艦爆隊35機と艦戦隊10機が会敵を断念し帰還。
「ホーネット」艦爆隊が会敵できなかったのはスプルーアンス少将にとって残念なことだったようで、「もし、ホーネットの艦爆隊が会敵できていたら、第4の空母にも攻撃を加え、同艦からのヨークタウンへの攻撃を防ぐことができただろう」としている。

9時18分
第1次攻撃隊の収容が完了。空母によっては9時30分から9時50分頃まで収容に時間がかかったとある。
赤城艦内で待機していたパイロットによれば、陸上攻撃用に爆装された第二次攻撃隊の九十七艦攻の雷装への復旧作業は、第1次攻撃隊の収容が完了したこの時間帯からようやく始まったとある。
各空母に照会した攻撃準備の完了予定時刻は艦爆隊は不明だが艦攻隊は一航戦は10時30分、二航戦は10時30分から11時ごろになると報告された。ただ、10時20分ごろは直掩機の準備を優先しており、攻撃隊の発艦準備完了にはまだしばらく時間がかかったと見られる。

9時25分
「ホーネット」艦攻隊15機が日本艦隊を攻撃するが文字通り全滅する。日本側に損害無し。

9時35分
利根4号機に現地時間10時まで待つように命令。司令部側は燃料にはまだ余裕があると判断していた。
戦史叢書では航続時間は巡航速度の場合は10時間、作戦時には余裕を持って7~8時間ほどと見ていたとしている。索敵は帰投まで5時間と見られていた。燃料タンクの状況から利根4号機はなんらかの理由により燃料消費が増えていたとしている。理由としては巡航以上の速度で飛行したのではないか、燃料の混合比に異常があったのではないか等が挙げられている。

9時37分
「利根」偵察機より帰還要請が届く。「我燃料不足触接を止め帰投す」
38分には「我出来ず」と触接の維持が出来ないことを報告している。これを受け、阿部司令は利根4号機の帰投支援のため、艦位と行動予定を発信。

9時38分
防空戦闘の影響で準備が遅れていた筑摩5号機が触接交替のため発艦する。

9時40分
「エンタープライズ」艦攻隊14機が日本艦隊を攻撃。日本側に損害無し。米側は11機を喪失。
また空襲の激化により、直掩機への補給も並行して行われることとなる。

9時52分
「エンタープライズ」艦戦隊が日本艦隊を発見するも燃料不足により帰還する。

9時55分
「エンタープライズ」艦爆隊が北東へ向かう一隻の日本軍巡洋艦を発見、その先へ向かい10時に日本の空母を発見することに成功。
「エンタープライズ」艦爆隊の燃料は余裕が少なくなっており、マクラスキー少佐は10時まで針路315度へ飛行した後、北東へ変針して何も発見できなかった場合は帰還するつもりだったと語っている。
この日本軍巡洋艦は一説には駆逐艦「嵐」ではないかと言われているが、「嵐」会によれば、この時刻には「赤城」の直衛をしており、定位置を離れることはなかったという。

10時00分
蒼龍の二式艦偵が利根機が報告した地点に到着するが、利根機の報告位置が誤っていたため米艦隊を発見することはできなかった。

10時10分
「ヨークタウン」艦戦6機、艦攻12機が日本艦隊を攻撃。艦戦隊は新戦術「サッチウィーブ」で日本軍艦戦(零戦)5機を撃墜するが、艦攻の攻撃は失敗し、艦戦1機、艦攻12機を喪失する。

10時20分
南雲中将は機動部隊に対して「艦戦(直掩機)は準備でき次第発艦せよ」と指示。

10時22分~24分
「エンタープライズ」、「ヨークタウン」の艦爆50機が高空より日本艦隊を攻撃。直掩隊は10時10分に艦攻へ対処するため低空に下りており、阻止が間に合わず、「加賀」に爆弾4発、「蒼龍」に爆弾3発が命中する。

ミッドウェー1942
加賀



10時26分
「赤城」より艦戦1機が緊急発進。その直後に爆弾2発が命中する。「赤城」を攻撃したベスト大尉ら数機は当初は「加賀」を目標にしていたが、急遽目標変更をしていた。
米攻撃隊は直掩隊の追撃を受けて17機を喪失。燃料不足で不時着した機体も発生した。「エンタープライズ」艦爆隊が燃料不足で不時着機を出した背景には航続距離ぎりぎりで出撃したこともあるが、母艦の位置変更の連絡をしていなかったことも影響した。燃料欠乏による損失機は数機とする資料もある。「ヨークタウン」艦爆隊は無事、帰投に成功した。
「飛龍」は他空母の被弾直後から米空母へ向かっていった。進撃中に山口少将は阿部司令に「損傷空母には駆逐艦一隻を付け、主力部隊に向かわせてはどうか」と要請したとされる。

10時45分
南雲司令部が移乗を開始。
同時刻、「蒼龍」が総員退艦を発令。

10時46分
南雲長官が旗艦を「赤城」から「長良」に移す。

10時50分
山口少将が「我航空戦の指揮を執る」と機動部隊に通達。同時刻、直前に指揮を引き継いでいた次席指揮官の阿部司令は二航戦へ敵空母への攻撃命令を出し、三空母の被弾炎上や今後の企図などを主力部隊に通達。山口少将、「全機今より発進、敵空母を撃滅せんとす」と通達。

10時55分
偵察機から敵艦隊がミッドウェー島より方位10、130海里の地点に存在し24ノットで航行中との報告を受ける。

11時00分
「飛龍」より第1次攻撃隊24機(艦爆18機、艦戦6機)が発艦。

飛龍の反撃



11時30分
「飛龍」第1次攻撃隊が「ヨークタウン」を攻撃し爆弾3発を命中させる。攻撃隊は艦戦4機の護衛が付いていたが、12機の迎撃機や対空砲火などで小林隊長機を含む艦爆13機、艦戦3機を喪失する。(当初は艦戦6機の護衛だったが、進撃中にSBDの一隊を発見、戦闘を行った影響で艦戦2機が引き返していた)
第1次攻撃隊の損害は山口少将の予想をはるかに上回るもので第3次攻撃隊の発進を薄暮まで延期することに影響した。
「ヨークタウン」は航行不能に陥ったが、応急修理により1時間後には20.5ノットで航行可能となる。飛行甲板は数十分で航空機の発着可能にまで修復された。
小林隊の攻撃後、ブラウニング大佐は即時攻撃を進言したが、スプルーアンス少将は攻撃隊の準備が完了していないことや正確な位置情報を得てから攻撃隊を向かわせたいとし待機した。
「長良」へ南雲司令部の移乗が完了し、指揮権が移され、当時の戦況や企図などが報告された。

12時20分 
山本長官、北方の第二機動部隊に急ぎ第一機動部隊に合同するよう命じる。
第二機動部隊は攻撃隊発艦の直前に命令を受け取り、角田司令はダッチハーバー攻撃後に南下することを決定した。
小田切政徳参謀は全速でも合同までに三日はかかる、ここまで来たからにはダッチハーバーを叩くことを進言したと回想している。

13時13分
「ヨークタウン」で指揮を執ることが困難になったため、フレッチャー少将が重巡「アストリア」に移乗を開始。

13時30分
「飛龍」より第2次攻撃隊16機(艦攻10機、艦戦6機)が発艦。

13時40分
「飛龍」第1次攻撃隊が帰還。

13時45分
偵察機の報告により、米空母が3隻存在することを確認する。

13時59分
「ノーチラス」は「加賀」に向け、魚雷を4本発射。1本が命中したが、不発だった。

14時30分
「飛龍」第2次攻撃隊が修理を終えた「ヨークタウン」を攻撃。魚雷2本が命中し、「ヨークタウン」には総員退艦が発令されたが、応急修理により6月7日には自力航行可能となる寸前まで回復した。攻撃隊は友永隊長機を含む7機(艦攻5機、艦戦2機)を喪失。それとは別に艦攻4機が修理不能な被害を受け、艦戦2機が帰還時に不時着した。
山口少将は攻撃隊の兵力を増やすため損傷機の修理や「赤城」へ発艦可能な機体があれば「飛龍」に収容したいと連絡をとった。

14時45分。
米偵察機が「飛龍」を発見する。「エンタープライズ」よりガラハー隊とシャムウェイ隊の艦爆計24機が発艦。その後、フレッチャー少将からスプルーアンス少将に指揮権が移譲。
米攻撃隊の構成や発艦時刻には諸説あり、ゴードン・W・プランゲ氏によれば機動部隊の防衛のため護衛は付けられなかったとしており、イアン・トール氏によれば艦戦8機に護衛されていたとしている。
発艦時刻はゴードン・W・プランゲ氏によれば15時50分、ウォルター・ロード氏によれば15時30分としている。

15時20分
山口少将、攻撃隊から報告を受け被害の大きさと残存機数から昼間攻撃の成功率は低いと判断、第3次攻撃を薄暮に延期する。
米空母も消耗していることや飛龍には他空母の直掩機を収容しており、艦戦は残存攻撃機や爆撃機と比較すれば数があり米空母機の来襲があっても防げると判断した。

15時40分
「飛龍」第2次攻撃隊が帰還。この時点での残存戦力は艦戦10、艦爆5、艦攻4の計19機のみ。

16時5分
「ホーネット」から艦爆15機が発艦。

16時23分
「加賀」が総員退艦を発令。

16時30分
山口少将、第3次攻撃は18時発進予定と報告。

17時05分
「エンタープライズ」攻撃隊のガラハー隊の数機が「飛龍」を攻撃するも、直掩機などにより失敗。後続のベスト大尉らとシャムウェイ隊が攻撃し「飛龍」は爆弾4発を受け大破炎上。米攻撃隊は3機を喪失。
シャムエイ隊は攻撃隊指揮官のガラハー大尉から戦艦や重巡を狙うように指示されたが、ガラハー大尉らの攻撃失敗を目撃し、急遽目標を変更していた。
その後、「ホーネット」の攻撃隊も到着し、周囲の艦を攻撃したが至近弾に留まった。
ミッドウェー島の「B-17」8機とハワイから増援としてやってきた「B-17」6機も日本艦隊を攻撃したが、命中弾は無かった。

19時15分
「蒼龍」沈没。艦長以下718名が戦死。

19時25分
「加賀」沈没。艦長以下800名が戦死。「赤城」が総員退艦を発令する。

トラウマ



00時15分
連合艦隊司令部は「MI作戦」の中止を決定。

6月5日

2時30分
「飛龍」が総員退艦を発令。駆逐艦「巻雲」により雷撃処分される。艦長、山口少将含む417名が戦死。

5時00分
「赤城」が駆逐艦「嵐」「萩風」「野分」「舞風」により雷撃処分される。221名が戦死。

6月6日

13時00分
潜水艦「伊168」が「ヨークタウン」と、駆逐艦「ハムマン」を雷撃。「ハムマン」は轟沈。「ヨークタウン」は右舷に命中した2本の魚雷と横付けしていた「ハムマン」の爆雷誘爆で激しく損傷し、総員退艦。

6月7日

5時00分
「ヨークタウン」が沈没。

三隈沈没

この一連の海戦の裏で、第七戦隊である重巡「最上」、「三隈」、「鈴谷」、「熊野」は支援隊として出陣した。
13時10分の時点では連合艦隊司令部は作戦の続行を考えていた。しかし、ミッドウェー島の飛行場には戦力がまだ残っていることやハワイから増援が到着することも考えられ無力化する必要があった。そのため、飛行場への砲撃を第二艦隊(攻略部隊)へ命じた。
第二艦隊の近藤長官は支援隊の第七戦隊に行うように指示、ミッドウェー砲撃を行うことになったが距離的に到着が未明になると予測、砲撃している間に夜が明ける恐れがあった。第七戦隊へ命令した第二艦隊も未明の到着になることを連合艦隊司令部へ伝えたが返信はなかった。
その後、南雲機動部隊の全滅と同時に作戦の中止を決定、別働部隊の撤収を命じる。
しかしそこに米潜水艦「タンバー」が現れる。
旗艦「熊野」は一斉回頭を命じるが、現場部隊の伝令の混乱もあり、「最上」と「三隈」が衝突。
「鈴谷」と「熊野」は海域を離れ、「最上」と「三隈」は退避をするも、「タンバー」からの伝令を受けた米軍機が襲来し「最上」と「三隈」に対し攻撃を開始。5日のミッドウェー基地から飛来した「SBD」や「B-17」などの攻撃では被害は軽微であったが、6日の米機動部隊の攻撃は「三隈」に集中し、塔載していた酸素魚雷が誘爆、やがて沈没した。「三隈」の生存者を救出し、「最上」の離脱を護衛した駆逐艦朝潮荒潮にも死傷者が出ている。

結果

珊瑚海海戦に引き続き米海軍は海戦に勝利したが、米海軍の艦載機搭乗員の戦死数は128名(陸上基地航空隊も合わせると172名)で、日本軍より多かった。
一方で収容空母を失ったことにより多数の航空機を喪失した日本海軍であるが、海戦全体での艦載機搭乗員の戦死者数は110名に留まり、戦死者の殆どは飛龍の搭乗員で他3空母の戦死者は合計50名以下である。このため「『日本海軍はこの海戦で多くの熟練搭乗員を失った』という説は誤りである」という主張もある。ただし、それまでのどの海戦より艦載機搭乗員の戦死者が多い戦闘だったのも事実で、決して『軽い損害』ではない。(珊瑚海海戦で艦載機搭乗員は171名戦死とする資料もある。)

ミッドウェー海戦が太平洋戦争における海戦のターニングポイントと呼ばれるのは『一時的とはいえ、日本の機動部隊が壊滅したことにより、日本側の一方的な戦いが終了したこと』である。
特に、日本海軍が保有していた主力空母6隻のうち4隻を一挙に喪失した影響は大きかった。翔鶴型の2隻(「翔鶴」は修理中)を除けば、小型の旧式空母や速力が十分とは言い難い改造空母ばかりで、新造するにも長い時間が必要(当時の日本の工業力で約3年)だった。空母の数が限られる中、日本海軍はそれまでのように積極的な攻勢に出ることが難しくなった。

米軍の勝因は複雑であるが、端的に言えば情報戦の勝利である。ミッドウェー島攻略作戦の事前察知や連合艦隊の位置特定の速さがカギとなった。

ミッドウェー海戦後のアメリカ海軍では、止むを得ず単鑑による作戦行動が多かった航空母艦の今までの使用法が、本海戦での「飛龍」隊の「ヨークタウン」攻撃に見られるようにリスク分散として評価されたのか、ガダルカナルの戦いでも空母を単艦に分散する方法を継続し、日本機動部隊に苦戦を強いられている。
しかし、戦前から建造を進めていたエセックス級空母の数が揃うと、空母機動部隊として集中運用するようになった。大戦後期のマリアナ沖海戦レイテ沖海戦では、20隻もの空母を含む大艦隊を運用するようになる。

一方の日本軍によせられる批判は、主にミッドウェー海戦以前のセイロン沖海戦珊瑚海海戦で起きた、索敵不足や誤認、艦載機の兵器換装中での敵機襲来などの経験を生かさず、この海戦においても同じ失敗を繰り返したというものである。
だが実際にはインド洋作戦からの帰還より1ヶ月ほどしか経過していなかった上、大規模な人事異動に伴う練度低下により兵員の訓練を基礎からやり直していた状態であり、とても改善、応用に着手できる状況ではなかった。
珊瑚海海戦における「翔鶴」の被弾とダメージコントロールに関する戦訓についての「翔鶴」の福地運用長による講話が、ミッドウェーへの出撃直前に実施されたが、一航戦の幹部たちは図上演習などで多忙だったこともあり、その内容を重視していなかった。
直前に生起した珊瑚海海戦では敵艦の艦種確認を怠った結果、タンカーを空母と誤認したまま攻撃隊を発艦させてしまい、先制攻撃による勝利の可能性を逃しただけでなく、攻撃隊をすり減らしたことで「ヨークタウン」を討ち漏らす遠因を作った。南雲中将による艦種報告の徹底は、この時の戦訓である。

そもそも戦術レベルの戦訓を探る以前の問題として、本当に改善すべきは絶望的な数的不利を自ら作り出す愚行についてだろう。
当初の予定では機動部隊が6隻、常用機数は減らされていたものの330機程度。対して予想される米空母は最大でも4隻、艦載機数は280機程度であり、一見すると機動部隊の方がやや優勢に見える。
だが実際には機動部隊の戦力は島攻略のために半分が費やされるため、空母決戦の参加機数は160機程度に減り、米空母が圧倒的に優勢だった。島攻略中に米空母が現れた場合、機動部隊の破滅はほとんど約束されたようなものである(実際に図上演習では壊滅的な被害が発生していた)。

ところが帝国海軍は、この絶望的事態を戦術的な工夫で乗り切れると楽観視しており有効な対策を取らなかったし、海戦後の分析も戦術レベルの指摘に終始し、作戦レベルの問題は解決されなかった。

ちなみに実際には翔鶴型の脱落により機動部隊側の決戦兵力は120機程度に減少していた。一方で米海軍はレキシントンを喪失したもののF4F-4の導入によって1隻あたりの搭載数が増加しており、230機ほどの戦力を有していた。

ミッドウェー海戦での戦訓は、偵察の多段化や防火設備の充実などに生かされるが、その後は局地戦(第一次ソロモン海戦南太平洋海戦等)での勝利を除き退勢に陥ることとなる。
また、本海戦を生き延びた搭乗員は機動部隊の再編により「翔鶴」や「瑞鶴」、その他の空母や基地航空隊に異動したものの、南太平洋海戦やそれ以降の攻防戦で多くが戦死し、特にマリアナ沖海戦後の44年後半からは急速に質の低下が進んでいく。

この作戦において沈没を直接確認できなかった艦(飛龍?)があったことから、暗号書流出の懸念があり即刻の危険があるとは認めなかったが日本海軍は
・暗号書の更新(D1暗号から呂暗号への切り替え)
・更新期間の短縮
・水溶性のインクや紙の研究
などの対策を行ったとされる。
米軍の動きから作戦企図が漏れていたことについて様々な原因が考えられたが、暗号が解読されていることについては気付いておらず、機動部隊や輸送船団の出撃を潜水艦で察知し米艦隊はミッドウェーへ急行したのではないかとされた。小沢提督は「暗号が漏れている」と参謀に調べさせたが「絶対に海軍の暗号は漏れていません」という返事だったという。

山口少将の評価

「南雲司令部の二転三転した兵装転換命令が発艦準備の致命的な遅れを招いた。転換命令を出さなければ第二次攻撃隊は発艦が間に合っていたかもしれない」
「兵装転換などせず、山口少将の進言通り第二次攻撃隊の発艦を優先させるべきだった」

日本軍の敗因についてよく言われているのがこの2度目の兵装転換である。歴史にIFは無く、艦爆隊だけで先手を打っていた場合、第2次攻撃隊の発艦を優先した場合などにどうなっていたかは可能性・推論の域を出ない。

「ミッドウェー海戦は山口少将に指揮を取らせるべきであった」と言う意見があるが、その理由として上述の兵装転換に対する山口少将の進言があったからと言うのは誤解がある。
この進言の時点で、米空母から攻撃隊の出撃がほぼ完了しており、例え山口少将の進言が聞き入れられたとしても飛龍以外の三空母の損失は避けられず、良くて相討ちではないかと言う推測もある。
山口少将の評価を高めたのは以下の理由による。

評価① セイロン沖海戦における兵装転換の失敗を教訓としていた。
セイロン沖海戦後に飛龍艦内で兵装転換にかかる作業時間を調査し、戦闘中の兵装転換は多大な時間がかかると山口少将や飛龍の艦長から南雲司令部に対して報告が出されていた。この報告では魚雷から爆弾への換装は1時間半から2時間半かかるとされた。
司令部への報告と並行して二航戦では兵装転換の訓練も行ったが、ミッドウェー海戦の1ヶ月前に海軍で大幅な人事異動があったため、整備兵が入れ替わってしまい、訓練は振り出しに戻ってしまった。

評価② 索敵の改善を訴えていた。
ミッドウェー海戦に出撃する前日(5月26日)、赤城艦橋で作戦計画の打ち合わせが行われた際、水上偵察機中心(機数の内訳は水偵5機、艦攻2機。)の一段索敵計画では不十分であると主張していた。セイロン沖海戦の索敵不備を反省したと思われるが、セイロン沖海戦の最中から「索敵機が足りない」と進言していたとの証言もあり、軍令部の三代一就大佐によればセイロン沖海戦時にもっと前方、広範囲を索敵するように進言しており、具体的な内容は不明であるがミッドウェーの時も索敵不充分についてだいぶ進言したという。
索敵機を増やすべきとの意見は山口以外の将官からも度々上がっていたらしい。しかしミッドウェー海戦で採用された索敵計画は当時の日本海軍における攻撃重視の用兵理論に則したもので、索敵機を増やすため戦闘用の機体を割かねばならなくなるとの反対意見により却下された。
従来のままでも敵空母からの攻撃を受ける可能性の海域をほぼカバーできる計画であったとの意見もあるが、南雲機動部隊司令部はミッドウェー島攻略中に敵艦隊が出現するとほとんど考えていなかった事も索敵の改善案を却下した理由であったと索敵計画を担当した参謀長が証言しており、そのため「いない事を確認しておこう」と言った程度の消極的な索敵だったとされる。結局ミッドウェー海戦では索敵が不十分だったという結果になり、戦訓として多段索敵の導入につながった。

評価③ ミッドウェー攻略作戦に反対していた。
山口少将は上述の訓練不足などを理由に時期尚早と判断していた。
山口少将は宇垣参謀長に訓練に2~3ヵ月が必要とのことで2度ほど直訴したが、作戦延期の要望は受け入れられなかったという。

評価④ ミッドウェー海戦当日「敵空母出現の確率が高い」と南雲中将に進言していた。
7時15分、友永隊からの第2次攻撃要請の無電を受け、南雲中将は第二次攻撃隊の地上攻撃用装備への転換を命じた。この攻撃隊は連合艦隊司令部との戦闘前の申し合わせにより敵機動部隊出現に備えて対艦用装備のまま待機させていた部隊で、南雲中将の兵装転換命令はこの申し合わせを破る指示であったが、これを聞いた山口少将は「本朝来種々の敵機来襲に鑑み敵機動部隊出撃の算あり。考慮せられたし」と兵装転換を留まるよう進言していた。生出寿氏の記述によると、山口少将がそう判断した理由として、敵編隊の中の新型艦載雷撃機(TBF)の存在によるものとされる。
山口少将の進言があったのは南雲中将の最初の兵装転換命令(7時15分)が出されてから利根4号機からの第一報(午前7時40分頃受信)があるまでの間と、利根4号機からの第一報受信の直後との2つの説があるが、いずれにせよ南雲中将が敵空母発見の報告を受けて敵空母の撃沈を優先しようと決断した(8時30分。この直後、山口少将から「現装備のまま攻撃隊発信の要あり」の有名な進言があった)より1時間も前の事である。
この日の朝の南雲中将の「本日敵機動部隊出撃の算なし」の信号(5時20分発令)をなぞった様な山口少将のこの進言は、戦後の研究家より「上官の油断に対するあてつけ」と指摘される事もあるが、この海戦の後、敵空母は出撃して来ないと油断した事について海軍上層部で責任の擦り合いとなったのに対し、山口少将にその油断は無かった。
2度目の兵装転換後の進言が有名なためこの進言は隠れがちだが、この進言の方が山口少将の優秀さを表していると評価する意見もある。

尚、三空母が被弾した後、山口少将が飛龍一隻で反撃した事について、山口少将の独断専行であり余計な被害を増やしたと批判する意見があるが、山口少将は上官の指揮に背いて飛龍による反撃を専行したわけではない。
阿部司令からも敵空母への攻撃命令が出ており、軽巡長良に移った南雲中将も飛龍の攻撃に策応して夜戦を決行する準備を進め、草鹿参謀長も「飛龍一隻だけで攻撃を意気込み、その自信があった」と回想している(3者の行動は全て戦史叢書に記述がある。命令が出た順序は資料により若干違いがある)。山口少将は阿部司令からの命令伝達より先んじて反撃に動いたとされるが、飛龍一隻による反撃は南雲機動部隊司令部の総意である。

南雲司令部の判断

ミッドウェー海戦の敗因に挙げられる兵装転換を南雲司令部が実行した事や、山口少将の進言を却下し艦爆隊を先行させなかった理由として次のものがあるとされる。

兵装転換を実行した理由

①偵察機が索敵線の先端に到達する時刻になっても敵艦隊に関する報告はなかった事から、南雲司令は予想していた通り付近に敵艦隊は存在しないと判断した(戦史叢書の記述のまま)。詳しくは後述。

②友永隊から第二次攻撃の要ありとの報告から基地機能はまだ健在であることや攻略部隊の船団部隊に被害も出ており、大きな被害が出ればMI作戦の目的の一つであるミッドウェー島攻略に重大な支障をきたす恐れがあり、基地制圧を急ぐ必要があった。
尚、当初の予定では輸送船団が敵哨戒圏に入る前に空襲を行うことになっていたが、準備の遅れから空襲が1日遅れることになり、一方でミッドウェー島上陸予定日は変更されなかったため、ミッドウェー島の防備を破壊する時間的余裕は少なくなっていた。

③この日の通信記録によれば、南雲司令部は5時20分に「本日敵機動部隊出撃の算なし。敵情に変化なければ第2次攻撃は第四編制(対艦装備で待機していた攻撃隊を全てミッドウェー島攻撃に向ける事)をもって本日実施予定(吉岡参謀によれば、)」と命令したが、これは米空母が出現する可能性は低く、それを確認できた時点で兵装を対地用に変更してミッドウェー島への第2次攻撃を行うと予令したものである。ミッドウェー島第1次攻撃隊の出撃が完了(発進は4時30分開始)して間もない時点で旗下に通達した所からも、友永隊の戦果に関わらず兵装転換を行う事は南雲司令部にとってある程度既定路線だった事が戦闘詳報の記録から明らかとなっている。作戦計画ではミッドウェー島に対して奇襲後も状況により再度攻撃することがあると記述されており、上記の「兵装転換を実行した理由」との題は「7時15分に兵装転換を実行した理由」とすべきだろうか。

④米軍空母が出現しないと思い込んでいた。南雲司令部の航空参謀だった吉岡少佐はこれが一番の理由だったと述べている。吉岡少佐は、油断は連合艦隊司令部も同罪だとした上で、「我々は本当にアメリカ軍空母が出てくると思ってなかった」と証言した。
日本軍では5月15日にマーシャル諸島南方を西進する米軍機動部隊を発見していたので、米空母は南太平洋方面で活動中と判断しており、進出してくるならミッドウェー島の攻略後と考え、南太平洋方面に存在するならば進出してくるのか疑問視する声もあった。
連合艦隊司令部の三和参謀は5月17日の日誌において米空母が南太平洋にいるならば反撃に間に合わず、進出してこないのではないかと記述しており、5月28日に日誌においては「敵は濠州近海に兵力を集中せる疑あり。かくては大決戦は出来ず。我はこれを慮る。」と懸念していた。
5月25日の図演では山口少将から米艦隊出撃を促進するためにジョンストン島を攻撃することが必要と進言があったが、宇垣参謀長は米艦隊はジョンストン島の援護の下やってくるため生かしておいたほうが得策と説明した
米軍も空母が南太平洋にいると思わせるため陽動を行っており、水上機母艦タンジールが無線発信し、5月28日にはツラギが空襲を受けた。
日本軍は5月29日には南太平洋に送信源があることが分かり、これは米空母部隊と判定され、日本軍はテニアンで訓練中の陸攻隊をラバウルへ復帰させた他、米空母部隊はなお南太平洋に存在すると判断された。
そうした事情によるものか、(日本時間)6月3日、軍令部は米空母の動向について潜水艦のシドニーなどの偵察で発見できなかったことから真珠湾へ帰還した可能性が高いが、南西方面に対する新たな企図の下に行動している可能性も無いとは言えないと判断した。
上述の判断理由にある「偵察機の報告が無い事」も、別に敵がいない根拠にならないのだが(当たり前だが、偵察機が敵機に遭遇して撃墜されていたらやはり報告はない。当時「筑摩」の飛行科に所属していた福岡飛曹長は敵を発見した際に何を行うべきかなどを同じ飛行機に搭乗するペアの3人で申し合わせを行い、仮に任務中、戦闘機の攻撃を受けることがあればセ連送(われ敵戦闘機の攻撃を受く)をするので、墜落しても司令部は索敵線と飛行時間から敵の位置が推定できるなどの旨の記述をしている。また、機動部隊発見の報告が無いことを判断理由の一つとする事は第二次ソロモン海戦直前でのフレッチャー少将がワスプを後退させた時の判断など他の海戦でも見られる。「歴史群像vol59 ソロモンの激闘」によればフレッチャー少将は情報部の日本機動部隊はトラック島周辺にいるという情報と偵察機から日本軍船団以外の発見報告が無いことから、数日は大規模な戦闘が起きないなどの判断をし、ワスプ以下第18任務部隊を麾下の駆逐艦の燃料補給のため後退させた)。米軍機動部隊不在と判断したのは、5時20分の信号の時点で敵空母の存在を示す情報は無く、米空母が付近に待ち受けているとは考えにくいからである。

連合艦隊の黒島主席参謀や佐々木航空参謀らによれば、6月3日の午後、連合艦隊旗艦の大和の敵信班がミッドウェー島付近で敵空母らしい呼び出し符号を傍受していた(この傍受内容は正しかった)が、ミッドウェー基地により近い南雲機動部隊でも同じ通信を傍受しているだろうと考え、南雲司令部に連絡しなかったとある(黒島参謀は回想によって情報を入手した経緯が異なる)。
この時、無線封鎖を破ってでも傍受した通信内容を報せておけば、敵艦隊が出現しないと言う考えを南雲司令部は払拭できたかもしれない。重要な作戦転換の情報などがあった時は連合艦隊から知らせるよう事前に話がついていた事もあって、南雲司令部では敵情に変化が無いものと判断していた。南雲司令部の吉岡参謀は「油断は連合艦隊司令部も同罪だ」と抗議している。宇垣連合艦隊参謀長は出撃前に「各部隊は必要な場合は躊躇することなく電報を打ち、協調を保つことが肝要である」と発言していたのもあったためか、「当司令部としても至らぬところがあり、すまないと思う」と記述した。

南雲機動部隊で米機動部隊についての情報が得られた可能性も存在する。
(日本時間)6月4日の夕方以降に飛龍通信室で5、6秒ほどという短い時間であるが強感度の電波を傍受、暗号室に報告したところ敵空母の符号と判断されたと白木二等兵曹の証言がある。
この報告は原因は不明ながら山口少将だけでなく、通信参謀にも知らされていなかったとされており、暗号室内に留まったとされる。
白木二等兵曹は戦後、飛龍戦友会が開かれた際にこの件についてたずねたが、当時の通信長は戦死しており、他の上官の記憶にも無く詳細は不明だった。証言を裏付ける資料は現在の所、発見されていない。
赤城や利根などの他の艦では受信できなかったとされている。仮に知らされていれば南雲司令部にも報告され索敵計画なども見直されたとの意見がある。

第六艦隊通信参謀であった高橋勝一少佐によれば「ミッドウェーで戦闘が始まる2、3日前に敵空母らしい電波をとらえ、方位測定の結果、ミッドウェーの北北西170海里とわかった。このことは東京通信隊から全艦隊に放送された。」「(日本時間)6月4日、米海軍はこの緊急電報に気付き、その後まったく電波を出さなくなった。」と証言した(ただし実際の米空母の位置は北北東だった)。一方で戦史叢書では東京からは敵の通信情報が連続放送されていたが、その内容は敵情に大きな変化が認められないという主旨のものだったとしており、源田参謀も同様の回想を残している。また戦史叢書では6月3日に中央は敵水上部隊がミッドウェー付近にあるという情報を出したとの話について、宇垣纏連合艦隊参謀長が記した戦藻録の記述や当時の資料の調査結果と異なる理由から、「何かの間違いであるといえる」としている。
連合艦隊や南雲機動部隊、第二艦隊などの受信記録などにはこれら第六艦隊の情報が見つかっていないこと、「記憶にない」と言う三戸寿第六艦隊参謀長の証言もあることなどから高橋参謀の証言には疑問が残る。

一方で、言葉は悪いが連合艦隊司令部は何もしなかったのであって、敵艦隊は出てこないと太鼓判を押したわけではないので、偵察機の報告結果を待たずに「敵艦隊はいない」と兵装転換を急行した南雲司令部の指揮には批判がある(しかし、連合艦隊司令部は米艦隊はミッドウェー島の攻撃後に進出するという前提で図演を行っており、「敵艦隊が出てくれば、もうけものである」と米艦隊が出現する可能性は低いともしている)。「敵機動部隊出撃の算あり」と進言した山口少将の他にも、加賀の艦攻隊分隊長や赤城の通信士らは米空母の出現は有り得ると考えていた。他にも連合艦隊は作戦の最優先事項の一つにミッドウェー航空兵力の撃破を命じていたことなども関係しているとされる。

尚、当時の日本海軍の偵察機の索敵線は同じ航路を引き返すのではなく、逆三角形を描くようにして帰路につくので、往路と帰路は合致しない(つまり帰路も含めて索敵範囲である。戦史叢書によれば、当初の予定全海域の索敵が終わるのは帰路の半分付近に達した時とされる)。母艦側から索敵線の末端に到達したであろう時刻を予想して、偵察結果を推測したと言う手段について、帰路の海域を索敵する時間を計算に入れておらず、方法に不備があった点が研究家から指摘されている。実際、利根4号機からの重要な報告を少し後に受けることになった。利根4号機が発見した理由は発艦の遅れと予定とは異なる飛行をしていたことによるものとされており、発艦や索敵線が予定通りだった場合、米艦隊を発見した位置付近を通過するのは1時間ほど遅くなったと見られている。予定と異なる飛行をしていた理由についてはよく分かっていない。第八戦隊の土井参謀は推測ではあるが、次のような所見や仮定をしている。出発の遅れた利根4号機は予定通りに日本時間午前4時に索敵圏の先端に達するために150ノットの速力で飛行したが、計器には誤差が生じており実際には130ノット程しか出ていなかった。しかし、利根4号機は150ノットで飛行したものと思っているので、ずれに気付いていないまま日本時間午前4時、予定通り測定に入り、米空母の報告位置がずれたのもそれが理由ではないかという旨である。土井参謀によると出撃の前日に着水ミスで脚を破損した機が出たので、呉鎮守府広工廠から交換機を一機取り寄せたが、その機は早期出港のためコンパスの自差測定などが出来なかったという。
筑摩1号機が雲上飛行により敵艦隊を発見できなかったとする説があるが、航跡は重なるが筑摩1号機は既に通過して離れた状態であり、実際には視認範囲外であったのではないかとする説も存在する。

艦爆隊を先行させなかった理由

①偵察機が報告してきた敵艦隊と機動部隊の距離は約210海里。司令部ではこの距離では敵は護衛機をつけるために接近する必要がある、ミッドウェー基地航空隊もこれまでの空襲から殆どが攻撃してきたと見られ次の空襲までは時間の余裕があると判断した。仮に護衛機無しで攻撃してきた場合は直掩機で防げるとされ、護衛機無しで攻撃したミッドウェー基地航空隊が戦果を殆どあげることができていなかったこともこの判断を後押しした。

②防空戦闘で攻撃隊に随伴させる護衛機がいなかった。珊瑚海海戦では護衛無しで攻撃隊を送ったが戦果は上げれず、大損害を出していた。機動部隊に襲来した護衛無しの米雷撃隊のようになる可能性が高く、護衛機無しで攻撃を行った米軍機の多くが撃墜されたのを目撃していたことも影響した。

③発進を優先させ第一次攻撃隊を収容しなかった場合、燃料切れにより多くの機体を不時着させる恐れがあった。
これについて「不時着水してから回収すれば人的損失は避けられる」という反論があるのだが、それはあくまでも安全な海域で、少数の機体が艦の付近に不時着できた場合である。
100機の大編隊が互いに衝突を避けて散開して着水したものを、敵の空襲が度重なっている状況下で回収して回るのは不可能である。

④戦力の逐次投入よりも十分な準備を行った上での全力攻撃のほうが成功率が高いと判断した。

尚、時間の余裕については、主に源田参謀が①の理由から余裕はあるとこの時は判断したと証言したが、吉岡参謀も同じく時間的余裕があると判断した事と攻撃隊の発進を遅らせる事になっても大兵力が整うのを待つ方が戦果も大きく損害も少ないので有利であるとの判断だったと証言しており、当事者間でも認識に共通している部分と違う部分がある。

攻撃隊の収容を後回しにし、意見具申の通り発進を優先させた場合の結果については不明であるが、この時点では敵艦隊の位置が誤っていることにまだ気づいていないので会敵できない可能性もある。
元日本海軍の千早正隆中佐は、二航戦の山口少将らが兵装転換問題を研究する必要を認めて実験を行い、兵装の再転換には最低でも2時間は要すると言う報告書を纏めていたにも関わらず、これを受けた南雲司令部は問題の解決に積極性を欠き、次の作戦に反映させようとしなかった事を批判した。

米軍司令部の決断

南雲司令部の判断と同様、米軍の機動部隊も当初は全力攻撃を企図していた。機動部隊の指揮はこれが初めてだったスプルーアンス提督も、戦闘の基本原則として戦力の逐次投入が非常に拙い手段であり、各個撃破による自軍の大損害に繋がる事は充分理解していた。この時点での発艦は攻撃隊の航法などの負担を増やすことになり、雷撃機は航続力の関係から母艦への帰艦が不可能になる恐れもあった。実際に戦闘機隊が攻撃機隊とはぐれたり、会敵できなかった攻撃隊が出た。
しかし日本軍の偵察機が艦隊上空に出現し一刻の猶予も無くなった事、日本の機動部隊がミッドウェー島攻略に集中しているタイミングを逃せば勝利はないとの判断から、味方パイロットの多大な犠牲を覚悟の上で、攻撃隊全機の発艦が終わるまで攻撃開始を待つ事をせず、発艦の済んだ部隊は直ちに攻撃に向かうよう命令した。
これはスプルーアンス提督の決断ではなく、彼の副官のブラウニング大佐が強く説得したとの説もある(後にこの将官がこの時の功績から昇進を打診された際「参謀という任務は非情な職務である。その職務に忠実になるほど人間性を失ってゆく。自分にはこれ以上そのことに耐えられない」と逆に予備役への編入を願い出ている)。
米軍の作戦指揮の柔軟さとこの一戦にかけた覚悟の強さは高く評価されている。

ただこの拙速が功を奏したかというのは疑問がある。
よく言われるのが先行したTBDが直掩機並びに見張りの目を低空に引いたため、上空のSBDに気づくことができず奇襲を成立させという考察であるが、一斉攻撃が成功した場合においても敵の防空能力の飽和は期待できるため、雷撃隊壊滅と釣り合うほどのメリットが得られたかは疑問である。
その後の米海軍が一斉攻撃の方針を改めておらず、本海戦のような波状攻撃の再現を試みなかったことも考慮するべきだろう。

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提督の決断
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