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零式艦上戦闘機を描いたイラストや、当該機を擬人化したイラストなどに付けられるタグ。

大東亜戦争序盤まで主力を務めた二一型。

こちらは大戦後期に登場した五二型丙。

概要

零式艦上戦闘機(以下、零戦)は、日本海軍が1940年から1945年にかけて運用していた戦闘機。開発は三菱重工業。

第二次世界大戦におけるアジア・太平洋戦線(太平洋戦争)にて、開戦から終戦まで運用されたため、同戦争における日本海軍の軍用機を象徴する戦闘機でもある。

支那事変(日中戦争)の半ばから大東亜戦争の終戦まで、主力戦闘機として前線で運用された。

中島飛行機でもライセンス生産され、総生産数の半数以上は中島製。 アメリカ陸軍のムスタングP-51、ドイツ空軍のメッサーシュミットBf109、イギリス空軍のスピットファイアなどとともに、第二次世界大戦期の代表的な戦闘機として知られている。

歴史

開発と中国戦線

1937年(昭和12年)に海軍の要望で三菱内燃焼製造に戦闘機開発が依頼され、堀越二郎を中心に設計開発がされて、1939年(昭和14年)の試験飛行を経て翌年に正式採用された。堀越にとって零戦は好きではなく、海軍の「ないものねだり」の要求性能による開発だったが、彼は祖国のためにとこの無理難題を引き受けた。

最初の実戦投入は、第二次世界大戦より前の日中戦争。運用は第二次世界大戦の終戦に伴って終了した。生産数は約10000機。

20mm機関砲2門の重武装でありながら、極限まで軽量化されたことによるスピードと、翼面荷重の小ささからくる優れた格闘性能、極めつけは最長2200kmという当時としては驚異の航続距離を誇った。

こうした性能は日中戦争で遺憾なく発揮された。零戦は長大な航続距離により長距離の爆撃任務にも問題なく随伴した。

国民党軍の主力はソ連から供与された旧式のI-15I-16で訓練も不十分だったため、熟練の搭乗員が駆使する優速の零戦に対してはなすすべがなく、一撃離脱戦法で一方的に撃墜されるばかりであった。

一方で零戦のイメージとして定着している低空格闘戦術については、この時期にはほとんど見られないものである。名だたるエースらもその撃墜戦果の大部分を一撃離脱で稼いでいる。

空戦の定石とは高位から奇襲して一撃で仕留めることであり、格闘戦は定石に失敗した際の次善の策に過ぎない。

運も含めた様々な要素が複雑に関与する格闘戦では必勝の核心を得ることは困難であり、命がけの実戦で好き好んで選択するものではないのである。

太平洋での緒戦

中国大陸で無双し、真珠湾攻撃でアメリカ人にその威力を見せつけた零戦であったが、そこから半年後の珊瑚海海戦では、米艦載機の攻撃を防ぎきれず、空母祥鳳を喪失し、更に翔鶴を中破させてしまう。

更に1ヶ月後のミッドウェー海戦では、低空で飛来する雷撃機に気を取られた零戦隊は、高空より襲来した急降下爆撃機による母艦への爆撃を許し、赤城加賀蒼龍飛龍の4隻を喪失、帝国海軍は早くも半壊する事となる。

艦隊の上空直掩任務を十分にはこなせなかった零戦であったが、その原因は零戦という戦闘機そのものの問題と言うよりは、日本海軍の艦隊防空戦術の問題と言えるだろう。全金属単葉機が主流となった時代に、艦隊の真上でぐるぐる回りながら目視頼みで敵機を迎撃するというのは根本的に無理があった。敵機が目視可能な範囲に到達してからでは、どうあがいても迎撃は間に合わないのである。

当初は米軍も同じであり、艦隊直上に日本機が到達すると迎撃機の奮闘に拘わらずほぼ間違いなく投弾を許していた。しかしながら米海軍はレーダー警戒と無線管制による遠距離迎撃体制を構築しつつあり、日本側による攻撃機会は減る一方となる。

迎撃戦闘においては上記のような問題があったが、純粋に戦闘機vs戦闘機での戦闘ではどうかと考えると、これも評判ほど優越していたかは怪しい。まず対零戦戦術(というわけではないが)として有名な「サッチ・ウィーブ」の導入が1942年6月のミッドウェー海戦、そして一撃離脱戦法が周知されたのが一番遅くとも1942年の12月である。1945年8月まで続く太平洋戦争の年表としては、かなり序盤の方で既に攻略法が確立されてしまっていた。

いわゆる「ゼロ戦と雷雲からは逃げろ」というお触れも、実際には新型機が出るたびに発布された「研究が進むまではあまり戦うな」という定例の警告に過ぎない。

加速力や上昇力、旋回力など、純粋に飛行機としてのカタログスペックを比べれば同時期の米軍機より優勢であることは間違いない。しかしながら、米軍は信頼性の高い無線設備を用いた編隊空戦や、艦隊によるレーダー管制により、搭乗員の目と手信号だけを頼りに戦わなければならない零戦に対して優位性を確保しており、こうしたアビオニクスの劣後を機体性能と練度の優位だけで補うのは困難であった。

アクタン・ゼロ

なお42年7月に鹵獲され、9月下旬から分析にかけられたいわゆる「アクタン・ゼロ」に関しては、巷で言われているほど大局に影響は与えていない。4空母が沈み太平洋の趨勢が決したのはその3ヶ月以上前のことである。

分析の結果判明した飛行特性も、前線のパイロットらの印象とさほど変わる部分はなく、せいぜいが答え合わせという程度だった。

むしろアクタン・ゼロは米軍に対して「零戦はマイナスGではエンジンが止まってしまう」という間違った情報をもたらしている。

実際の零戦(というか栄エンジン)は他国の機体と比較してもずば抜けてマイナスGに強い代物であり、エンジンが止まってしまったのは損傷か整備不良であろうと思われる。

陳腐化と終盤の運用

42年が終わる頃には既に神秘のベールがすっかり剥ぎ取られていた零戦であるが、実のところ海軍としても長く使うつもりはなく、零戦運用開始直後の40年末には十六試艦戦の開発が三菱に内示されていた。開発がスムーズにいけば、43年中には第一線の機体は概ね入れ替わっていたことだろう。

しかしながら三菱が零戦の調整や雷電の開発に忙殺されていたため十六試艦戦は早々に取り下げられた。42年4月に立ち上げられた十七試艦戦(後の烈風)の開発も散々に迷走し、零戦は不本意ながらも改修して使われ続けることになる。

しかしながら零戦は拡張性を全く考慮しておらず、設計もギリギリまで切り詰められていた。そのため性能を大きく向上させるような改修は難しく、エンジン出力を少しずつ増してみたり、翼端を落として抵抗を減らしてみたりと、その場しのぎの改修に留まらざるを得なかった。

一方この期間の米軍の進化は目覚ましい。42年の度重なる大海戦の経験を踏まえ、航空戦力の運用について研究が進み、43年には情報処理を一括して迅速な迎撃指揮を可能とする戦闘情報中枢(Combat Information Center:CIC)が完成した。

更に隔月正規空母ことエセックス級や週刊護衛空母カサブランカ級がゾロゾロと就役し、更に速度で零戦を凌駕し、零戦と互角かそれ以上の格闘性能をもつF6Fがロールアウト、米国面の真髄に帝国海軍は量でも質でも圧倒的に劣後するようになる。

幸か不幸か、零戦はこのような戦局に陥っても、未だに航続距離だけは優位性を保っていた。後継開発が瞑想し長く作り続けているおかげでそれなりに数もあった。

そこで始まったのが零戦の長駆運用である。零戦の航続距離であれば敵の攻撃圏外から出撃することが可能であったため、運用可能な基地が減り、また艦隊を近づけることが難しくなる中、数少ない攻撃手段として零戦に白羽の矢が立った。

当然艦爆などは零戦についていけないので、搭載量を強化した「爆戦」への改修が行われ、零戦を零戦が護衛してはるか彼方の戦地へ向かうという運用が行われるようになった。

結局のところこのような工夫が実を結ぶこともなく、目立った戦果もないままパイロットを浪費する結果となる。人材が払底しつつあった帝国海軍はレイテ沖海戦でついに組織的な自爆攻撃…すなわち特攻隊の運用に着手した。

終戦後の零戦とその系譜

日本の降伏による終戦に伴い、残存していた零戦のほとんどは破棄されたが、破壊を免れた機体やレプリカが、日本やアメリカの各地の航空博物館や基地などで見る事ができる。一部には現在も飛行可能なレプリカもある。

零戦の設計開発を担当していた技術者達は、終戦に伴い航空機や鉄道の業界などに散らばって行き、日本初の国産旅客機の設計に携わったり、新幹線の部品の開発に携わったりなどして、戦後復興を支えたとされる。

名称

ゼロ戦」「零戦」の通称が有名。連合軍からの制式コードネームは「Zeke(ジーク)」。ただしアメリカでは当時の将兵から現在まで「Zero」の方が通りがいいという。

英語では「Mitsubishi Navy Type 0 Carrier Fighter」、「Mitsubishi A6M」などと表記される。

「艦上戦闘機」という名称の通り、艦上(航空母艦)から発進できる戦闘機。

正式採用された年号が皇紀2600年で、下二桁が「00」であったことから「零式」という名称が付けられた(なお、同年制式採用の陸軍機は「一〇〇式」)。

「零戦」は、「れいせん」もしくは「ぜろせん」と読まれる。

「ぜろせん」という読み方について、”当時の日本は英語廃止に向かっていたので「ぜろせん」という呼称は考えにくい”とする意見もあるものの、当時の海軍兵学校ではむしろ英語教育に力を入れていた上、当時の新聞にも「ゼロセン」という読み仮名が振られており、わりと自然に「ぜろせん」という呼称が定着した模様。

ちなみに、エースパイロットとして有名な坂井三郎氏は、「当時の海軍パイロット達が、普通に"ゼロ戦"と呼んでいた」と証言している。

一方第343海軍航空隊に所属していた笠井智一氏は戦後のインタビューで「れいせん」と呼んでおり、当時のパイロットの間では両方の呼び名が普通に使われていた事が解る。

英語での呼称「Zero」は零戦の「零式(Type Zero)」から来ている。「Zeke」という呼称も、「Zero」の綴りに掛けたものであるという説がある。

なお、主翼の構造が異なる三二型(後述)のみは当初別機種と考えられたことから、連合軍呼称は「Hamp(ハンプ)」になっている。

「A6M」という英字記号は日本海軍がつけたものであり、「機種を表す英字(艦上戦闘機を表すA)」+「機種ごとの計画番号(6番目の艦上戦闘機計画であるため6)」+「設計会社に振られた英字(三菱を表すM)」から成り立っている。この後ろに、何番目の改修型かを示す数字と、小改造された型であればさらに英小文字を付けて、各型を区分けしていた。

主要各型

零戦は長らく運用された為、何度も改良が行われた。そのため、多くのモデファイが存在する。また、1942年に型式命名規則が変更されたため、この年度以前に開発された型式には旧称が存在する。

一一型(A6M2a)

極初期の生産型。旧称:零式一号艦上戦闘機一型。エンジンは中島『栄』一二型940hp。主翼端が空母のエレベーターに干渉する危険があり、少数の生産機が中国戦線で陸上機として運用されたに留まる。

元々は空母艦載機としてはまだ不十分だった試作機を新型機を求める前線部隊に答えるために急いで制式採用したもので、量産型というよりは先行量産型というほうがしっくり来る。

二一型(A6M2b)

初期の量産型。旧称:零式一号艦上戦闘機二型。翼端に折りたたみ機構をつけ、空母での運用の適正を向上させた。また、着艦フックや無線帰投方位測定器といった艦載機用の艤装が追加されたのもこの型からである。零戦の中でもっとも評価の高い機体だが、実際には初期の神がかった戦績によるもので、艤装などの洗練度や急降下速度制限など問題も多かった。

三二型(A6M3)

エンジンを『栄』二一型1240hpに強化し、同時に翼端を切り詰め速度向上と折りたたみ機構の廃止などを狙った型。加速性能や降下制限速度、高速域での運動性低下などが改善され、エンジンの二速過給器装備で高高度における性能も二一型より上昇した。また、非常に低かったエルロンロールにおけるロールレート(横転率)はこの改変で向上。米軍機のお株を奪うものであったとも言われる。20mm機銃の携行弾数も100発に増加した。しかし、航続距離は低下し、ラバウル基地の位置の関係もあり配備と同時期に発生したガダルカナル方面の作戦に参加できないという所謂『二号零戦問題』が発生した。

なお、この時期堀越二郎技師が過労で入院していた為、一式陸攻『飛龍』など多発機を主に手がけていた本庄李郎技師が開発を担当した。生産性重視の角ばった翼端は本庄が好んで使ったものである。また、この為開戦前に予定されていた『金星』への換装は見送られた。

生産数も少なく、早期に二二型や五二型が出ているためあまりいい評価をされない機体だがそれでも諸外国の機体より長い航続距離を持ち二一型の欠点の多くを改善できた機体であり、米軍側も「南太平洋において最も重要な戦闘機」と評価している。

二二型(A6M3)

三二型の航続距離低下を改善するために、主翼を二一型をベースのものに変更した機体。よく「二一型に回帰」とされているが、実際には二一型より短縮された胴体、エンジンは三二型と同一であり、機首周りの設計は二一型とはかなり異なる。航続距離は改善したが主翼を二一型のものにしたため急降下制限速度は二一型と同等となった。

後に登場する派生型「二二型甲(A6M3a)」では機銃を弾道性能のよくない九九式一号銃(エリコンFF20)から長銃身でMG151/20と肩を並べる傑作とされる九九式二号銃(FFL20)に変更し、その火力は二一型以来のパイロットに絶賛された。

五二型(A6M5)

速度の向上および防弾装備の実用化の為、三二型と同じ翼幅の翼を丸く整える、排気管を集合排気管から排気を後方に放ちロケット効果を狙う推力式単排気管への変更等のマイナーチェンジを図った型。最多生産機。本機登場時、すでにベテランパイロットの喪失により零戦の脅威度は低下していたが、それでも低高度での格闘戦は連合軍戦闘機にとって危険なものであったとされる。また、自動消火装置や操縦員頭部保護用の防弾ガラスといった防弾装備が、零戦で初めて装備された型でもある。

機銃については、20mm機銃には二二型甲と同じく長銃身の九九式二号銃を用いている。

また後に、九九式二号銃を改良型の九九式二号四型銃に換装して装弾数を増やし、主翼外板の厚みを増やして降下制限速度を連合軍の戦闘機と同等とした「零戦五二型甲(A6M5a)」機首の7.7mm機銃のうち右舷の片方を三式13.2mmに変更しコックピット周辺の防弾装備も導入した「零戦五二型乙(A6M5b)」、残った左舷の7.7mm機銃も撤去したうえで同じ三式13.2mmを主翼内にも2丁追加し計3丁とした「零戦五二型丙(A6M5c)」が登場している。

戦後の坂井三郎氏の書籍で「二一型以降は改悪」と評されてしまったり、五二型丙は重量増加により最大の持ち味である旋回性能が多少低下したことから悪い評価を受けることもある機体だが、坂井氏は中国戦線で経験を十二分に積み、戦況の悪化、激化に伴い多くの歴戦のパイロットが戦死した戦争中期は負傷で後方にいたということも考慮する必要がある。また、五二型丙は五二型甲以来の降下制限速度に加えて火力も強化されていたため一撃離脱戦法に適した機体であった。

五三型(A6M6)

五二型丙をベースにエンジンを水メタノール噴射装置付きの栄三一型に換装し、自動防漏式防弾燃料タンクを装備した型。雷電紫電の生産遅延を埋める性能向上型として本命視されていたが、量産に移る前に終戦を迎えている。

六二型/六三型(A6M7)

五二型丙の胴体下に250kg爆弾を特別な改造無しに装備ができるようにした戦闘爆撃機型。特攻機として用いられた機体には500kg爆弾を搭載したものもある。

大型爆弾を搭載しての急降下に耐えられるよう、機体構造の強化も図られている。実際に量産が行われた最後のモデル。

六二型と六三型の差異は、搭載するエンジン。六三型は水メタノール噴射装置を備えた栄三一型、六二型は栄三一型から水メタノール噴射装置を省略した栄三一型甲/乙が搭載されている。

五四型/六四型(A6M8)

六二型のエンジンを栄より径と馬力の大きい三菱『金星』六二型1500hpに換装した型。エンジンの大型化に伴い機首の設計も変更され、同じエンジンの彗星三三型のプロペラが流用された他、機首の機銃も完全に撤去された。燃料噴射のインジェクター化など三菱製エンジンの完成度の高さ、一回り大きいシリンダーブロックから来る余裕などから、計測上数字上以上に余裕があり、零戦で初めて本格的に防弾装備を取り入れた。戦後、長らく「間に合わなかった」とされていたが、実際には完成することこそなかったものの終戦間際に生産ラインが稼動していた事が近年になって判明した。

五四型は試作型、六四型は量産型に、それぞれ与えられた形式番号である。

二式水上戦闘機(A6M2-N)

一一型をベースに、フロートの取り付けなどの改修を行った水上戦闘機。

詳細は個別記事を参照されたし。

外観上の機体識別箇所は以下の通り。

・二一型以前は機首の下部にある昇流式気化器空気取入口位置

・三二型は角張った翼端

・二二型以降は発動機変更に伴って気化器が降流式に変化したことによる、機首上部に位置変更された気化器空気取入口と、機首の銃弾の通り道が溝から穴に変更されたカウリング

・二二型甲以降は主翼から飛び出ている長銃身化した20mm機銃

・五二型以降はエンジン後方から胴体側面に伸びる推力式単排気管と、それに伴い変更されたカウルフラップの形状

…あたりが見分ける目安となる。

なお、零戦は上記に書かれているように

一一型→二一型→三二型→五二型→六二型と生産されている他五三型、六三型、五四型、六四型などは戦争後期に混じって登場・試作されていたりと数字の並びが一致しない。

これは海軍では十の位が機体の変更数。一の位がエンジンの変更数を表しているため。

また、六○型は五○型とは用途が異なる機体の為順番どうりとはならない。

また、甲や乙というのは武装のみを変更した場合につけられる。

問題点

基本設計

用途:掩護戦闘機として敵軽戦闘機より優秀な空戦性能を備え、要撃戦闘機として敵の攻撃機を捕捉撃滅しうるもの

  • 最大速力:高度4000mで270ノット以上
  • 上昇力:高度3000mまで3分30秒以内
  • 航続力:正規状態・公称馬力で1.2〜1.5時間(高度3000m)、過荷重状態落下増槽をつけて1.5時間〜2時間、巡航速力で6時間
  • 離陸滑走距離:風速12m/sで70m以下
  • 滑走降下率3.5〜4m/s
  • 空戦性能:九六式二号艦戦一型に劣らぬこと
  • 銃装:20mm機銃二挺、7.7mm機銃二挺、九八式射爆照準器
  • 爆装:60kg 爆弾1もしくは30kg爆弾2
  • 無線機:九六式一号無線電話機、ク式三号無線帰投装置
  • その他の装備:酸素吸入装置、消火装置など

引き起こし強度:荷重倍数7、安全率1.8

……という海軍の十二試艦戦の要求に対して堀越技師は、

1人の選手に5000m競走で世界記録を大幅に破り、フェンシングで世界最強、他の競技でも専門選手が出した世界記録に近い数値を要求するようなもの」という感想を抱いたという。

流石に三菱も要求の引き下げを要求したのだが、どの要素を重視するかで会議は喧々囂々、結局はそのままの要求が押し通ってしまった。

当時使えた日本の非力なエンジンでこの要求に応えるには機体の小型軽量化以外にはあり得ない。

そこで堀越技師は、機体強度にあまり影響が無いと思われる部位の安全係数を1.8倍から1.6倍に落とすことにした。従来言われる「行き過ぎた軽量化で機体強度が不足した」のではなく「機体強度が落ちるのを始めから織り込み済みで徹底的に軽量化した」のである。

また、速度ごとによる操縦性の違いを吸収するために採用実績のあった剛性低下索を採用。

これは「動翼を動かすワイヤー類の強度をあえて下げ、舵の重さをワイヤーの伸びで吸収する」という方法である。昇降舵に使った、とされる。

これらの設計により零戦は「低中速での優れた操縦性」「艦戦として驚異的な航続距離」「最高水平速度に対して低過ぎる急降下制限速度」「最高速付近でほとんど舵が効かなくなる(最高速に達する前にワイヤーが伸び切ってしまうため。元々強度不足なので切れる恐れすらある)」という特性を持った機体となった。

言わば「海軍の要求にはない部分を可能な限り削り取ることで要求性能を満たした」、低中速では初心者でも乗りやすいが最高速付近では操縦技術を要求されるマニアックな一面を持った航空機となったのである。

防弾性について

同時期の同クラス機がいずれも防弾性を重視し始めていたのに対し、零戦は極端な軽量化設計のため防弾性はほとんどなかった。

ただし、これはよく言われがちな「日本軍の人命軽視」によるものではなく、「いずれ世界的にも(ゼロ戦が採用した)20ミリ機銃より大破壊力の航空機銃が主流になる」と想定したためである。

問題なのはこの考え方自体が本末転倒していることだろう。こちらが防弾装備をしないならば、敵の方も強力な銃を装備しなくてよくなってしまうのだから。

実際のところアメリカはイスパノスイザHS.404(20mm)の量産化に半ば失敗、不具合を解決できずに苦心していたわけであるが、主敵である帝国海軍の設計思想が(重爆撃機においてすら)上述のとおりであるため、既存のブローニングM2(12.7mm)でも問題なく戦争を続けることが出来てしまった。

戦中の米戦闘機はF4FやF6Fが試験程度に20mmを積んでみた程度で、基本的にブローニングM2一筋である。20mmを搭載した戦闘機は、終戦数週間前にF8Fが生産開始されるまでほとんど量産されなかった。

対して陸軍の一式戦闘機「隼」は、積層ゴム等による防弾タンクやコックピットの防弾鋼板を装備していた。特に13mm防弾鋼鈑は、12.7mm機銃弾の貫通を防ぐ場合もあった(※)。

零戦も『金星』への換装が早期に行われていれば、(詳細は後述)その出力余裕から早期に防弾装備を施すことが可能だったかもしれないが、それが実現しなかったために後手後手に回る羽目になってしまった。

なお、ジェット戦闘機時代に入って機銃より遥かに大威力のAAM(空対空ミサイル)戦闘が主体になったわけだが、自動防漏タンクと消火設備は標準装備である。

※…実際には米軍のテストで隼や鍾馗の13mm防弾板はM2相手には無意味と判定されている……が、これは実際の空戦での着弾状況を無視して防弾板面にM2を垂直に直撃させた場合の話

最悪な居住性

零戦操縦士が異口同音で漏らす愛機への不満の中には、狭い操縦席と硬い座席についてのものも多かった。安全ベルトで体が固定されているので背伸びもできず、狭くて硬い座席に座りっぱなしだったので尻が痛くなり、空戦より辛かったという。そんな座席に9時間も座っていたというものもいた。

排尿に四苦八苦

9時間以上も機内にいるので当然トイレにも行きたくなる。防水加工した和紙でできた小便袋は持っていたが狭い操縦席の中で安全ベルトを外し、落下傘バンド、ライフジャケット、飛行服、軍服、下着の中から引っ張り出すのが大変である。やっと用を足したところで、今度は風防を開けて外に捨てるのだが、タイミングを間違えるとモロにかぶる。そういうわけで、そのままにしとこうという猛者も少なくなかった。稀に、大の方をしたくなる操縦士もいる。大の場合は小便袋というわけにはいかない。垂れ流すしかない。こうなったら帰投後、整備士に頭を下げて一緒に操縦席の掃除をすることになる。飛行服や軍服の洗濯は、無論自分でする。

米軍パイロットも排泄事情は同じであったが、下士官搭乗員も多くいた日本軍に対し、米軍搭乗員は全員士官。飛行服や操縦席の掃除は低階級の整備員に任せる場合が多かったという。

生産隘路

液冷の『彗星』『飛燕』に代表されるように、大戦中盤以降の日本軍新型機の生産性の悪さがよく挙げられるが、実は日本軍最多生産を誇る零戦でも生産隘路があった事はあまり知られていない。

まず第一に、零戦は決して生産しやすい構造ではなかった。もともと日本海軍は対米戦を短期決戦で考えていたため、2~3回の大決戦に参加する数+アルファが生産できれば十分という考えがあったからである。

堀越二郎技師はそれに従った結果、同社の本庄季郎技師、また中島の小山悌技師や川崎土井武夫技師の設計に比べて生産性を度外視する事が多かった。

第二に、先述したとおり1942年頃には零戦のエンジンを『金星』に変更する方針があり、この為1942年の生産計画では『栄』の製造数は絞られる事になっていた。しかし堀越技師が倒れたため実現できず、零戦はエンジンの確保が一時期充分にできなくなってしまっていた。

拡張性

防弾と並んで批判されるのがこの点である。零戦の拡張性は高いとは言い難かった。

もちろん拡張性はタダで得られるものではなく、代償は発生する。スピットファイアは導入当初エンジンの馬力重量比で劣っていた上に燃費が悪く、Bf109のエンジンは構造が複雑で稼働率の維持が難しかった。そしてどちらも欧州戦域での運用を前提としており航続距離は短い。

零戦の当時としては類まれな飛行性能は、拡張性を切り捨てた結果として実現したものである。拡張性を意識して無難な設計を取れば、何らかの性能を妥協する必要が生じたのは間違いない。

実際のところ開発会議の段階では多少の妥協もやむなしとする意見もあったわけだが、どこに妥協するかについてまるで合意が形成できなかったため、堀越技師は拡張性に目をつむるほかなかったのである。

この結果、零戦は三二型以降ほとんどエンジンをパワーアップさせる事ができなかった。

零戦は小型の栄エンジンに機体設計を合わせた結果、栄エンジンにあまりにもマッチしすぎた設計になってしまい、より強力で、より大型のエンジンへの換装を難しくしてしまった

かといって新型機開発に忙殺される状況では、スピットファイアやBf109のように途中の型から大がかりな設計変更が行うことも出来なかった。

零戦とほぼ同時期に欧米に登場し始めた2000馬力級エンジンは、重量・容積共に上がっており(『誉』エンジンが不調に悩まされたのは、2000馬力級エンジンを無理矢理ダウンサイジングしようとした結果という面が強い)、大がかりな設計変更なしで搭載する事は不可能だった。

日本でもこのクラスのエンジンには一応三菱『火星』があった(1500馬力級としてスタートしたが、1942年には早くも1800馬力級のラインアップに一新されている)ものの、やはり相応に大きく、これを搭載した雷電が太っちょなデザインになったのはご存知の通り。

ドイツでさえやはりDB601にぴったり合わせて設計されていたBf109への搭載は断念されている他、燃料事情が日本より酷かったためレブアップによる出力向上や過給機周りに関して日本以上に苦戦している(DB601の国産化改良型であるアツタ三二型がかるーく1300馬力出しちゃってるのは日本海軍の燃料が原型より良い92オクタンであったことも一因)。

かねてからより大馬力を期待できる『金星』エンジンへの換装は何度か検討されていたがもろもろの事情で実現せず、戦争終盤になって栄エンジンの生産中止が決定されたことでやっと五四型への搭載が実現したが、時既に遅く試作のみに終わってしまった。

五三型や六二型/六三型へ搭載された栄三一型でさえ、1944年秋頃に多発した零戦のプロペラ飛散事故の対策に審査担当者が追われてしまったため審査ができず、審査が終わったのは終戦間際だった影響で大量配備ができなかった。

操縦性と依存性

「基本設計」の項目でも触れているが、副次的な要因として操縦性も一枚噛んでいる。

何分、高速機動化・軽量化・長時間飛行に特化したために、そのピーキーで玄人向けな性能を使いこなせるだけの訓練と技量の確保が課題でもあった。

同先項の通り、「急降下中に一定の速度を超えた途端に操縦桿が重くなり制御が難しくなる」特性があったようで、この特性に慣れて自在に操縦するため、厳しい特訓を重ねて当時最強の航空隊の組成を達成している。

一方で戦中の体験者からは「操縦はしやすかった」という感想も多く、後述の新型機に比べて癖が少なくとっつきやすい印象だったという。

つまり「操縦性そのもの良好だった」のだが、それがかえって帝国海軍のゼロ戦依存を長引かせる遠因となったとも考えられる。

新型機体の多くは(零戦と同じ感覚じゃないから)「操縦しにくい」「安定しない」等々で現場の評価は上がらず、物資不足による開発力の低迷も手伝って零戦依存を拗らせることにつながった。

逆にゼロ戦からの系譜を間接的に継いだ「紫電」「紫電改」は、比較的に高評価を得いている。

戦後の評価

日本のみならず、相対したアメリカでも零戦の名は知られている。

特に日本では、悲惨な太平洋戦線を物語る兵器のひとつとして、敬意・追悼の意を持って接されている。

知名度の高さもあり、日本の航空機を代表する機体のひとつとして高い人気を集めている。飛行機のプラモデルでは定番の商品のひとつとなっているほか、F-1F-2、果ては実験機のATD-Xや旅客機であるMRJに至るまで、三菱が開発に関与した航空機が語られる際にはしばしば関連付けて語られるほど。

零戦のデザインについて、そのスマートな体型に魅力を感じるファンは多い。

相対した連合軍(特にアメリカ軍)の戦闘機が全体的に分厚いデザインである事とは対比的である。

機体の名称も、「零式」というキリの良いものである事に加え、「ゼロ」という呼称の響きを好むファンも多い。

飛行機産業の技術者が戦後自動車や鉄道業界に移ったこともあり、日本の優れた乗り物の原点として零戦が語られることがある。一方で最初は凄かったが停滞した存在としてガラケーなどに比較されることもある。

本機に関連する創作物

大戦中の日本を代表する戦闘機だけあって、数多くの作品に登場している。

あまりにも多すぎるので個別作品名を挙げるのは差し控えさせてもらうが、大半の架空戦記に登場するし、ゼロの使い魔などライトノベルにすら顔を出している。そして、2023年に至っては怪獣映画にまで…。

ストライクウィッチーズに登場する宮藤芳佳坂本美緒竹井醇子管野直枝迫水ハルカ各キャラのストライカーユニット零式艦上戦闘脚の元ネタでもある。ちなみに彼女らが使用している銃火器も本機に装備されていた機銃が元になっている。

(元ネタの形式や各キャラの使用時期はまちまちであるが、迫水のみ試作機である十二試艦上戦闘機が元ネタとなっている)

なお、戦闘機ものではないが首都高を舞台にしたカーレース漫画「湾岸ミッドナイト」の「地上のゼロ編」では岸田ユウジが駆るチューニングされたS2000が「地上のゼロ戦」と呼ばれている。なお、S2000のドライバーであるユウジは第二次世界大戦の戦闘機マニアである。

(ちなみに島達也が駆るブラックバードこと黒いポルシェ911ブラックバード』は「地上のメッサーシュミット」と呼ばれている。

なお、ゲーム「湾岸ミッドナイト MAXIMUM TUNE 3DX」では大人の事情によりS2000がロードスターに差し替えられている)

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零式艦上戦闘機
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