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烈風

れっぷう

大日本帝国海軍が「零戦」の後継機として開発していた艦上戦闘機。
目次 [非表示]

『十六試艦上戦闘機』開発計画(中止)編集

昭和15年(1940年)末、三菱に零戦の後継機たる「十六試艦上戦闘機」の開発が内示される。零戦が制式化された直後であり、意外にもこれは当時の海軍としては異例の早さの次世代機のスタートだった。


のだが…

  • 新型機に搭載されるべき小型高出力エンジンが当時実用化されていなかった
  • 堀越技師を筆頭とする三菱の設計陣が
    • 零戦21型で起こる初期トラブルへの対処
    • 零戦32型の開発作業
    • 十四試局地戦闘機(のちの雷電)の開発作業

といった問題に追われ、十六試艦戦開発にまわせる余力が無かった


等の理由で翌年1月に中止される。


『十七試艦上戦闘機』開発計画編集

それからさらに1年後の1942年(昭和17年)の4月、海軍は『十七試艦上戦闘機』として計画を仕切り直した。7月には正式に要求仕様が提示され、堀越二郎率いる設計陣がこれにあたっている。


その要求仕様とは、

  • 最高速度は高度6000mで638.9km/h以上
  • 上昇力は6000mまで6分
  • 約430m/hで5時間飛行し、さらに全開で30分飛行できる
  • 80m以内で離陸可能(12mの向かい風状態)
  • 着艦速度124km/h
  • 20mm機銃2門・13mm機銃2門の武装
  • 空戦性能は零戦(32型)と同程度を確保する

お分かりであろうか。本要求性能を達成した場合、その機体は格闘戦性能において零戦に匹敵し、速度性能においてグラマンに比肩するものとなるのである。


設計にあたって、特に課題になったのはエンジンの選定、そして翼面荷重の目標値の設定であった。


発動機選定編集

当時選定可能の2000馬力級小型エンジンは2種類しかなく、しかもそれぞれに長短がある。

このどちらかを採用するかで設計の三菱と海軍側が揉めに揉め、あげく4か月も開発は停滞した。


この2種類のエンジンはどちらも空冷18気筒であり、日本初となる。ひとつは中島の『』(陸軍呼称はハ45)で、これは零戦のエンジンである『栄』(14気筒)をベースに18気筒としたもの。

もうひとつは三菱の『金星』をベースに18気筒としたもの(後のハ43)である。


両発動機の特徴と難点編集

本機に限った話ではなく、大戦後期における日本の戦闘機開発そのものの停滞は「高信頼性・大馬力エンジンの不在」を一因とするものであり、

「九六艦戦、九七戦の時代にどうにか世界水準に追いついた『機体設計・開発能力』に、世界レベルより一世代遅れた『発動機設計能力・工業力』」というのが、その時代の日本戦闘機開発の技術的構図である(とはいえ、設計・開発能力も大戦中に再び引き離されてしまうのだが)。



  • 『誉』(ハ45) 中島製

ハ45『誉』は海軍の紫電改、陸軍では四式戦闘機に採用されているものである。

だがこのエンジン、当時世界最高水準の出力重量比、出力前面投影面積比および出力排気量比を達成すべく高度に精密化された繊細なエンジンであった。

そのため完成したエンジンは、試作機段階では、そのサイズとしては世界最峰高峰の性能を発揮出来たのであるが…


資源供給源であった南方の島々を次々に失った事により、国内で希少金属・高オクタン燃料が不足していた当時の日本で、素人工による代替材料を多用した量産型に額面性能を期待できる筈は無かったし、事実量産型の誉では性能の額面割れが恒常化していた。


実例として、試製烈風は試験飛行のさい、予定された性能を大幅に下回る性能しか発揮できなかった。その原因のひとつが誉発動機の性能額面割れであった可能性がある(後述)。


  • ハ43 三菱製

ハ43は烈風のエンジン選定当時、試験運用すら開始できない開発段階にあった。

誉に比して開発に遅れをとっていたハ43は、一刻も早い十七試艦戦の実用化を求める海軍側にとっては選択しがたい発動機であった。


とはいえ誉に比して(大型とはいえ)より大馬力であり、「海軍の性能要求を達成するためにはより馬力の高いハ43を選定する事が不可欠」とする主張を三菱は譲らなかった。


両発動機の開発段階を比較すれば

「すでに十五試陸上爆撃機を用いて初期型の各種試験を実施中であるエンジン『誉/ハ45』」

に対して

「まだ試作機すら完成していないエンジン『ハ43』」

を選定しなかったのは当然と言える。

また「烈風はハ43でなければいけない」なら「紫電改にハ43を積めばいい」という話になる(誉から換装する計画があった)。烈風は紫電改の後継機体ともいえる位置付けだったため、紫電改と同じエンジンで紫電改を超えなければ、本機の存在意義そのものが揺らぐこととなる。


結局は海軍の意見が(一方的通知という形だが)通り、この間に完成し、試験段階へ進んでいた『誉』改良型の「ハ45」(中島飛行機製)の採用が決まっている。


この決定が烈風に落とした影編集

しかしこの選択が原因で、烈風は一時開発中止に追い込まれている。上記にある通りの、要求性能に遠く及ばぬ低性能ゆえである(速度性能は零戦並、上昇力など目も当てられない)。

この試験結果を受けて海軍は三菱に「烈風の開発を中止し、三菱は紫電改の量産に取り組むべし」という要請をたたきつける。

三菱からすれば「お前たちにはもう期待してないから、川西航空機の下請けだけやっていろ」と言われたも同然である。


この結果に憤慨した三菱が、試製烈風の発動機を自社製エンジン『ハ43』に換装したところ、要求性能を実現する試験結果が報告された。この三菱のベンチテストでは、試製烈風に載っていた誉が、1300ps(6000m)程度の出力しか発揮していなかったとされている。


しかし、当時の誉エンジンが本当に上記の性能しか出なかったのならば、同じエンジンを積んだ紫電二一型(紫電改)の性能はどういうことなのか、という話となり、このテストの結果にはやや疑問が残る。当時の三菱は発動機のシェアをほぼ奪われかけているという会社の事情があり、誉のネガキャンに走った可能性も指摘されている。


三菱が額面割れを指摘したのと同時期に製造された誉エンジンでは、製造上の原因で発生した冷却の問題などから出力が額面割れしており、誉は2000馬力エンジンと言いつつも、紫電改や疾風でもこの問題が一応解消されるまでの一時期は出力制限がかけられていた。

誉の名誉のために断っておくと、誉は1800馬力、ハ43は2200馬力と、同じ2000馬力級として比較される2つのエンジンであるが、そもそもの予定馬力もエンジン自体の大きさも異なるものであった。

そのためハ43の方がパワーがあるのは当たり前なのである。


また烈風の開発に関わった小福田少佐の「誉の後に来るものとして約束されるも、未だその信頼性は実戦に対して不十分なり」という発言もあり、誉より余裕のある設計とはいえハ43も量産に入れば誉並みか誉を超える不具合が続出した可能性は高い。


火星エンジン搭載?編集

烈風は大柄で前面投影面積そのものは大きいため、「火星の搭載は現実的に考慮にされるべきであった」とする意見がある。

サイズさえ度外視してしまえば、すでに一式陸攻二式大艇に採用されて実績があり、排気量にも余裕があって、まだ出力向上の余裕のある三菱『火星』でも良かったのではないか、というもの。

確かに、『火星』の大きさはあくまで「口径がでかい」ということであって、出力重量比ではアメリカのP&W R-2800『ダブルワスプ』より優秀である。


が、その火星エンジン搭載機『雷電』は、エンジン配置が原因の振動問題のため開発が1年以上遅れ、配備後も故障が多発している。

これは大直径エンジンの空力改善のため長いシャフトを伸ばした配置で振動対策が不十分だったことと、雷電のプロペラが強度不足(烈風のプロペラとは別の物)による共振などが原因で、また配備後の故障原因には水メタノール噴射の調整が難しかった事も含まれる。

戦闘機搭載に当たっては、ある意味「誉以上の問題児」と認知されていたため、当時の海軍が戦闘機への搭載を敬遠したのは雷電の振動問題の解決が長引いたことを考えれば仕方のない事であった。(ただし烈風では別のプロペラを採用していたので、あまり大きな問題にならなかった可能性はある)


翼面荷重の憂鬱編集

もうひとつの設計上の争点「翼面荷重」、つまり格闘戦性能と高速性能のバランスについて記す。


性能要求では150kg/㎡とされていたのだが、後出し的に海軍が、代わって130kg/㎡とすべきとの要望を出してきたことにより事態は複雑化した。単純な最高速を求めるのなら高翼面荷重、旋回性能と上昇力を求めるなら低翼面荷重にしていく必要があるが、敵機との格闘戦及び空母への着艦が関わってくる搭乗員側は翼面荷重を低くすることを求める傾向があった。


結局は両仕様の主翼をそれぞれ製作、選定は実測性能に拠ることと決まり、さしあたって130kg/㎡案の(大きな)主翼が製作される事になった。結果「実戦用装備を追加すると150㎏/㎡に近くなる」ことが判り、150kg/㎡の(小さな)主翼は作られなかった。


性能編集

本機は全幅が九七艦攻並みである。烈風のこの大きさには艦上戦闘機として開発された本機が、燃料確保・翼面積確保のため大型化せざるを得なかったという事情がある。


よって前面投影面積そのものも大きく、グラマンよりも急降下における加速性能は劣っていると考えられる。空力的洗練により空気抵抗係数は大戦機としては最低レベルを達成しているため、水平加速力については高い水準にあるであろう烈風だが、空虚重量で1tも重いグラマンに、急降下加速で勝ることは無かったと思われる。なお、急降下制限速度自体はグラマン機に匹敵する約770.4km/hを達成している。


Wikipediaの記事を参考にすると、ハ43を搭載し高性能を示した、制式採用された11型で

  • 最高速度:624.1km/h(高度5670m)
  • 上昇力:6000mまで5分58秒

となっている。


これは、しばしば陸軍最優秀戦闘機とされ、烈風と比較される四式戦闘機(一型甲)の

  • 最高速度:624~655km/h(高度5000~6000m)
  • 上昇力:5000mまで5分弱

という数値と較べて幾分劣っている。


烈風は四式戦闘機(甲型)よりも火力で優れる(20mm機銃4門)が、機体サイズが非常に大きいことを主因とし500kg程疾風より重い。とはいえエンジンの発揮する馬力も向上しているため(1825ps→2200ps)推力重量比に大差は無い(無論、額面性能を前提とした議論になる)。


空戦性能についてであるが、この機はスロット式親フラップに、空戦フラップとしても使用するスプリット式の子フラップが組み合わせられた親子式フラップを搭載している。この点においては重戦としての性格(日本軍機としては重い舵、強い機体強度など)を持っている四式戦を凌駕する。


試製烈風(ハ43搭載)による、零戦との模擬空戦試験の結果、烈風は対零戦の『巴戦』に勝利する次元の機動性能を獲得していることが証明されている。


その他戦闘機の翼面荷重編集

Wikipediaの記事に掲示されているデータを参考にすると、

となっているのに対し、烈風では142.90kg/㎡となっている。


これは諸外国のものに対し、かなり低めである。

日本海軍では『零戦のように格闘戦に強い戦闘機』を期待していたのであるが、(烈風試作機が巴戦で零戦に勝利している事実を鑑みれば)その性能目標そのものは達成されたと見てよいであろう。

一方で、実戦においてこの高い格闘戦性能を活かしうる、すなわち「対日戦闘機戦においては一撃離脱が上策」と刷り込まれた米軍パイロットを格闘戦に誘いこみ、巴戦により撃墜せしめうる技量のパイロットが残存していたのかについて疑問が残る。


とはいえ、「巴戦(旋回性能を活かした格闘戦)に拘った海軍は無能」と言い切れるかと言うと決してそうでもない。一撃離脱は敵より有利な位置につくことが前提なうえ、敵と同数で一撃離脱を行っても敵に小規模な被害を与えただけで高度を落として終わってしまうし、少数機同士の空戦、爆撃機の護衛等ではお互い一撃離脱に徹する事も出来ないという問題もある。

また、米軍パイロットに一撃離脱戦法と共に採用されたサッチ・ウィーブ戦法は「背後に付かれたら機体を左右に振り僚機の攻撃チャンスを作る」という一撃離脱というよりは格闘戦よりの考え方である。

F6Fより高性能なはずのF4Uを「F6Fよりは戦いやすい」と評価する日本パイロット、「日本機相手に空戦するならF4UよりF6F」と評価する米軍パイロットが居るのもこの辺りが理由であり、実際終戦間際ではF6Fも数と練度に物を言わせ積極的に零戦に格闘戦を仕掛ける、という光景も見られた(そしてF6Fが返り討ちに合ってしまうケースも少ないながらあった)。


傑作機と言われた陸軍の疾風も「鍾馗の後継機に隼の要素をぶち込んだ」と言うなど、一撃離脱だけではなく旋回性能も考慮している。この点を考えれば、零戦より遥かに一撃離脱に向いている上旋回性能も互角以上という烈風の方向性は、実現できるならば決して間違って居なかったといえる。


前任機との比較編集

誉搭載の試製烈風と零戦52型の性能を列記する。

  • 試製烈風

最高速度:574.1km/h

上昇力:6000mまで9分54秒


  • 零戦52型

最高速度:564.9km/h

上昇力:6000mまで7分1秒

正直言ってゼロ戦と大差ない。上昇力にいたっては劣悪といっていい値である。



四式戦闘機F6F相手でも有利に立ち回れる事があったようだが、烈風では翼面荷重が低く設定され、そのために主翼が大きいという特徴がある。翼面荷重そのものはF6F相手に格闘戦で有利に立ち回れたという四式戦闘機より低いため、やはり速度性能とあいまって格闘戦で不利ということは無いだろうと思われる。


一撃離脱戦法と無線機編集

なお、一撃離脱戦法は(従来のような)格闘戦に比べ「お互い連絡を取りながら行う編隊空戦」の色が強くなる。こうなると無線機が必須になるのである。


当初海軍は重視していなかったが、後期になると343航空隊(紫電改で有名)が偵察機と無線機を使用したチーム戦を開発し、戦争後期には改善されつつあった。


一方陸軍では、一撃離脱戦法への対応のため無線機は「使えなければいけない道具」と認識されており、不具合に悩まされながらも加藤建夫(64戦隊)をはじめとして早い時期から活用が進んでいた。


整備の問題編集

四式戦闘機も前線での整備には苦労させられていた。前述のとおり誉の量産型は、高精密な設計が災いし性能の額面割れが恒常化、想定せぬ故障も多発。さらに部品やハイオクガソリンが足りぬことで誉エンジンの額面性能確保は終始夢物語であった。同じエンジンを装備した紫電改は(日本本土であることかつ生産数が少ないこともあって)343航空隊を中心に集中して多数を配備していたこともあり、疾風ほど整備・稼働率に悩まされたという話は少ない。


ハ43搭載の烈風では四式戦闘機よりも額面で300馬力余り出力が高いが、その四式戦闘機量産型の抱えた出力低下を鑑みると「果たして烈風が四式戦と互角程度の性能であったのか」は「ハ43量産型の額面割れがどれ程のものとなったか」によるのであり、単純比較は出来ないのも確かである。(また、烈風にハ43を積んでしまうと生産・整備を行うエンジンの種類が増える→他のエンジンの運用に影響を及ぼす可能性も否定しきれない)


結局は編集


テストパイロットにいわく、『600km/h以上の速度に零戦21型なみの格闘戦性能があり、本機が100機以上あれば戦局の挽回も可能』と絶賛している。

一方で逆に「エンジンが不安定で、想定どうりの上昇性能が発揮できない」とも苦言を呈している。


開発が難航し、おまけに空襲や地震で部品の供給すらおぼつかなくなってしまった。

設計思想もベテランの激減による防弾の必須化、高速戦闘機による編隊空戦・一撃離脱の優位性といった、当時の内情を全く鑑みぬものとなっており、量産に成功していたとしても戦況に影響を与えたとは考えにくい。空母をすべて失うまでなら「使いで」があったかもしれないが……

400機あった紫電改ですら、実際の戦局にはなんら寄与していないのだ。


なお、対するアメリカ海軍は昭和20年秋より海軍の最新鋭機を実戦投入する予定であり、終戦直前には配備された部隊が空母に搭載され太平洋を越える最中だった。当然ながら機体、パイロット共に初期の熟成や訓練も完了し、すぐに実戦が可能な状態である。


結局、烈風は世代、性能ともに3年遅れでF6Fと並んだ機体であり、仮に最初からハ43搭載で終戦までに量産が間に合ったとしても、相手にするのはもう一世代後の化け物ことF8Fであったであろうことを考えると、間に合わなくてまだ幸運だったと言えるかもしれない。



烈風改編集

烈風の高高度仕様。発動機を排気タービン過給器付きのハ四三-一一型ルに変更し、翼内に30mm機銃4挺、胴体に30mm斜銃2挺を装備する予定だった。設計上の共通点は僅かしかない。試作機の製作準備中に終戦した上、戦後の混乱によって設計図は存在しないと思われていたが、2005年に堀越技師の親族が群馬県藤岡市に寄贈した資料の一部に、本機の設計図が含まれていた事が最近になって発覚した。


それから数年後、2019年5月12日、烈風改が原寸大で姿を見せる事になった


なお上述の通り30mm機銃が合計6挺、それに加え防弾の充実まで要求されたため、高高度戦闘機としては致命的なまでに重量が増大することは目に見えていた。堀越技師も「発動機を変えてもそれに見合わない重量になってしまう。だがまあ、地上攻撃くらいには使えるだろうし、双発機よりは安上がりで良いだろう」という趣旨の皮肉を残している。しかもその皮肉を個人の手紙や日誌などではなく計画書に書き殴っていたため、海軍からの無茶振りに対して相当腹に据えかねていたようである。

後世の視点で見れば、「ハ50を出せハ50を!」とでも言いたくなる要求性能である。


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