F8F
えふはちえふ
第二次世界大戦中にグラマン社が開発し、アメリカ海軍に採用された艦上戦闘機。
愛称は『ベアキャット』(ビントロング、または勇敢な闘士の意)。
大出力エンジンを小型の機体に詰め込むというフォッケウルフFw190のコンセプトに刺激され、1943年11月に開発が始まり、1944年8月21日に初飛行。
レシプロ艦上戦闘機として最高峰の性能を誇り、日本本土侵攻作戦に投入される予定だったが、配備部隊が太平洋を越えている最中に終戦となったために大戦中の実戦記録はない。
アメリカ海軍では1955年をもって退役。
民間に払い下げられた機体がエアレース用に転用され、現在に至る。
F6Fが初実戦に投入された2か月後、F8Fの開発は始まっている。
F6Fは強力な戦闘機だったが、実用化が急がれたため良く言えば高い冗長性、悪く言えば設計に無駄が多かった。大型でとり回しが悪く、護衛空母で運用するのには占有スペースが大きすぎることもあり、F8Fでは徹底的な小型化と無駄の削除が行われ、エンジンは2,300馬力のR-2800-34W(P&W社)に強化された。小型化により翼折り畳み機構が不要となり、より一層軽量化と高剛性に貢献している。
ただし、小型空母専用・補佐役の機体という事ではなく、全ての空母から運用できる主力艦上戦闘機を目指していた。
基本的に元々保守的な設計だったF6Fから無駄を削ぎ落す方針で技術的に(米軍としては)さほど冒険していないこともあり、開発は極めて順調で、初飛行まで9ヶ月しかかからなかった。試作機の最高速度は670km/hを超えており、制約の多い艦上戦闘機である事を考慮に入れれば驚異的な記録である。
自軍を含めた、当時のあらゆる戦闘機に空戦で勝つことを目的に開発されている。
長所
全長・全幅・翼面積が切り詰められ、零戦より一回り小型の機体となっている。全備重量では1.5t以上重いが、エンジン出力は栄二一型(零戦五二型)の1,130馬力に対して2倍以上であり、旋回率(回頭速度)で有利となり、強力な上昇力により縦方向の機動でも有利である。
仮に零戦と交戦したとしても、太平洋戦争末期の米軍では零戦の得意とする巴戦に付き合わないよう教育が徹底されており、F8Fが有利だったと思われる。
そもそも、時間当たりの旋回率はその零戦を凌駕(同時に旋回を始めると、F8Fの方が早く1周を終える)しており、得意な巴戦であっても2世代古い零戦が何とかなる相手では既になかった。
突っ込んでも曲がっても強い、正しく最強の戦闘機だったのだ。
1950年6月25日からの朝鮮戦争に於いて、制空戦闘はジェット戦闘機の役割でありF8Fに出番はなかった。
アメリカ海軍では1952年までに実戦部隊からは退き、1955年に全機が退役。
中古の機体がフランス空軍に売却されてインドシナ戦争に参加し、南ベトナム軍がその残存機を運用した。また、タイ空軍にも供与された。
F8Fは民間にも払い下げられた。
戦闘機としては全く活躍の機会が無かったが、アメリカ各地で催されるエアレースのレシプロ機による周回競技に於いて「性能がよく、かつ傷みの少ない機」として評価され、P-51などと共に活躍の場を得た。
レシプロ機における世界最速記録も、F8Fのエアレース用改造機「レア・ベア」が有している。
このレア・ベアは凄まじい改造が施されており、主翼をさらに切り詰め、風防も平たい形状にし、各部の凹凸をパテで埋め、さらにエンジンの温度調整を行うカウルフラップ、あろうことか離着陸時に使う主翼のフラップまで密封することで限界まで空気抵抗を減らした。
そしてエンジンをB-29用のライトR-3350に換装、こちらにも改造が施されており、極短時間ではあるが4,000馬力という化け物じみたパワーを叩き出す。
当然ながら操縦、ことにフラップが使えないため離着陸は凄まじい難易度だという。
F8FはP-51H、シーフューリー、Ta152、四式戦闘機、Yak-9Pなどと共に「究極のレシプロ戦闘機」と評価される。実戦の機会が無かったため、失敗機と言われることは非常に少ない。
『日本海軍の零戦に勝つ事を第一に作られた』と言われることもあるが、それは既に前作のF6Fで達成している。
また『零戦と模擬戦で完勝』『旋回率や格闘戦で零戦に比肩』と言われる事もあるがこれらの噂が出回っているのは日本の一部ネット界隈や考察本のみであり、海外ではこのような話は一切出回っておらず出典も不明である。
ただ、基本的にアンダーパワーのレシプロ戦闘機において旋回能力を決める翼面荷重は約160kg/m2と、米レシプロ戦闘機としては群を抜いて低く(低いほど優位)、これは基本的に低空での格闘性能を重視する旧日本陸海軍が四式戦闘機や烈風に求めた数字に近い。
このことを考えると、出発点が高翼面荷重の高速重戦闘機でありながら、最終的に低翼面荷重の機体を大出力エンジンで引っ張るという形態は、零戦の日本海軍というよりは日本陸軍の四式戦に近い開発経緯とも取れる(四式戦は日本軍としては異例の高翼面荷重の高速機である二式単座戦闘機『鍾馗』が出発点で、二式単戦もまた欧州の戦闘機を意識して開発されたものである)。