前身機 XF5F『スカイ・ロケット』
1938年、アメリカ海軍では艦隊に来襲する敵機への対抗として、上昇力や火力にすぐれた双発の迎撃戦闘機を要求する。そこでグラマン社が提案したのがXF5F「スカイロケット」で、小型化と双発(=高出力)を実現するために独特の風貌となった。
だが、予定していたエンジンが間に合わず、やむなくライト社のR-1820エンジンで代用した。このエンジンは予定エンジンよりも大きく、とくに下方視界などは『全然みえない』として大不評を買ってしまった。他にもこのエンジンは燃費が悪くて航続距離が悪くなり、さらに空気抵抗も大きいので最高速度は586km/h(高度5270m時)どまりと、想定を大きく下回るものになってしまう。当然ながら採用されなかったが、1機だけ作られた試作機はおもに宣伝写真で大活躍(?)した。
だがここで試みた新機軸はムダではなく、F7Fにも受け継がれている。
R-1820エンジン
XF5Fでは散々だったエンジンだが、2段重ねにしたR-2600や3段式のR-3350が登場している。
これらはB-17やB-29など、のちのアメリカ製レシプロ機の心臓として大いに活躍している。
対日戦争を想定して
1938年、アメリカは風雲急を告げる日米関係から戦争を想定し、大型空母(のちの「エセックス」級)の建造に着手する。海軍ではこの空母に搭載する双発戦闘機が必要になるだろうと考え、XF5Fに引き続いてグラマン社に設計を依頼する。
開発コードは「G-51」、のちにF7Fと制式番号が振られる戦闘機のはじまりとなる。
G-51の要求仕様はXF5Fから増えており、対地攻撃や対艦攻撃(水平爆撃)、さらには雷撃も視野に入っている。現在でいうマルチロールといった所だが、搭載機数の限られる空母の都合(=機種は少ないほうがいい)は現在も昔も全く変わってはいない、という事である。
開発開始は1941年6月、原型機2機が発注されてから開始された。太平洋戦争のはじまる半年前である。
双発複座戦闘機(海軍版)
多用途性が求められている点などは陸軍のP-38や、あるいドイツのBf110などに共通するものが感じられる。いわゆる「双発複座戦闘機」の思想である。
要するにこの思想は「戦闘機は双発化すると多用途化できる」という内容であり、海軍(当時)はここに飛びついたのだ。戦闘機が雷撃機の任務も兼ねられれば、搭載できる機種は統一できて、例えば「すべて雷撃機で」「雷撃機と戦闘爆撃機を半々で」「すべて戦闘機、その次は雷撃機で出撃」といった使いかたも出来るようになり、任務の幅が広がるものと考えられた。
その為、迎撃だけでなく対地・対艦攻撃もこなせるよう設計されており、戦間期に流行した「双発複座戦闘機」(戦闘爆撃機)の海軍版のような機である。
初飛行は1943年11月で、それまでの海軍機を大きく上回る性能を記録した。これは実戦型にも受け継がれ、F7F-1でも740km/hを記録している。火力でも12.7mm機銃と20mm機銃を各4門搭載しており、P-47以上の弾幕を誇る。
タイガーキャット、出撃せず。
こうして高性能を発揮したF7F「タイガーキャット」だったが、生産はF6FやTBFが優先され、また艦上で邪魔になるのが嫌がられて海軍航空隊ではなく、海兵隊に配備されてしまう。
当初500機が発注されていたが、生産は250機が完成した時点で打ち切りとなり、朝鮮戦争でも戦闘爆撃機や夜間戦闘機として細々と使われるに止まった。そうこうするうちにジェット戦闘機が時代の趨勢となり、こうしてF7Fの現役は幕を閉じた。
猫の苦しみ
なお、朝鮮戦争ではMiG-15が猛威を振るい、連合軍の航空部隊は一掃されてしまう。アメリカ海軍もご多聞にもれず、せっかく配備されていた最新鋭機F9F「パンサー」もまったくの時代遅れ・性能不足として(対MiG-15戦では)ひっこめられる事になってしまう。相手がMiG-15では、恥を忍んで空軍のF-86に助けてもらう他なかったのだ。
朝鮮戦争が停戦し、アメリカ海軍はさらなる新型にF-86の海軍版(FJ-4「フューリー」)を採用し、対抗していくことになる。またF9Fも後退翼を適用した改良型(F9F-6)の生産が始まり、これでようやく「ミグの恐怖」から解放される事になるのだった。
第二の余生
こうして実戦投入間もなくお払い箱入りしてしまったF7Fだが、退役した後に大きな仕事が待っていた。対森林火災用消防機(通称『ファイアボマー』)への改造である。
元々戦闘機として開発されていたので機体強度は十分とってあり、そこそこの搭載力を併せ持つF7Fは、消防航空隊の主力として長く活躍したのだった。