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MiG-15

みーくぴとなーっつぁち

1947年、MiG設計局が開発した第1世代ジェット戦闘機。
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→ 詳細は「wikipedia:MiG-15_(航空機)」へ。


概要編集

1947年、MiG設計局の開発した第1世代ジェット戦闘機

爆撃機の迎撃に絞った設計がなされ、上昇力と攻撃力に優れる。


設計にはドイツから接収した後退翼の技術が使用され、朝鮮戦争では同じく後退翼を備えた「F-86」と互角の勝負を繰り広げた。欠点は急降下で音速を超えられないことであり、主翼の後退角を45度に改めた「MiG-17」が開発された。


ソ連のジェットエンジン開発編集

第二次世界大戦前からソ連でもジェットエンジンの開発が進められていた。

1938年、アルヒープ・リューリカはハルキウ航空機大学でターボジェットエンジン「RDG-1」を開発。1939年には世界初のターボファンエンジンを開発するが、その成果は認められることはなく、独ソ戦が勃発して開発作業は棚上げとなった。

1944年、ジェットエンジン開発計画が再始動する。

1945年、ドイツから接収した「BMW003」がコピーされ、これを搭載した「MiG-9」が翌年に初飛行したが、満足する性能には至らなかった。

戦時中ドイツが研究していた軸流式ターボジェットエンジンは大いなる可能性を秘めていたが、当時の製造技術では性能に限界があった。


そこで、ソ連はイギリスにジェットエンジンの購入を打診する。

イギリスのアトリー政権は、当時ソ連に対して宥和策を取っており、不足していた食糧を輸入する代わりにロールス・ロイス社製の遠心圧縮式ターボジェットエンジン「ニーン」35基と「ダーウェントMk.V」25基を供与した。

これらは早速デッドコピーされ、「ニーン」はクリモフ「RD-45」となり、「MiG-15」に搭載されて西側に脅威を与える事となる。


MiG-15の開発編集

正式な指示の出る前より、ヤコブレフ設計局、ラボーチキン設計局、MiG設計局がロールス・ロイスのコピー・エンジンを前提としたジェット戦闘機開発を開始していたが、政治的理由により高性能な「RD-45」はMiG設計局に提供される事となった。

1947年12月30日に試作機「I-310」が初飛行し、1948年3月に「MiG-15」として制式採用され、量産が開始された。

「MiG-15」には音速に近づくと操縦が困難になり、飛行中に突然スピンに陥るという重大な欠陥があったが、マッハ0.92を超えないようにするという方法で対処された。開発が急がれたため、欠陥が改善されぬまま第一線に配備されたが、その性能は欠点を補って余りあるものだった。

1949年、エンジンを大幅改良型のクリモフ「VK-1」に換装した「MiG-15bis」が開発された。「ジェット戦闘機の生産をMiG-15に絞る」と指示が下され、9つの工場が「MiG-15bis」を生産する運びとなった。


朝鮮戦争編集

1950年10月19日、北朝鮮へ進撃した中国義勇軍には、ソ連から「MiG-15」が供与されていた。

国連軍の装備していた「F-80」、「F-84」、「F9F」、「ミーティア」等のジェット戦闘機は「MiG-15」に圧倒され、「B-29」等の爆撃機も簡単に撃墜されてしまった。

1951年4月12日、49機の「B-29」が鴨緑江にかかる鉄橋に空襲をかけた。52機の「F-84」や「F-86」に護衛されていたにもかかわらず、3機撃墜、7機撃破という大損害を出している。以降、国連軍の爆撃機は爆弾投下時の高度を上げたり、夜間のように迎撃しにくい時間帯を狙って空襲を掛ける事になった。


西側で「MiG-15」と互角に戦える戦闘機はアメリカ空軍に配備されたばかりの新型戦闘機、「F-86」しかなかった。性能にはそれぞれ一長一短があったが、共産側パイロットの技量の低さもあり優勢となった。

双方とも次々と改良型を送り出し激しく鎬を削ったが、最終的に「F-86」の「MiG-15」に対する撃墜:被撃墜比は4.1:1となった。


同じ頃から改良型の「MiG-17」が大量に配備され、ソ連本国で「MiG-15」は退役した。このため朝鮮戦争以外での目立った活躍は無い。

生産数はソ連本国で11,073機、チェコスロバキアポーランドで生産された分も合わせると17,412機にも上り、世界一量産されたジェット戦闘機である(異説あり)。


特徴編集

機体は小型軽量で、ライバルの「F-86」の半分程度の重さであり、エンジンの推力は大差ないため加速性能・上昇力は圧倒的であった。

機首のインテークから取り入れられた空気が真っ直ぐジェットエンジンを通り抜け、後方に排気されるというシンプルな構成になっている。

主翼は35°の後退角を持ち、上面には片翼2枚の境界層フェンスが装備され、翼端失速に対処している。

42.5°の後退角を持つ水平尾翼は、60°の後退角を持つ大きな垂直尾翼の極めて高い位置に取り付けられている。

武装は37mm機関砲1門と23mm機関砲2門を機首に装備し、爆撃機の迎撃に威力を振るった。ただし弾道性能に問題があり、戦闘機相手には命中させるのが困難であった。

設計上の欠陥から音速に近付くのを防ぐため、「F-86」との空中戦で不利になった場合は上昇して離脱した(「F-86」は降下して離脱)。


派生型編集

「MiG-15」は純然たる戦闘機として開発されたため、機体に余裕がなくマルチロール化は困難であった。後継機の配備により余剰化した機体は戦闘爆撃機(MiG-15SB)として使用されたが、搭載量が少ないため効果的ではなかった。

最終的には標的曳航機として使用された。


練習機編集

ジェット戦闘機への習熟のため、複座練習機型の「MiG-15UTI」(UTI MiG-15)が開発された。教官席を後方に追加し、機関砲が練習用の12.7mm機銃に換装されている。

ソ連で3,433機、チェコスロバキアで2,013機が生産され、「MIG-17」や「MiG-19」の複座練習機型が製造されなかったため、東側の多くの国で長年に亘って使用された。

「音速に近づくと操縦困難」という欠陥もそのままで、扱いにくい戦闘機に慣れるための練習機といえる。


全天候型戦闘機編集

機首上部にレーダーを搭載した「MiG-15P」が作られた。

機首にインテークがあるため、大型レーダーを搭載するレドームを設置できず、運用には限界がある。


偵察機編集

偵察機型の「MiG-15R」が作られたが、改造は37mm機関砲を外したスペースに偵察カメラ1基を積み込んだ程度である。

本格的な戦術偵察は、1955年から配備された双発ジェット戦闘機「Yak-25」の偵察機型が担うこととなる。


標的曳航機編集

「MiG-15UTI」を改造した「MiG-15T」、「MiG-15bis」を改造した「MiG-15bisT」が作られた。


海外生産機編集

チェコスロヴァキア

戦闘機:「S-102」、「S-103」

練習機:「CS-102」


ポーランド

戦闘機:「Lim-1」、「Lim-2」

練習機:「SBLim-1」、「SBLim-2A/B」

偵察機:「Lim-2R」


中華人民共和国

練習機:「JJ-2」(殲教二型)


外部リンク編集

wikipedia:MiG-15_(航空機)


余談編集

チャック・イエーガーは空軍のテスト部門で働いていた当時、「MiG-15」のテスト飛行を担当した。これは1953年9月に亡命した北朝鮮軍パイロットが乗ってきたものだった。

『「F-86」と「MiG-15」が戦ったら、どちらが強いか?』と質問され、イエーガーは『勝敗はパイロットの腕次第だ』と答えている。

模擬戦で「MiG-15」に乗ったイエーガーは「F-86」に勝利し、乗機を交替して「F-86」に搭乗すると「MiG-15」に勝利した。

参考文献:世界の傑作機 No.97「MiG-15”ファゴット",MiG-17”フレスコ”」(文林堂,2003)


関連タグ編集

ソビエト連邦 MiG ミグ 第1世代ジェット戦闘機

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