空をとりもどせ!
1944年に入り、アメリカ軍によるドイツ本土空襲はいよいよ本格化した。
これには護衛に就く戦闘機の航続距離が向上した事もあり、さらにパイロットもアフリカや地中海、イギリス本土などで実戦経験を積んでいたベテランが多かった事も要因である。
代わってドイツ空軍はこれまでの連戦で機材を消耗しており、ベテラン級やエース級パイロットなど、人材面ではすでに枯渇していたのだ。連合軍のベテラン達はこうして手薄になったドイツ本土になだれ込み、爆撃機迎撃に出撃してきたドイツ戦闘機まで餌食にし始めた。
1944年4月、すでにドイツ空軍は息切れしていた。空襲で工場が被爆し、生産能力は低下。経験の浅いパイロットでは敵の手玉にとられ、これも撃墜されてしまう。戦闘機もパイロットも、どれだけあっても足りない。著しい手不足である。
こういう状況ではドイツ機はいよいよ姿を消し、戦場を飛ぶものは連合軍機ばかりになった。敵がいないなら安心して空襲できる。かくしてドイツ戦闘機を『喰らいつくした』連合軍戦闘機は、地上軍への攻撃に参加するようになった。こうして爆装した戦闘機を『戦闘爆撃機(ヤーボ)』と言い、地上軍にとっては恐怖の代名詞となった。
『国民戦闘機計画』
だが、こうした現状を黙って見ている当局ではない。1944年春、空軍省では2つの打開策が提案される。
ひとつはアドルフ・ガーランドが主張する『Me262の増産計画』、
もう一つがヘルマン・ゲーリングらの主張する『新たなジェット格闘戦戦闘機の開発』である。
計画名は『フォルクス・イエーガー(国民戦闘機)』。この計画はヒトラーの太鼓判つきで進められ、なんと「10日以内に計画書を提出する事」と前提条件がつけられた。もちろん、主なパイロットはヒトラーユーゲント達である。
主な条件は以下のとおり。
・エンジンはBMW003型ジェットエンジン1基
・熟練工員以外でも組み立てOK
・最高速度750km/h(海面高度)
・重量2000kg以内
・30分は作戦飛行できること
・パイロット訓練生でも空戦できる(操縦性がいい)
条件は無茶苦茶のオンパレードとなった。一番の問題が最後の項目である。無茶言いなさんな。
操縦性は確かに重要だが、だからといってそれで空戦に勝てるわけが無いだろう。
戦闘機部隊総監(現場組トップ)だったガーランドも『訓練すら出来てないシロートばっかりでどうすんだ!敵に撃墜数くれてやるんか!(意訳)』と大反発。実戦現場をよく知るガーランドにとっては、新人パイロットが大量参入してもベテランが不足しているので指導しきれないし、それならベテラン向けにMe262を増産して戦闘能力を底上げしたほうがマシと考えたのだ。
だが彼の意見は黙殺され、こうして中学生すらも空に散らす計画は実行に移された。
国民擲弾兵
ドイツは1944年にやっと国家総力戦体制に移行したが、度重なる戦いで兵力はすでに底を突いていた。そこで採られた対策が『国民擲弾兵』による歩兵部隊の再編成である。
これは
- いままで徴用を免れていた年齢の者(16〜50歳)
- 負傷で引退させられた傷病兵
- 病気などで徴用を免れた者
を兵士として揃えたもので、兵士の質からして既に低い。
装備も悪かったのだが指揮官の質によっては健闘もしている。
国民突撃兵
国民突撃兵は指揮官からして軍人ではなく、ナチ党員である。隊員は国民擲弾兵よりもさらに広く採られており、60歳までが範囲となっている。このあたりに来ると制服すら揃わず、私服でも腕章さえ身につけていればOKとされた。
(ハーグ陸戦法規では合法)
ヒトラーユーゲント
また、当時の青少年は例外なく「ヒトラーユーゲント」に所属する事とされた。
優秀な成績の物を選抜して『第12SS装甲師団』が編成され、ノルマンディーやハンガリーなどを転戦し続けた。当初2万人で編成され、全滅するたびに補充を繰り返したが、最終的に生き残った者は455名である。
(1945年5月8日に降伏した際の人数)
このほかにも、ヒトラーユーゲントは郷土防衛の名のもとに戦場にかりだされた。ほぼ例外なく装備は貧弱、訓練など無いも同然であり、多くの青少年が命を散らしていった。現在の基準に照らせばみな『少年兵』(あるいは『少女兵』)である。
コードネーム:サラマンダー(火トカゲ)
計画と特徴
この名称は国民戦闘機計画内でのコードネームで、ハインケル社では「シュバッツ」と呼ばれていた。
(「スズメ」の意)
元々この戦闘機は以前から開発作業が進められていたもので、もちろん各社が提出した計画書の中では一番完成に近かった。当然ながら3週間後には採用が決まり、製作もすぐ始められ事になった。
特徴的なのは背面にエンジンを「背負う」ように装備している事である。
尾翼はエンジン排気を避けるように配置され、垂直尾翼も左右2枚に分割。
降着装置(車輪)はMe262と同じく前輪のある三輪式を採用した。
コクピットには射出座席も装備されている。
武装は型によって違い、A-1では強力な30mm機銃(MK108)を2門装備。
A-2は戦闘機への対処を重点に置かれたのか、20mm機銃(MG151/20)2門を装備する。
他にもA-3ではMK108の強烈な反動に耐えるように構造を強化したり、A-8、A-10、A-11のようにエンジン換装も試みられた。(いずれも計画のみ)
He162Cでは後退翼、He162Dでは前進翼を採用する予定だったようだが、機体にまつわる問題が山積みになっていたし、解決する事も含めれば戦争に間に合う筈もなかった。
「木工ボンドにご用心!」
公募から3か月と経っていない1945年12月6日、最初の試作機(He162V1)が初飛行を遂げた。
このテストで早くも安定性の悪さは指摘されたが、「生産開始が第一」とされていた事もあって設計図は書き直されず、そのままにされた。
急いで設計され、十分に試験期間を取れなかった「ツケ」は早くも回ってきたのだ。
だが、これが第2回の飛行で悲劇を呼ぶ事になる。
参観の関係者が見守るなかHe162V1はきりもみを起して墜落、パイロットも死亡したのだ。
今度の原因は「木材の接着が不良で補助翼が途中で引っ掛かり、その後外れた」事とされた。
ウリのひとつだった『木材による戦略物資節減』が裏目に出た。
同じような接着剤の問題はTa154でも起こっており、こちらは接着剤を代用品に替えた事が原因だった。
(おそらく本来の接着剤をHe162に回されたため、やむなく代替品を使った)
「操縦注意!」
その後、制限を設けた上でテストは再開された。だが開発陣は納期に追われており、本格的な改設計は出来ずじまいになってしまう。なので機首にバラストを積み込んだり、尾翼を増積するなどの場当たり的な対処だけでお茶を濁すに留まってしまう。
つまり、
・安定が悪く、このままでは設計変更しかない
・だが、設計図に手を加えるとなると、納期を大幅に超過してしまう
というわけで、安定の悪さはそのままである。こんな完成度では操縦性が良いわけもなく、操縦桿から絶対に手を離せないほど不安定な機だったという。
もはや「未熟なパイロット」には操縦不可能な代物となっていたのだ。
それでも1945年2月には初めての実戦部隊が編制された。部隊番号は「I./JG1(第1飛行隊所属、第1戦闘機隊)」。3月には訓練が開始され、以降は実戦にも参加している。
最初の実戦は4月半ばだったようで、撃墜記録もある。だが披撃墜よりも事故での損害が多く、この時点で10人と13機を失っていたという。
(2機以外はすべて事故)
これは戦後、連合軍テストパイロットにも指摘された事だが、He162は安定が悪すぎるのだ。
特に縦方向の安定は深刻で、その上エンジンは1基しか搭載していない。つまり「エンジンが止まったら即墜落」というわけで、これはMe262よりも酷い。
(Me262はどちらか片方生きていれば何とか帰投できたが)
また、エンジンの搭載位置にも問題があり、これではエンジン停止で強い機首上げを生じた可能性がある。
(Tu-22やロッキードL1011など、エンジンを高く配置する機には共通)
実戦部隊は結局この部隊だけに留まり、残りの部隊はとうとう間に合わなかった。
だが生産性は高く、終戦時点で120機が配備され、200機が完成。
さらに600機が生産ラインにあったという。
操縦桿から手を放せるか否か
こうした安定の良さは意外と重要で、もちろん良いほうが飛ばし易いし、覚えやすい。
一例としては、チャック・イエーガーがF-5に搭乗した際、その安定性を評して『機首を上げて操縦桿から手を放すと、機は少しずつ速度を落としながら、機首はまっすぐ下を向いていく(=速度が足りなくなって不安定になっても、機体が左右に向いてふらついたりしない)』と表現した例が参考になるだろう。