→ 詳細はwikipedia:F-80_(戦闘機)へ。
概要
第二次世界大戦にロッキード社が開発し、アメリカ陸軍航空隊に制式採用された単発単座のジェット戦闘機。愛称は「シューティングスター」。
実質的にアメリカ軍初の実用ジェット戦闘機。
1945年5月に運用を開始したが、間もなく第二次世界大戦が終了したため生産機数は1,715機に止まる。
沿革
ドイツ軍によるジェット戦闘機開発が伝えられたため、ベル社でP-59(エアラコメット)が開発され1943年に初飛行したが、その性能はレシプロ戦闘機に及ばないものであった。
ただし、エンジンやエアインテークの配置は、双発レシプロ機の配置を踏襲したMe262やミーティア、インテークを機首正面に設けて搭載スペースが失われたMig-15やF-86より進歩したもので、その美点はF-80に受け継がれる事となる。
1943年6月23日、ロッキード社にジェット戦闘機開発が命令された。
主任技師クラレンス(ケリー)・ジョンソンはスカンク・ワークスを設立。P-59の前例があったため、1週間で試作機XP-80の設計を終えた。
1944年1月8日、イギリスから輸入したターボジェットエンジン「ハルフォードH.1B(デ・ハビランド・ゴブリン)」を搭載したXP-80が初飛行し、814km/hの最高速度を記録した。
「ハルフォードH.1B」はアリス・シャルマース社でライセンス生産されることになったが上手くいかず、ロールス・ロイス社の「ダーウェント」をGE社でライセンス生産した「I-40」(後のアリソンJ33)に切り替えられた。
「I-40」を搭載したXP-80Aの性能は優秀で、アメリカ陸軍より5,000機の発注を受け、1945年2月よりP-80として納入が開始された。
しかし、5月にはドイツ、8月には日本が降伏したため、実際に配備されたのは45機だけだった。
1947年9月18日、アメリカ陸軍航空隊がアメリカ空軍として分離され、P-80はF-80に名称が変更された。
1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発。設計の古いF-80やミーティアは、中国義勇軍のMiG-15相手には通用せず、戦闘爆撃機、偵察機として使用された。
特徴
ジェットエンジンを胴体に内蔵し、両翼付根のエア・インテークからダクトを通じて空気を導き、胴体後端から排気を噴射する。
境界層剥離制御を兼ねて翼端に設けられた増槽が特徴的。
機首にブローニングM3 12.7mm機銃6門を集中配置する。
後退角のない主翼や搭載エンジンの限界により高高度性能は振るわなかったが、低高度では素直な操縦性を見せた。
輸出
P-80の国外へのセールスは振るわず、採用されたのは南米諸国を中心に7ヶ国であった。
派生型
F-80C
戦闘爆撃機型。主翼下にHVAR(ロケット弾)を10発搭載可能。
朝鮮戦争中、中央の円柱部品を2個分使って延長した増槽(通称ミサワ・タンク)が三沢基地の第49戦闘爆撃航空団により急遽製造され使用された。
P-80より発展した複座練習機。