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概要

1918年から1993年までヨーロッパ(中欧)に存在していた国家。
現在のチェコスロバキアにあたる地域で、ワルシャワ条約機構に属していた。
1993年のビロード離婚によりそれぞれ分離独立した。

歴史
チェコでは産業革命以降、オーストリア=ハンガリー帝国の主要産業地となっており、オーストリア=ハンガリー内でもオーストリア人,ハンガリー人に次ぐ地位となっていた。
1848年に欧州各地に広がっていた1848年革命の波はチェコの地にも届いていていた。
チェコ人は高度な自治と最終的な独立を求めオーストリアに反旗を翻し、1848年6月頃ハンガリーでプラハ・スラヴ会議が開催された事で、汎スラヴ主義が生まれ、スロバキア人もナショナリズムが芽生え、1848年後半にチェコと共に戦った。
プラハ・スラブ会議でチェコ人のフランティシェク・パラツキーはスラブ人の統一国家を主張しており、チェコ・スロバキア主義の元となった。
1918年にオーストリア=ハンガリーが崩壊し、民族自決という事でチェコ人,スロバキア人は独立してチェコ人のトマーシュ・マサリクが主導して合併して、チェコスロバキアは成立した。
当初、スロバキア人は同じスラブ民族なので寛容な統治をすると思われたが、チェコ人が社会のほぼすべてを支配した為、スロバキア人はこの現状に不満を募らせた。
1938年にミュンヘン会談でプラハは無血占領され、解放者であるドイツに好印象を抱いていた人が多かった事から、ドイツの保護国である、スロバキア共和国が成立した。
第二次世界大戦後、チェコスロバキアは解放されたが、ソ連の影響力が高まってた影響でエドヴァルド・ベネシュ率いる国民社会党は選挙で敗北して、クレメント・ゴットワルト率いる共産党が政権を握った。
1968年にスターリン主義に反対する人民により、スロバキア人のアレクサンデル・ドゥプチェク政権が誕生した。
ドゥプチェクによるプラハの春と呼ばれる自由化・民主化路線が布かれた。
ソ連はこの自由改革により、チェコスロバキアが共産圏から離れる事を懸念し、ワルシャワ条約機構のソ連,ブルガリア,ポーランド,ハンガリーがチェコスロバキアに侵攻し、スロバキア人のグスターフ・フサーク政権が成立する事となった。
1989年にビロード革命が起こり、共産党体制は崩壊して民主化し、1992年に民主スロバキア同盟が選挙に勝利した事でチェコとスロバキアに別れ、チェコスロバキアは終焉を迎えた。(ビロード離婚)

国歌
我が家何処やという題名で1番は現在のチェコの国歌,2番は現在のスロバキア国歌が使われている。
1番の和訳
我が家何処や
我が家何処や
猛る水は草地を横切り
松の木々は岩山にざわめく
庭は春花に燦然と輝き
眼前に広がる地上の楽園!
これぞかの美しき国
我が家チェコの国
我が家チェコの国!

2番の和訳
稲妻がタトラの上を走り去り
雷鳴が轟く
いざ之を静めん、兄弟よ
彼らが消え去りしとき
スロバキア人は蘇る

なお分離独立前は略称で「チェコ」と呼ばれることがよくあった。スロバキアの立場はどうしたんだ。

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