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ワルシャワ条約機構

わるしゃわじょうやくきこう

ワルシャワ条約機構は、ワルシャワ条約(友好、協力および相互援助についての条約)に基づき、ソ連を中心とした東ヨーロッパ諸国によって結成された軍事同盟
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概要編集

 ワルシャワ条約(友好、協力および相互援助条約)は、1955年5月14日以降、ソ連の主導的な役割に基いて、ヨーロッパの社会主義諸国家の軍事同盟の設立を行い、ワルシャワ条約機構(ロシア語ではОрганизация Варшавского договора, ОВД)と、冷戦中の世界の二極化を固定化した。

経緯編集

 条約の締結は、西ドイツNATO加盟に対する返答としてなされた(Yost, David S. (1998). NATO Transformed: The Alliance’s New Roles in International Security. Washington, DC: U.S. Institute of Peace Press. p. 31.)。ワルシャワ条約は、1955年5月14日、ポーランド首都ワルシャワで行われたヨーロッパ諸国家会議にて、ヨーロッパにおける平和の保証と安全のため、アルバニア人民社会主義共和国、ブルガリア人民共和国、ハンガリー人民共和国、ドイツ民主共和国ポーランド人民共和国、ルーマニア社会主義共和国ソ連チェコスロヴァキア社会主義共和国によって調印された。


通称にワルシャワを含んでいるのは、調印地にあやかってのもの。本部があったのはモスクワ。


平和と社会主義のための同盟

 うち、アルバニアは1961年以降ソ連と対立し、1968年にはプラハ事件の後に公式に条約を脱退。

 1985年時点のワルシャワ条約機構の戦力は、756万2987名の軍人によって構成された。1990年、機構構成員は696万700名まで減少した。

 1955年6月5日、条約は発効した。1985年4月26日、条約の有効期限が過ぎたことにより、20年延長された。

 1989年から1990年にかけての中央・東ヨーロッパ諸国における共産主義体制の政変の後、ワルシャワ条約機構は社会主義諸国の軍事・政治同盟としての存在意義を喪失した。1991年2月25日、ОВД加盟諸国家はその軍事機構を解散し、1991年7月1日にはプラハで条約の効力の完全な中止に関する議定書に調印した(Не разрыв, а истинное партнерство // Известия, 2 июля 1991)。

ワルシャワ条約編集

アルバニア語Pakti i miqësisë, bashkpunimit dhe i ndihmës së përbashkët, Pakti i Varshavës
ブルガリア語Договор за дружба, сътрудничество и взаимопомощ, Варшавски договор
ドイツ語Vertrag über Freundschaft, Zusammenarbeit und gegenseitigen Beistand, Warschauer Vertrag
ポーランド語Układ o Przyjaźni, Współpracy i Pomocy Wzajemnej, Układ Warszawski
ルーマニア語Tratatul de prietenie, cooperare și asistență mutuală, Tratatul de la Varșovia bzw. Pactul de la Varșovia
ロシア語Договор о дружбе, сотрудничестве и взаимной помощи, Варшавский договор
スロヴァキア語Zmluva o priateľstve, spolupráci a vzájomnej pomoci, Varšavská zmluva
チェコ語Smlouva o přátelství, spolupráci a vzájemné pomoci, Varšavská smlouva
ハンガリー語Barátsági, együttműködési és kölcsönös segítségnyújtási szerződés, Varsói Szerződés

 正式名称は「友好、協力および相互援助に関する条約」。

加盟国およびその政権与党編集

国名政権与党名原語名
ソ連ソ連共産党Коммунистическая партия Советского Союза
ルーマニア社会主義共和国ルーマニア共産党Partidul Comunist Român
ブルガリア人民共和国ブルガリア共産党Българска комунистическа партия
ポーランド人民共和国ポーランド統一労働者党Polska Zjednoczona Partia Robotnicza
ドイツ民主共和国ドイツ社会主義統一党Sozialistische Einheitspartei Deutschlands
チェコスロヴァキア社会主義共和国チェコスロヴァキア共産党Komunistická strana Československa
ハンガリー人民共和国ハンガリー社会主義労働党Magyar Szocialista Munkáspárt
アルバニア人民社会主義共和国アルバニア労働党Partia e Punës e Shqipërisë

 ボリシェヴィキ党の正式名称は変遷している。

ロシア語名略称日本語期間
Российская социал-демократическая рабочая партияРСДРПロシア社会民主労働党1898年から1917年
Российская социал-демократическая рабочая партия (большевиков)РСДРП(б)ロシア社会民主労働党(ボリシェヴィキ)1917年から1918年
Российская коммунистическая партия (большевиков)РКП(б)ロシア共産党(ボリシェヴィキ)1918年から1925年
Всесоюзная коммунистическая партия (большевиков)ВКП(б)全連邦共産党(ボリシェヴィキ)1925年から1952年
Коммунистическая партия Советского СоюзаКПССソ連共産党1952年から1991年

 「ボリシェヴィキ(「多数派」の意)」は、ロシア社会民主労働党のレーニン派が名乗った呼び名。レーニン時代に、通称「ボリシェヴィキ」も含めて正式名称と指定された。


Съезд постановляет именовать впредь нашу партию (Российскую социал-демократическую рабочую партию большевиков) Российской коммунистической партией с добавлением в скобках «большевиков».

(本大会は、今後、我が党〔ロシア社会民主労働ボリシェヴィキ党〕をロシア共産党と呼び、括弧に入れて「ボリシェヴィキ」と付け加えることを、決定する)

(В. Ленин, «СЕДЬМОЙ ЭКСТРЕННЫЙ СЪЕЗД РКП(б)», написано 8 марта 1918 г. Напечатано 9 марта 1918 г. в газете «Правда» № 45)

条約内容編集

 条約は前文と11条項から成立した。条約規定と国連憲章にのっとり、ワルシャワ条約機構の加盟国は武力の威嚇ないしはその行使を自制する義務と、そして加盟国のいずれか一国が攻撃を受けた場合、軍事手段を含めたあらゆる手段で必要な援助を直ちに与えるものとされた。

 統合軍司令部(Объединённое командование вооружёнными силами, ОКВС)が、軍の相互関係の保証とワルシャワ条約機構加盟国の防衛能力強化のため設置された。


指導機関編集

政治諮問委員会(ПКК)編集

 組織の最高位合同機関。ワルシャワ条約の遂行の関係で生じた問題の協議および審査の統率のため設立された。

軍統合司令部(ОКВС)編集

 軍の相互関係、およびワルシャワ条約加盟国の国防能力の保証が目的。

司令部編集

 機構の司令部はモスクワに予定された。1972年10月3日、西側の出版物に初めて、ソヴィエトの指導部がリヴォフに連絡体系を伴った地下の防衛施設の建設を準備したことに関する情報が掲載された。その措置は、機構の運営機関をポーランド人民共和国、チェコスロヴァキア社会主義共和国、ハンガリー人民共和国、ルーマニア社会主義共和国の国境線へと近づけ、長期的にはそれらの指定された衛星国の軍の外国人の士官の往来を加速することになっていた(Soviet Union: Military. // The Report on World Affairs. — 1 October — 31 December 1972. — Vol. 53 — No. 4 — P. 305)。1973年3月、モスクワからリヴォフへの機構の司令部の移動に関する情報が外国の新聞で確認された。指定された都市と市街地の線上には、核爆発に耐えうるコンクリートの地下壕が建設され、そこはワルシャワ条約機構軍の指導機関が置かれることになっていた。西ドイツの軍事評論家の査定では、この措置は有線通信、さらに起こるべき状況の作戦的対応、そして中央ヨーロッパで様々な軍事紛争もしくは市民暴動に備えた軍の指揮権の譲渡の簡略化に向けられたものだった。リヴォフは、発達した鉄道インフラストラクチャーと自動車網を備えた重要な輸送交差点だった(現地と周辺の諸都市を通じて、ソ連のヨーロッパ部分を東欧諸国に連結する最大の幹線が通っていた)(Warsaw Pact: Headquarters to be moved. // Military Review. — March 1973. — Vol. 53 — No. 3 — P. 96 — ISSN 0026-4148.)。その後、決定は再検討され、リヴォフには機構の最高司令部のスタッフの面会が行われた(例えば、1985年10月26日から29日、ワルシャワ条約参加国の、諸国家統合軍の軍事参議会が開催された)。

歴代総司令官編集

ワルシャワ条約機構統合軍総司令官編集

期間名前役職
1955年から1960年コーニェフ、イヴァーン・スチェパーノヴィチソ連邦元帥
1960年から1967年グリェーチコ、アンドレーイ・アントーノヴィチソ連邦元帥
1967年から1976年ヤクボーフスキイ、イヴァーン・イグナーチエヴィチソ連邦元帥
1977年から1989年クリコーフ、ヴィークトル・ゲオールギエヴィチソ連邦元帥
1989年から1991年ルーシェフ、ピョートル・ゲオールギエヴィチ陸軍上級大将

ワルシャワ条約機構統合軍参謀総長編集

期間名前役職
1955年から1962年アントーノフ、アレクセーイ・インノケーンチエヴィチ陸軍上級大将
1962年から1965年バートフ、パーヴェル・イヴァーノヴィチ陸軍上級大将
1965年から1968年カザコーフ、ミハイール・イリイーチ陸軍上級大将
1968年から1976年シテミェーンコ、セルゲーイ・マドヴェーエヴィチ陸軍上級大将
1976年から1988年グリプコーフ、アナトーリイ・イヴァーノヴィチ陸軍上級大将
1989年から1991年ローボフ、ヴラジーミル・ニコラーエヴィチ陸軍上級大将

 ソ連軍の将官が就任した。

行動編集

 1968年にはチェコスロヴァキアに介入し民主化運動「プラハの春」を武力鎮圧した。

声明編集

 モスクワにおけるПККの会議(1958年)では、その中でNATO・ワルシャワ条約に参加した諸国家間の不可侵条約の締結を提起する宣言が採択された。

 モスクワにおけるПККの会議(1960)で採択された宣言では、同盟諸国家は、西側の大国が核爆発を繰り返さない限り、核実験を一方的に拒絶するというソヴィエト政府の決定を是認し、核兵器試験の廃絶に関する条約作成の完成のため有利な状況を樹立することを呼びかけた。

 ПККのワルシャワにおける協議(1965年)では、NATOの多面的な核戦力の創設計画に関連して出来上がった情勢について討議され、またそれらの計画の実現した場合に向けて防衛手段が審議された。

 ブダペストにおける協議(1969年3月)では、ヨーロッパにおける平和と安全の強化に関する宣言が採択された。ПККのブダペスト協議は、ワルシャワ条約軍事機構の強化・完成の問題の審議と並び、ヨーロッパの安全の問題に大きな注意があてられ、ヨーロッパの軍事的な分断の解決とヨーロッパ諸国家・国民の間の平和協力、集団安全保障の堅牢なシステムへの道を模索することを目的とした、全ヨーロッパ諸国への、汎ヨーロッパ会議の準備・提起の呼びかけが採択された。

演習編集

 共同の指令系統・参謀本部に基づく軍事演習・機動演習も行われた。演習は1963年の「4重奏」、1965年の「十月の嵐」、1967年の「ロドピ」、1967年の「ドニエプル」、1968年の「北方」、1970年の「武器による兄弟」、1981年の「西方・81」、1982年の「盾・82」などのコードネームで行われた。

諜報活動編集

 ワルシャワ条約発効中、加盟諸国の諜報機関の間では絶えず調整が行われ、1979年以降はグローバル化された対敵諜報システムが働いていた。諜報システムはソ連、ブルガリア、ハンガリー、ポーランド、チェコスロヴァキア、東ドイツの他、ワルシャワ条約に入っていないベトナムモンゴルキューバの通信網にも接続されていた。

崩壊後編集

 いくつかのワルシャワ条約加盟国は、その後NATOEUに加盟した。

関連項目編集

冷戦 核戦争

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