ルーマニア社会主義共和国
英語:Socialist Republic of Romania
ルーマニア語:Republica Socialistă România
共産党一党独裁時代のルーマニア。1945年から1989年まで存在した。
国旗はルーマニア王国時代の三色旗の中央に社会主義的な国章を配置したもの。社会主義共和国崩壊後に国章が取り除かれて王国時代の国旗に戻された。1965年8月21日までの国号はルーマニア人民共和国(Republica Populară Romînă)。
1945年5月8日の第二次世界大戦の敗北によって暫定的に成立し、1947年12月30日にルーマニア王国の国王ミハイ1世が退位して正式に成立。当初はソ連の衛星国だったが、チャウシェスク時代の1968年にソ連のチェコスロバキアへの内政干渉とその後の武力侵攻(プラハの春)に抗議。アメリカ合衆国や西ヨーロッパなど西側諸国との関係も深く、共産主義国家でありながら独自の外交戦略を展開する国として存在感を示した。
ソ連からの干渉を撥ね退けられた理由のひとつにはヨーロッパでは数少ない産油国だったからという面もある。対外債務返済のための無理な輸出政策(飢餓輸出)が祟って食料や物資が極端に不足するようになり、1989年12月25日のルーマニア革命によって崩壊した。妊娠中絶や離婚を禁止したため、他の東側諸国とは異なり少子化とは無縁だったが、捨て子が路上に溢れるようになった。
終焉~ルーマニア1989革命
前述の通り、ソ連影響下の東欧共産主義諸国の中にあって西側とも結びつきが強く、存在感のあったルーマニアだが、1988年にソ連の最高指導者ミハイル・ゴルバチョフが新ベオグラード宣言を出すと、改革の進んだハンガリーやポーランドに対して、東ドイツや北朝鮮と並び、共産党の一党独裁を強める動きをした「遅れた国家」に入ってしまった。
さらに、対外債務が急激に悪化したところへ、ソ連への援助がなくなり(ソ連はこの頃、チェルノブイリ原子力発電所事故の対処と西側への賠償金支払いで東欧国家への援助どころではなくなっていた)外貨を稼ぐために極端な輸出政策を執ったため国内の物資が不足し、国民は指導者層への不満を募らせていた。
きっかけは西部ティミショアラで起きたデモだった。ルーマニア西部は有史以来ハンガリーとの国境係争が何度となく起こっていた関係で、ルーマニア領内にマジャール人(ハンガリー人)が多く居住していた。チャウシェスク政権はマジャール人に対し差別的な政策を採ったため、住民には不満が鬱積していた。12月16日に発生したセクリタテア (秘密警察)との衝突で多数の死傷者を出す事態になると、反体制デモはルーマニア全土に飛び火してしまった。
首都ブカレストでもデモ隊とセクリタテア、軍の小競り合いが始まった。しかし、セクリタテアは初っ端から発砲を繰り返していたのに対し、軍は車両でデモ隊を妨害するのみで、市民を殺傷することはなかった。
しかし、これに焦れたチャウシェスクが国防相ヴァシーリ・ミリャに対し軍に実力行使を強要。しかしミリャは「人民軍は人民を守るために存在しており、人民に向かって発砲は出来ない」としてこれを拒否。
翌日、ミリャが銃殺体になって発見される。当初拳銃自殺と発表されたがチャウシェスクに射殺されたという噂がたちまちにして広まってしまった(なお、ミリャの死の経緯は現在も不明である)。これがきっかけで軍がデモ隊側についてしまった。セクリタテアは抗戦を続けるが戦車を保有する軍には到底対抗できるはずもない。
軍と民衆は共産ルーマニア旗から共産主義を示す中央の円い紋章を切り取った旗を掲げ、大統領派を「テロリスト」と断じ掃討にかかった。
さらに共産党の反チャウシェスク派も合流、救国戦線評議会が立ち上げられ、ブカレストの主要部を掌握した。
チャウシェスクはブカレストからの脱出を図るがその光景は西側のテレビ局によって実況中継されるというお粗末さであった。12月23日にチャウシェスク夫妻は逮捕された。
当初、救国戦線は普通裁判にかけることを計画していたが、セクリタテアを中心とする大統領派の抵抗が激しく、奪還作戦や生存説の流布などが懸念された結果、特別軍事法廷が開かれた。チャウシェスク夫妻は大量虐殺と不正蓄財の罪により死刑判決を受け、即日銃殺刑になった。
12月26日、救国戦線評議会は新指導体制を発表した。ここに44年間続いた共産ルーマニアは幕を閉じたのである。
国歌
歌詞 |
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Trei culori cunosc pe lume, |
Amintind de-un brav popor, |
Ce-i viteaz, cu vechi renume, |
În luptă triumfător. |
Multe secole luptară |
Străbunii noştri eroi, |
Să trăim stăpîni în ţară, |
Ziditori ai lumii noi. |
Roşu, galben şi albastru |
Este-al nostru tricolor. |
Se înalţă ca un astru |
Gloriosul meu popor. |
Suntem un popor în lume |
Strâns unit şi muncitor, |
Liber, cu un nou renume |
Şi un ţel cutezător. |
Azi partidul ne uneşte |
Şi pe plaiul românesc |
Socialismul se clădeşte, |
Prin elan muncitoresc. |
Pentru-a patriei onoare, |
Vrăjmaşii-n luptă-i zdrobim. |
Cu alte neamuri sub soare, |
Demn, în pace, să trăim. |
Iar tu, Românie mîndră, |
Tot mereu să dăinuieşti |
Şi în comunista eră |
Ca o stea să străluceşti. |
詳細
公用語 ルーマニア語
首都 ブカレスト
(1965年 - 1974年)大国民議会幹部会議長
(1965年 - 1974年)国家評議会議長
(1974年 - 1989年)大統領
1947年 - 1948年 大国民議会(5人のメンバーから構成)
1948年 - 1953年 コンスタンティン・I・パルホン
1953年 - 1958年 ペトル・グローザ
1958年 - 1961年 イヨン・ギョルゲ・マウレル
1961年 - 1965年 ギョルゲ・ギョルギュウ=デジ
1965年 - 1967年 キヴ・ストイカ
1967年 - 1974年 ニコラエ・チャウシェスク
1974年 - 1989年 ニコラエ・チャウシェスク
変遷
ソビエト連邦による占領 1945年5月8日
君主制廃止 1947年12月30日
国号変更 1965年8月21日
チャウシェスクの死 1989年12月25日