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概要編集

ルーマニア語:Nicolae Ceaușescu

英:Nicolae Ceausescu


1918年1月26日~1989年12月25日。

20世紀後半のルーマニアで君臨した政治最高指導者で初代大統領第一人者)。

歴史的な独裁者の一人に数えられる。


20世紀後半のルーマニアの共産党独裁者として君臨したが、ソビエト連邦の『血も涙も無い』ゴルバチョフ政権に一瞬で見限られる。更にソビエトに市民革命側へと武器弾薬を支援される形で引き摺り下ろされ、最後は〈市民革命政権〉に公開処刑された。


経歴編集

黎明期編集

ルーマニアの農家に生まれたチャウシェスクは首都ブカレストに上京し、共産党に入って政治活動をするも、官憲に捕まって収容所に何度も投獄された。この頃に生涯の伴侶・エレナと出会う。

第二次世界大戦ルーマニア王国は敗戦国となり、ソ連に占領されて共産主義体制に移行。チャウシェスクも政治局員として政治に参画できた。1965年に党書記長に就任し、ルーマニア労働者党からルーマニア共産党へ党名を戻し、国名を「ルーマニア社会主義共和国」に変更。


東欧の異端児編集

東側陣営であったがソ連とは距離を置き、独裁者ながら教養知性を持った開明的政治家としてふるまった。

積極的に東西両陣営を訪問して各国首脳と会談するという独自路線外交を進め、「東欧の異端児」と呼ばれた。

実際、初期の頃は第二次大戦期に進駐してきたソ連軍の横暴さに対する恐怖が残る民衆感情に配慮して東側諸国でありながら反ソの姿勢を打ち出し、中立を謳っていたユーゴスラビア西ドイツと友好関係を構築し、西側諸国の好意と多大な融資を得て経済活性化を図るなどまったくの虚飾ではなかった。


独裁者へ編集

しかしながら、いったいどうしたことか文化大革命中の中華人民共和国や個人崇拝が強化されていた北朝鮮といった、アジア圏の共産主義国家を「先進的」だと憧れるようになり、中国共産党朝鮮労働党を見習うようになってしまう。

自身と家族エレナ・チャウシェスクといった1%の人間のみが富を独占し、99%の勤労者国民(プロレタリア)は明日食べるものにも事欠く生活であった。一応、社会主義体制では餓死しないようにされており、最低限の食事は配給されたが、利益や成果は国民に還元されなかったという無間地獄。そして政権に刃向かう人々は共産主義政府特有の器量の狭さで秘密警察セクリタテアに捕縛・粛清された。このことからチャウシャスクはしばしば、西側諸国から「吸血鬼のような男」と呼ばれたという(ルーマニアはドラキュラの題材になるなど、古くから吸血鬼伝説がある)。


国家破綻編集

ルーマニア政権の独裁者となってから後年に入ったころ、経済がついに救いようが無いほど停滞し始める。

離婚と堕胎を禁じて人口増加を図ったが、逆に育てきれなくなった親に捨てられた孤児国内に溢れる事態となった

これは俗にチャウシェスクの落とし子と呼ばれ、この時期に生まれた彼らが少年〜青年期を迎える1990年代に掛けて大量発生し、社会問題となった。ある者はストリートチルドレンに堕ち、ある者は孤児でパンク寸前の施設に収容されネグレクト同然の生活を強いられたという。

ヘンゼルとグレーテル

西側各国から融資を受けたが、その対外債務返済のために物資のほとんどを輸出に回してしまい、経済は破綻状態に陥る。

一方でチャウシェスクは自身の個人崇拝を強め、チャウシェスクとその一族は贅沢な暮らしをし、虚偽の宣伝を広めた。国民生活は逼迫し、国民を顧みないチャウシェスクへの反感は高まったが、秘密警察セクリタテアによって監視社会が構築され、ますます国民の生活は抑圧された。


ソ連撤退編集

1989年にゴルバチョフのペレストロイカにより『徹底的な民主主義以降路線』が敷かれ、ソ連は同盟社会主義共産党独裁政権に「民主主義へ移行する指令」をだしていた。

ルーマニアにも民主化・自由化の機運が高まり、チャウシェスクはかつての反革命騒乱のように、ブレジネフフルシチョフと同じ処置(戦車軍団による市民の皆殺しも含めた鎮圧)を求め、ソビエト連邦とWTO軍(ワルシャワ条約機構軍)に援助を求めた。

ゴルバチョフは『この際だから、時代遅れのルーマニアの終身大統領には引退してもらう』として、チャウシェスク政権を赤い皇帝なみの冷酷さで鎮圧拒否をした。独裁政治を進めるチャウシェスクを見放した上、市民化革命勢力側に武器弾薬を提供しルーマニア共産党独裁政権の打倒を支援。

チャウシャスクは共産党独裁者として皇帝のように優雅に振舞っており、ゴルバチョフの改革に否定を示していた上、かつてからソビエト連邦や他の東欧社会主義国家に対しても上から目線を公然と行った。ゴルバチョフからすれば『ルーマニアはソビエト社会主義民主政治革命に反抗する反革命者』ということになった。


革命編集

そんなわけでソビエト連邦に政権打倒を許可されたルーマニアでは国内の市民(人民)に暴動が多発し、チャウシェスクは自分を称賛する集会を開いて演説したが、群集は独裁政治に対する抗議集会へと変貌し、収拾がつかなくなってチャウシェスクは動揺してしまい、おまけにその一部始終が全国にテレビ中継されていたため、抗議運動は全国へ拡大。「ルーマニア革命」となった。


最期編集

ソ連軍不介入が判明すると大統領直属のルーマニア革命防衛軍も革命軍に参加し、完全にチャウシェスクは孤立して政権は崩壊し、ヘリで逃亡(途中から自動車)。

しかし、結局は革命軍に捕まって裁判を受け、夫婦ともに公開処刑となった。その様子は当時の日本でも生中継された。

ソビエト連邦はこの市民革命政府を公認し、後継国家『ルーマニア』も承認した。

旧共産主義政権の幹部の犠牲に関してはお咎めなしとした。


関連イラスト編集

ニコラエ・チャウシェスク現代史人物シリーズ ニコラエ・チャウシェスク①

現代史人物シリーズ ニコラエ・チャウシェスク②ヴァージン・キラーポーズ~コマネチ

チャウシェスク


関連タグ編集

ルーマニア 独裁者 冷戦 東欧

暗君/愚政 - 主に「チャウシェスクの落とし子」からの評価。


WE_ARE_THE_CHAMP - ルーマニア革命でチャウシェスク夫妻が失脚した際、市民がこの曲の替え歌を合唱していた。

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