詳細はwikipedia「P-47_(航空機)」にて
概要
第二次世界大戦中にリパブリック社が開発し、アメリカ陸軍に制式採用された空冷単発単座の高高度戦闘機。愛称は「サンダーボルト」、「ジャグ」。
単発機ながら大型で重く、大出力エンジンにより縦方向の機動に優れる。戦闘爆撃機としての活躍が有名。
開発前史
リパブリック社の前身は、元ロシア海軍のエース・パイロット、アレクサーンドル・セーヴェルスキイ(アレキサンダー・セバスキー)がアメリカへ亡命後の1931年に設立したセバスキー航空機会社で、彼自身が社長・設計・テストパイロットを兼任する非常に小さな設計事務所であったが、アレクサンダー・カルトベリを主任設計者に雇い、1934年のアメリカ陸軍戦闘機競争試作に参加した。
競争試作でP-35が制式採用され、初めてアメリカ陸軍からの受注を得る。引き込み脚や密閉式コクピットを備えるアメリカ陸軍初の近代的な戦闘機であった。
P-35の胴体下部に排気タービン(ターボ)加給機を搭載した高高度試作機AP-4は、機体が太く、内側引込式の主脚を持ち、空力特性も改善された。
1939年5月の評価試験ではカーチス社のXP-40(後のP-40)に敗れたが、陸軍は評価試験の為にYP-43「ランサー」として13機を発注した。
6月、利益が上がらないセバスキー社は、リパブリック社として組織を再編成した。
YP-43の飛行試験の結果、陸軍は、生産型のP-43をさらに54機発注。
しかし、ヨーロッパ戦線での戦訓からP-43は性能不足なのが判明し、リパブリック社は発展型のAP-4JとAP-4Lを並行して開発し、AP-4JはP-44として80機の受注を得たが、これも性能不足と判り全てキャンセルされた。リパブリック社は経営難に陥る。
開発
1940年、AP-4Lを基に、軽量戦闘機AP-10が開発された。陸軍はこの計画を支援し、XP-47の制式名称を与えた。しかし、XP-47もドイツの戦闘機に敵わないのが判り、リパブリック社はXP-47A案を提示するが却下された。カルトベリはXP-47を全面変更型した機体案を陸軍に提示し、XP-47Bの名称で試作機が発注された。
XP-47Bは2,000馬力級の空冷二重星型18気筒P&W R-2800「ダブルワスプ」エンジンとターボ加給機を搭載するため、機体は巨大なものとなり、設計者のカルトベリも「こいつはスタイルのいい恐竜になる」と予言した。両翼内には12.7mm機銃を計8挺装備する事になっていた。コクピットは広くて居住性が良く、エアコンまで備えている。
陸軍はリパブリック社救済と生産ライン維持のため、P-43を80機生産させる事にした。
同時期、レンドリース法に基き、中華民国支援のためP-43Aを改修した「P-43A-1」も108機生産された。
P-47B
5月6日、XP-47Bが初飛行し、素晴らしい性能を示した。陸軍にP-47Bとして制式採用され、171機が発注された。
1943年1月、イギリスに配備され、4月8日、ドイツ爆撃に向かうB-17の護衛戦闘機として初めて実戦に参加した。
規格外の大型機ならではのトラブルもあった。
・長い離陸距離が必要で、着陸速度も速く、離着陸が難しい。
・大出力のため、操縦が難しい。
・動翼を動かすのが大変で、羽布張りの動翼は高高度で破れ易い。
・急降下時に遷音速域に入るため衝撃波による震動が起こる。
・異常に舵が重い。
いずれも当時未知の領域であったが、動翼の全金属化、ターボ加給機の改良などの改修が行われ、これらは順次解消されていった。
P-47C
陸軍はP-47Bを改修したP-47Cを57機発注し、1942年9月に最初の機体が引き渡された。
その後もP-47Cは胴体の延長、増槽取付ポイントの追加、エンジン装換などが行われ、少しづつ改良された。
当時の航空機には珍しく、「高度が上がるほどエンジンがよく回るようになる」と評判だった。
P-47D
P-47の生産が追いつかなくなり、インディアナ州エヴァンズヴィルに新工場が建てられた。当初、「P-47D」はエヴァンズヴィル工場製のP-47の事であった。
P-47Dは12,602機が生産され、シリーズ最多生産型となったが、絶え間ない改良が加えられ、D-25から採用されたバブル・キャノピーなどもあり、別物のような外見の機体になって行った。
機内タンクの増設により航続距離は1,600kmを超えた。
P-47N
1944年9月に初飛行した、主翼を延長して燃料タンクを増やした最終型。航続距離は3,200kmに達した。対日戦向けの長距離型で、B-29の護衛も視野に入れ開発されている。
1945年春、伊江島と硫黄島に配属されたが、主な任務は地上攻撃だった。
実戦において
重量級で降下速度が速く、大出力エンジンにより上昇力も強いため、急降下からの一撃離脱戦法を得意とした。
しかも大きなプロペラ直径のおかげで、急上昇も大得意と来ている。
つまり、追いかけられたら最後、撃破しない限り急降下でも急上昇でも逃げられない戦闘機なのだ。
被弾に強い頑丈なボディに高火力かつ重武装のP-47は、敵であるドイツ空軍パイロットをして『P-51よりP-47の方が恐ろしい』と評されている。また今までのスピットファイアなどの相手に対して苦しくなれば急降下で逃げ切れたBf109、Fw190の強みが全く通用しないP-47はドイツ軍パイロットには脅威であった。
P-47D以降は太平洋戦線にも配属され、対日戦で活躍した。
P-47に搭乗した主なエースパイロットとしては、
・フランシス・S・ギャビー・ガブレスキー中佐:31機撃墜
・ロバート・S・ボブ・ジョンソン大尉:28機撃墜
・ヒューバート・A・ハブ・ゼムキ大佐:20機撃墜
…などが挙げられる。
イギリスに配属されたP-47はドイツ爆撃に向かうB-17、B-24などの護衛を務めたが、帰り道、ついでに地上目標を銃撃した結果、強力な戦闘爆撃機でもある事がわかった。空冷エンジンを搭載し、火災対策が厳重なP-47は被弾にも強い。
1943年末にP-51に爆撃機護衛の仕事を譲るも、ますます地上攻撃用の装備が拡充され、P-47D-40ではHVAR 127mmロケット弾用のコンパクトな新型ロケット・ランチャーが両翼下に10基取り付けられた。
ドイツ軍で言うところの「ヤーボ(Jabo)」の代表であった。
愛称のジャグの語源であるジャガーノートに相応しく合計では何千という戦車・機関車・航空機、トラックなど破壊しており、地上を逃げ回るドイツ兵からすればまさに悪魔である。
1944年にもなるとドイツ空軍の勢力が下火になり、来襲する戦闘機も少なくなった。
そこでP-47は爆撃機護衛任務の帰り道で地上の目標を機銃掃射し、猛威をふるっている。
機銃掃射では戦車を破壊することは出来ないが、エンジン火災を起こす位は十分できた。(ましてやドイツ戦車はガソリンエンジン駆動で、火災をおこし易い)
P-47に興味を示したソ連軍に対し、1944年にアメリカは2機のP-47Dを評価試験用に提供した。しかしソ連のテストパイロットは、自国の戦闘機に比べ重く動きは鈍く上昇力も劣る、一方乗り心地は良く飛行性能は安定しており離着陸性能も良い、と評価した。ソ連空軍・防空軍では使い道が認められず、受領された196機はその搭載量と航続距離を評価した海軍航空隊に配備され、バルト海で対艦攻撃に用いられた。
1948年、アメリカ陸軍航空隊から退役。
1950年、朝鮮戦争勃発時に残存する機体を集めたが、充分な機数が揃わず使用されなかった。
1953年、アメリカ州空軍から退役。
ほぼ第二次世界大戦で使い尽くされたP-47だったが、その成果と意義は大きかったと言える。
また、P-38等と共に、航空用ターボ加給機を製品として完成させるのに貢献した。
性能諸元(P-47D)
全長 | 11.0m |
翼幅 | 12.4m |
空虚重量 | 4,800kg |
エンジン | 空冷二重星型18気筒P&W R-2800ダブルワスプ×1 |
最大出力 | 2,430馬力 |
最高速度 | 697km/h |
航続距離 | 1,657km |
実用上昇限度 | 12,800m |
乗員 | 1 |
固定武装 | ブローニングM2 12.7mm機銃×8 |
爆弾 | 908kg |
ロケット弾 | 127mm×10 |
余談
A-10サンダーボルト
「サンダーボルトの愛称はA-10が引き継ぐことになった。
P-47は高高度戦闘機のはずだが、対地攻撃の印象の方が強かったのだろう。
頑丈さ逸話
1943年6月26日、ロバート・S・ジョンソン大尉搭乗のP-47はエゴン・マイヤー中佐のFw190に全弾叩き込まれても火もつかなかった。マイヤー中佐は敬礼し引き揚げていった。ジョンソン大尉が基地に帰還後、自機の風穴を数えたが、200を越えたところで止めたという。
フレンドリー・ファイア
しばしば地上の友軍からFw190と間違われて誤射されるという被害を受けた。P-47の胴体は縦長だが左右方向にはさして幅はなく、真下からの機影がFw190に似通っていたため。
(詳細はFw190の記事にて)
納屋の戸
空軍技術局長が設計者のヴィリー・メッサーシュミットにBf109航続力の増加を求めたところ、メッサーシュミットは「あなたの望むものは、速い戦闘機なのか、それともただの納屋の戸なのか」と怒鳴りつけた。
後日、メッサーシュミットは件の技術局長と共に防空壕に逃げ込む羽目になり、技術局長は機銃掃射をかけるP-47を指差し、「ほら、そこにきみの言った納屋の戸が飛んでいるぞ」とやり返したという。
(詳細はBf109の記事にて)
トラック
P-47の登場当初、大日本帝国陸軍は「こんなトラックで空中戦なんて出来るのか」と嘲笑っていた。
ところが大戦末期、アメリカ軍のB-29爆撃機迎撃のため高高度迎撃機が必要になり、陸軍は2,000馬力級エンジンにターボ加給機を備えた戦闘機を試作した。キ87やキ94IIという、殆どP-47並の機なみの大型機である。
2,000馬力級エンジンにターボ加給機を備えたら、どうしてもP-47の様な「トラック」になるという事であり、当時の関係者には「何も判っていなかった」とその不明さを恥じる人もいる。
雷電
大日本帝国海軍の局地戦闘機。横から見れば同じような大柄でコクピットが広く、英訳すれば名前は同じ。
しかし共通点はそれくらいで、開発コンセプトや性能はまったく異なる。
フェアリー・フルマー
同時期にイギリス海軍で運用された艦上戦闘爆撃機。同じ連合国陣営なのにどうしてこうなった…?
軍の評価
パイロットからはその頑丈な機体での生存率の高さ、重武装などから好評であった本機ではあるが、上層部からは運動性に勝り、航続距離、コストなどの総合的見地からP-51の方が高く評価された。またその運動性の低さから制空戦闘機には向いていないと最後まで見られていたともいう。低空での戦闘ではその重量が仇となり、日本陸軍の隼にダッシュ力で負けて追いつけない事態も発生したという。
もっともM26パーシングなどの件もあるので、軍の上層部の意見など現場の人間からすればあてにならないのは周知の通りである。(パーシングの件については悠長に構える上層部に対しぶちギレた兵器局長が参謀総長の目の前で上層部の人間に対し「白黒つけんかい、コラァ!」と言わんばかりの勢いで恫喝し、結果開発させるまでに至った)。
外部リンク
wikipedia「P-47_(航空機)」