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概要編集

M26パーシングアメリカ陸軍により第二次世界大戦後期より朝鮮戦争初期まで使用された重戦車(後に中戦車種別変更)である。この戦車の後継として改良型であるパットン戦車が採用(主力戦車として。重戦車M103が後に採用されるも実戦に使用されず)された。


「パーシング」の名は第一次世界大戦時の将軍ジョン・パーシングが由来する。

実は初めてアメリカ陸軍により公式に「愛称」がつけられた戦車でもある。それまでのシャーマンリー/グラントは、供与された英国が歩兵戦車に人名の愛称を与える自国の慣例に倣って勝手につけた通称だった。


開発経緯編集

第二次世界大戦中期よりアメリカ陸軍ドイツ軍アフリカにて戦っていた。その当時アメリカM4中戦車を主力として使用していたが、敵の主力である重戦車ティーガーⅠと渡り合うには役者不足であることはすでに判明しており、さらにアメリカ軍の重戦車は歩兵戦車程度のものしか所有しておらず、駆逐戦車自走砲も貧弱であったが、アメリカ陸軍の上層部は兵器の種類が増えることでの兵站への負担の増加、戦費の追加を異様なほどに恐れたため、新戦車の開発は度々具申されていたが、それらのお役所的事情で見送られていた。

だが、いざ蓋を開けてみると敵軍はⅢ号戦車Ⅳ号戦車などの旧式戦車ではなく、より新型の新鋭中戦車であるパンターが多く、M4中戦車では数で押さない限りは、殆ど歯が立たないことが判明した。

人海戦術奇襲夜襲、航空支援などの戦術を活用し抵抗のできる部隊も存在したが、現場では『ドイツ戦車恐怖症』が蔓延しており、ドイツ新鋭戦闘車両群に対抗できるまともな性能を持つ新型車両の開発が強力に要求された(将官から一兵卒に至るまで、当然ながら命は惜しいわけで、ごく当たり前のことである)。

しかし上層部は自分たちの失策を認めず、なおも『人海戦術だ!!対戦車は戦車駆逐車隊の仕事だろ!!兵の命など……』と強く抵抗。人命軽視かつ、首を縦に振らない上層部にしびれを切らし、怒り心頭の兵器局長が参謀総長の前で事の白黒をつけようかぁ!?おぉん!?と言わんばかりの勢いで彼らを恫喝。同時期、国内に軍のスキャンダルとして、我が軍の戦車はドイツの最新鋭戦車の前に無力であった!!我が軍は徒に兵を失っていった!!と派手に報じられたことで、大統領からの叱責、ひいては自らの職からの更迭を恐れた軍官僚らもついに持論を捨て、兵器局長へ白旗を上げ、観念した。

ここに至り、戦車の技術的な問題点を確認するための「ゼブラ調査団」が送り込まれ、ついに制式採用に至った。


開発編集

M4シャーマンの後継、あるいは新たな重戦車の候補として、1943年5月にT20が完成、エンジンを最新のものにしたT23を、その後にエンジンを戻し、中戦車のT25、重戦車のT26が完成。しかし、兵器の増加を拒む陸軍地上軍管理本部はこの戦車にOKを出さず、砲のデチューンすら要求していた。

しかし、戦線の状況や鹵獲した敵戦車の調査などにより、今までの戦車砲である76mm M1Aが有効でないことに遅まきながら気づき、試作品の実戦調査などにより1944年にやっと、T26に50口径90mm砲M3を搭載したM26が採用されるにいたった。

この間対戦車戦闘向けに開発されたM18ヘルキャットはそこそこな活躍はしたもののパンターやティーガーには力不足であり、1944年にM36を量産している。

この一因に、かのジョージ・パットン将軍が少なからず絡んでいたため、彼の死因となった事故は暗殺を企図した軍部の工作だったという陰謀論が生まれたのは有名。

設計上の目標はドイツのティーガーならびに次期主力中戦車(パンター)を平均的な戦闘距離で撃破できるというもの。だが試作中に所謂、バルジの戦いが起き、ティーガーⅡの存在を把握。これに対処するため更に威力のある砲を備えた戦車の開発を進める事になる(後述のT29計画)。

それまでの繋ぎとして、スーパーパーシングが開発される事となる。


性能諸元編集

乗員5名
戦闘重量約46t
全長8.64m
全高2.77m
全幅3.51m
最高速度
  • 舗装路48km/h
  • 不整地32km/h
武装
装甲
  • 主砲防盾115mm
  • 砲塔側面76mm
  • 車体前面上部100mm
  • 車体前面下部76mm
  • 車体側面50~75mm

実戦編集

第二次世界大戦編集

1944年12月にドイツ軍の行ったアルデンヌ攻勢(バルジの戦い)において、初めてまとまった数で投入された新型重戦車ティーガーⅡはアメリカ軍の防衛線を一方的に蹂躙突破してしまった。もっとも実際にはティーガーⅡは後衛で、前衛にパンターを配置していたとされる。

それを受けた1945年1月、ようやく20輌のT26E3(M26の試作車)が第3機甲師団に実戦配備され、後の4月には「M26パーシング」重戦車として制式化された。

終戦までにヨーロッパ方面には約300輌のM26が送り込まれたが、終戦までに部隊配備が間に合ったのはその2/3程にすぎなかった。

初の戦闘は45年2月。同名の映画で知られるレマゲン鉄橋の戦いである。この戦闘で820m先のティーガーを正面撃破するなどの戦績をあげ、設計上の目標を満たした事を証明した。この後起きたケルン郊外での戦闘ではティーガーパンターを撃破している。


なお、あくまでプロジェクト立ち上げ時の想定であるティーガーを仮想敵とした戦車であったため、その後継であり、さらなる重装甲を持つティーガーⅡには及ばない。

本車をもってしても、正面からの撃破が不可能であるティーガーⅡに対する対策として、スーパーパーシングと同時並行で、より強力な砲や装甲を備えた重戦車が試作された。105ミリ砲を搭載したT29という重戦車である。この車両は更に発展していき120ミリ砲を搭載したT34まで派生する。結局モノにはならなかったが、これらの大型戦車の開発経験はアメリカの戦車開発の技術的蓄積となった。


太平洋戦争編集

この兵器の太平洋戦線への投入は1945年2月の硫黄島の戦いに用いられたとも、3月の沖縄での戦いに使われたのが最初とも言われている。これはM4中戦車日本軍対戦車砲自走砲による待ち伏せ攻撃、兵士たちの肉薄攻撃で想定以上のダメージを出していたためといわれる。しかしほとんど活躍することなく(今後の本土決戦用に温存していたという説もあり)戦争は終結、保管されることになる。

もし本格的に投入していれば、朝鮮戦争にて発見された問題が明らかになったのではとも言われている。

日本軍もM6重戦車と混同された誤認情報に基づくが、本車の存在は「パーシング戦車」として把握しており、自らに対抗手段がないことに気づいた日本軍は、開発中の新中戦車であるチト(四式中戦車)の主砲強化、「チリ」(試製五式中戦車)とその支援車両新砲戦車(甲)の新規開発を行い、一応は真っ当な対策を立てていた。(物資枯渇の問題はさておき)

なお、日本占領期に本車を始めとする機甲兵器がパレードをしたことで、日本の人々に自軍戦車との落差を突きつけ、戦中の横暴で火がついていた大日本帝国陸軍への悪感情を決定的にした立役者(?)ともされる。



太平洋戦争でのIF編集

ただし、太平洋戦争当時の日本は首都である東京すらもアスファルト塗装の道は少なかった上、都会から少し離れれば、のどかな田園地帯が広がっていたために、重戦車である本車が(米軍の工作部隊をもってしても)日本本土決戦でまともに運用でき、活躍したかは疑わしいとされる。

戦後に流行した架空戦記の本土決戦ものでは、日本軍相手に無双状態の敵として登場するが、決死隊によって倒されることも多い中ボス的位置づけ。


朝鮮戦争編集

この戦車は太平洋戦争終結から5年後の1950年、朝鮮戦争にさらなる重戦車が開発される見通しであったからか、M4シャーマンの後継としての中戦車として投入された。この戦車は火力と装甲でT-34/85を圧倒していた。

しかし、ヨーロッパ戦線ではわからなかった別の問題が明らかになった。40tを超える車体に500馬力のエンジン(実はM36と馬力は同じ)という非力さであったため、山がちな朝鮮半島では機動性に問題があり、戦局が落ち着くと現場の戦車兵に「(30t程度で400馬力のエンジンを積み足回りの良い)M4の方が優れている」などと言われる始末であった。なお、本車の足回りを改善したのがM46である。


朝鮮戦争の時、中国軍はIS-2で編成された重戦車部隊を中朝国境付近に待機させていたが、実戦投入されなかった。もし投入された場合、ティーガーを撃破するために開発された東西の戦車同士の激突となっていたであろう。

IS-2とパーシングは、同じ目標で作られながら全く性格が違い、攻撃力・防御力はIS-2の方が上だが、人間工学的に優れた内部設計による乗員の負担の軽減や光学機器・無線の精度等、パーシングが優れている点も多い。


派生車両編集

スーパーパーシング編集

正式名称「T26E4」

試作段階で実戦に投入された、ただ一両だけのパーシング強化型である。

ティーガーⅡの存在が確認されると従来型のパーシングでは能力不足なのではと予想されたため、抜本的対策である次期主力重戦車(前述のT29~T34)配備までの繋ぎとして開発された戦車。

従来のパーシングよりも長砲身・大威力の砲を搭載したのが特徴である。この砲は910m先の傾斜30度・厚さ220ミリを貫通できる能力があった(参考までにティーガーⅡの装甲は砲塔正面で傾斜10度の180ミリ)。

45年3月下旬に実戦テストとして第三機甲師団に配備された。その時誰かがツッコミを入れたのだろう


「装甲が普通のパーシングと同じじゃね???やばーい☆」


あくまで、本命までの繋ぎとして開発されたので、攻撃力はともかく装甲自体は従来のパーシングだったのだ。これじゃいかんと前線部隊は(勝手に)装甲をあれこれ貼り付けた。

厚さ40ミリのボイラー用の鋼板を車体に、砲塔正面にパンターから切り出した80ミリの装甲を張り付けた。ちなみにおおよそ5トンほど車重が増加したとか。

結果外見は、そのすごく、イスラエルです……となっている。


1945年の4月、ヴェーザー川近辺の戦いで最初で最後の実戦投入をされたという話が残されている。1370m先という、従来のアメリカ戦車では考えられなかった距離に居た敵戦車(ティーガーⅡともパンター後期型とも言われる)を一撃で正面撃破し、期待を裏切らない性能を見せた。


ちなみに車体を延長し、装甲も強化したパーシング強化型の構想もあったが、こちらは実車が作られなかった。拵える前に戦争が終わったのだ。

次期主力重戦車計画と被りそうだが、おそらく計画が何らかの形で遅延した時の次善の策だったのだろう。戦時にはよくあること。たまにこちらも「スーパーパーシング」と呼ばれることがある。


戦車の最後と功績編集

この兵器は主砲や装甲の性能には何ら問題はなかった。設計上の目標であるティーガーパンターに対しては、実際にかなり優位であったからだ。だが、エンジンや足回り性能の不足という結果を元として、この兵器の弱点とされるエンジンとトランスミッションを変更した発展型であるM46パットンが作られることとなった。

なお、本車の総生産数の半分は朝鮮戦争後の日本において解体されている。

なお、この時に日本側がその内部構造を調査したことで、戦後型日本戦車の製造に必要な技術的見地が得られた事は一般にも有名である。なお、解体された鋼材はかの東京タワーの建設用の資材に利用された。当時のアメリカ製鉄板は高品質で鳴らし、当時の日本製鉄板より程度が良かった故の再利用である。

また、そうして生まれた61式戦車は本車の劣化コピーという評もあるほど、本車を参考にしたという。

本車の血統はM4シャーマンに取って代わり、マイナーチェンジ型のM46パットン、その後継で、ベトナム戦争当時の事実上の主力戦車であるM48パットン、最終改良版のM60パットン、更には湾岸戦争から登場した新世代戦車であるM1エイブラムス。現代まで続く、戦後世代のアメリカ軍戦車の血筋とその発達の礎を築き上げたという、不遇気味な戦績と別の意味での功績も残している。


関連イラスト編集

M26パーシングのタグでも投稿されている。

M26パーシング(前)M26 Pershing


登場作品編集

アメリカの戦車として登場。「bis」の追加ステージ「串良」は日本本土決戦ステージでありプレイヤーの三式中戦車の前に強敵として立ちはだかる。

アメリカの戦車としてM26とT26E1-1、T26E5が登場。プレミアム車両としてM26E1のほかロケット砲を装備したM26T99も登場している。

またイタリアツリーにはM26A1とプレミアム車両のM26Arieteが実装されている。

アメリカの戦車としてM26とT26E4、T26E5が登場。

大学選抜チームの主力車両として登場。副隊長のメグミアズミルミが乗り込む車輌も登場する。

擬人化キャラクター(DOLLS)として登場。


関連タグ編集

戦車 アメリカ

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