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重戦車

じゅうせんしゃ

一般的には戦車のうち、大きな車体、重装甲、大型砲搭載など様々な条件により、同時期の自軍戦車の中で相対的に重量の大きい戦車を指す。
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概要編集

第二次世界大戦前から戦後まで存在した戦車の区分。大戦中は大砲の威力と装甲強化のシーソーゲームが激しく、開戦時には40t程度もあれば立派な重戦車といえたが、1944年には70t近くの重戦車が実戦で使用され、188tの超重戦車まで試作されるに至った。


ただ、このような戦車の区分は重量の軽重よりも、「どのような任務で使い」、「その上でどのような武装にするか」を優先することが多かった。


また「重さ」を表現するために比喩として用いられる事も多い。


重戦車の発祥編集

戦間期において戦車の機動力は飛躍的に向上し、回転砲塔の登場で攻撃にも柔軟性が増した。第一次世界大戦時のものとはまったく別の物に進化した戦車だが、向上した性能をどのように組み合わせたものが優れた戦車なのかについては、各国とも模索の途上にあった。


戦間期の主要国は、いくつか異なる型を並行して開発していた。

ソ連とフランスは、そのうち大型で強力なものを、『重戦車』と位置づけた。第二次世界大戦後の教訓では、大型で強力な戦車とは、厚い装甲と強力な砲の組み合わせを意味する。戦車戦を生き延び、敵戦車を撃破する能力である。しかし戦間期、特に1920年代には、敵戦車の脅威が総じて低く見積もられ、移動トーチカとして歩兵を掃討する役割が求められた。

このころの重戦車の主流は、低速と重装甲を組み合わせたものであった。攻撃力、特に装甲貫徹力は、戦中の戦車と比べると軽視された。模索された重戦車の中では、装甲を薄くするかわりに複数の砲を持つ多砲塔戦車が試されたこともあった。


フランスとソ連は、低速・重装甲の重戦車を保有した。

イギリスは歩兵戦車の名で同様の戦車を作った。イタリアはその地形から軽快な戦車を好み、重戦車を開発しなかった。ヴェルサイユ条約で戦車保有を禁じられたドイツは、ヒトラー政権下で戦車の生産と配備を急いだが、機動性を重視した『電撃戦』を想定していたため、低速・重装甲の重戦車は作られなかった。


日本陸軍では、重戦車と多砲塔戦車と同義といっても良かった。しかし、第二次世界大戦が勃発し、多砲塔戦車が廃れてくるのにあわせて、日本における重戦車という区分は形骸化した(例外としてオイ車がある。これは第二次世界大戦中に開発されていた日本の重戦車であったが、上層部の承認も得ずに、予算の横領という形で開発が強行された特殊例である。)。


重戦車の発展編集

大戦前期編集

フランスとソ連は、いずれもドイツ軍の電撃戦で国土を席巻された。

その防衛戦で戦間期型の重戦車は攻撃力不足の欠点を曝け出し、搭載砲の射程距離が短かった大戦初期には機動力の差も決定的であった。個々ばらばらに戦場に登場した重戦車は、軽快なドイツ戦車に接近戦にもちこまれた。また、北アフリカ戦線の開けた砂漠ではイギリスのマチルダ歩兵戦車は対戦車砲に有効な榴弾砲を持たないために、自車の射程範囲外からドイツの88mm高射砲に撃破された。


しかし1941年の独ソ戦初期には重戦車が威力を発揮した。

ソ連のKV-1重戦車は、厚い装甲でドイツ軍の戦車と対戦車砲の攻撃を弾き、怪物と呼ばれた。もっとも、低速で故障が多かったため、激しく動く戦線から取り残されて個別に撃破されたり放棄されたりすることが多かった。この戦車とT-34中戦車は1941年当時ごく少数しかなかったが、ドイツ軍の標準的な対戦車用の装備では歯が立たず、ドイツ軍の進撃を鈍らせる働きをした。それに比べると、軽装甲のソ連戦車は数が多少あっても簡単に撃破された。


T-34ほどのセンセーションではなかったが、アフリカ戦線に登場したアメリカのM4シャーマン中戦車もドイツに危機感を与えた。戦後の評価はT-34より低いが、鋳造車体に75mm砲(のち、より高初速の76mm砲を搭載する)加え、湿式弾庫や車載無線を例外なく採用するM4はT-34に決して劣る存在ではなかった。それまでイギリスの戦車がソ連ほど能力を持たなかったことからII号戦車III号戦車が主体だったドイツ・アフリカ軍団はFlak36・88mm高射砲の水平射撃以外にM4に対抗する手段はなかった。


大戦後期編集

この経験から独ソはバランスのとれた戦車の量産と並行して少数の重戦車の生産した。

大戦中期に登場したドイツ軍のティーガーIは、ドイツ装甲部隊の攻防の正面に立って活躍した。対抗したソ連軍はIS-2重戦車を投入した。ついでドイツ軍がティーガーIIを投入した。西部戦線でもアメリカがM26パーシング重戦車を投入した。ソ連軍がIS-3重戦車を開発したところで戦争は終わった。


また、ドイツではマウスやE-100などの超重戦車も計画・開発されていたが、重量や信頼性の点でおよそ実戦運用に耐えられる様な代物では無かった。


東部戦線で戦車が巨大進化を遂げる一方で、西部戦線では航空機が戦場を支配した。ドイツ重戦車が目覚しい戦果を挙げた場面もあったが、いかなる戦車も航空攻撃には無力であった。

連合国のイギリスの陸軍は、ドイツ重戦車に対抗できる戦車の開発に取り組んだが、そのほとんどが実戦投入される前に、戦争が終結してしまった。


戦後編集

二次世界大戦後、ベルリンで行われた戦勝パレードにおいて公開されたソ連のIS-3に対抗する形で、米英はそれぞれM103ファイティングモンスターコンカラーの開発を進めた。

しかし、本国での使用が考えられない重戦車は攻撃力と比べて輸送に関する制約が大きく、大規模な運用は困難であり有効な戦力とは考えにくかった。さらに最大の利点であった重装甲が火砲と対戦車ミサイルの急速な発展により優位を失っていった。

さらに、120mm砲による攻撃力も105mmライフル砲の登場とそれらを装備したセンチュリオン戦車やM60パットンの登場によって存在意義を失い、重戦車という種別は姿を消し、それまでの中戦車の構想から発展した現代まで続く主力戦車が生まれた。なお、前述のM26パーシングは戦後中戦車にカテゴライズを変更されている。

ちなみに英軍はコンカラーが重すぎて不評だったにもかかわらず、さらに重い主力戦車チーフテンを開発し、現在は世界で一番重いチャレンジャーを配備している。


ソ連軍は戦後しばらくIS-3及びT-10と、T-54/55T-62などの中戦車を並行して開発、配備したが、対西側諸国の技術的優位を失う中で、1970年代にT-64T-72などの主力戦車に一本化した。


中戦車をベースに発達した主力戦車だったが、現在の戦後第三世代以降は120mm口径以上の大型砲と、敵戦車の同級の火砲や対戦車ミサイルに耐えうる重装甲を備え、重量も55~70tに達しており、かつての重戦車に近い形態となっている。かつて19トン弱の三式中戦車さえもてあました(工兵の支援が不可欠だった)日本でさえ90式戦車で50トンである。

エンジンの高出力化などによって十分な機動性は確保されても、路面状況や架橋、輸送などの問題からほとんど運用上の限界に達しており、新戦車開発の停滞の大きな要因となっている。


現在、最新鋭の戦車である10式戦車は、簡単に言うと「90式の能力で10トン軽い」という点が上げられる。もちろんそれ以外のこまごました点では20年分の進化がある。


主な重戦車(戦間期)編集

イギリス編集


フランス編集


ソ連編集


日本編集


主な重戦車(WW2~冷戦期)編集

ドイツ編集

パンター):分類上は中戦車であるが、サイズ・重量とも重戦車といって差し支えない内容になっている。


ソ連編集


アメリカ編集


日本編集


イギリス編集


イタリア編集


フランス編集


関連タグ編集

戦車 軽戦車 中戦車 主力戦車


エレファスゾウカブト:「甲虫王者ムシキング」のショルダーネームが「ビロードの重戦車」。

エドモントニア:「古代王者恐竜キング」でのショルダーネームが「突撃重戦車」

メジロアルダン:二つ名が「重戦車」

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