開発
T-100重戦車はT-35重戦車の後継として試作された多砲塔戦車である。開発の要求は1937年に行われた。この際に、レングラードにある2つの有力な戦車工場であるボリシェビキ工場とS.M.キーロフ工場に対して開発要求が発令された。このうちキーロフ工場直属の設計局でバリコフ技師らによって開発されたのがT-100、ボリシェビキ工場でコーチン技師らによって開発されたのがSMKとKV-1であった。
T-100は最初期の案では76mm砲を搭載する主砲塔の前後に45mm砲副砲塔をピラミッド型に配置した3砲塔戦車だった(これはSMKの初期案でも同様だった)。しかし重量が嵩張ることから2砲塔式に改められた。
ボリシェビキ工場のSMKと同じ要求仕様に基づいて開発されたため、結果的にSMKとT-100は外見や性能はほとんど同じような車両になっていた。しかしボリシェビキ工場が要求仕様を無視した単砲塔重戦車としてKV-1の開発に着手したのに対しキーロフ工場ではそのような車両は製造しなかった。
1939年には両工場の試作車の間で比較試験が始まったが、当初よりKV-1が優勢であった。さらに冬戦争における実戦試験でT-100、SMK、KV-1はフィンランドへ送られるのだが、そこでT-100やKV-1は無難に切り抜けた一方でSMKが行動不能になった挙句大重量のため回収も不可能になり、放棄された車両をフィンランド軍に調査され、そのデータをナチスドイツに送られるという失態を演じてしまう。この一件でSMKのような多砲塔戦車は実用性に難があるという評価が確定してしまい、T-100はSMKの自爆に巻き込まれる形で不採用が決定し、結局要求仕様を無視して開発されたKV-1が新世代重戦車として制式採用されるという、要求仕様に忠実に設計を行い、特にやらかしも犯していないキーロフ工場のチームにとっては解せぬ結末になった。
KV-1の採用が決まった後、T-100シリーズは斜め上のコンセプトでKVシリーズと張り合い続けることになる。
その一つがT-100-Zであり、これはT-100の主砲を76mm砲から152mm榴弾砲を搭載した戦車。武装配置で見れば「副砲塔付きKV-2」という趣の車両であった。
45mm副砲塔を残したまま主砲塔を無理矢理大型化て152mm砲を詰め込んだような車両であり、同時期に開発されていたKV-2と比べても無理のある設計であり、KV-2が完成すると設計段階で開発は中止された。
T-100-zに次いで試作されたオブイェクト103重戦車ではついに副砲塔が廃止され、単一の巨大な砲塔となった。そこに駆逐艦の主砲に使われていた130mm艦載砲を搭載した。装甲はオリジナルのT-100と同じ60mmしかなかった。副砲塔の廃止により重量はT-100から微増程度に抑えていたが、元が元なので機動力も劣悪であった。この13cm砲は長砲身で砲口初速や射程距離も長く、KV-2が搭載していたような152mm榴弾砲と比べてもはるかに強力かつ大重量で、マウスやヤークトティーガーの12.8cm砲に匹敵する性能だった。あまりにもオーバースペックな主砲だが、装甲防御力は最低限のものでしかなかったため、自走沿岸砲台として艦船への攻撃や、遠距離から直接射撃でトーチカを粉砕するというような運用を想定していたという。少なくともモックアップまでは製作されたことが写真記録に残っているが、後述のSU-100Yが優先されたため、実物は製作されなかったらしい。
ちなみに同時期にはKVシリーズの方はKV-3やKV-4などのオブイェクト103に近い重量の超重戦車が開発されていた。これらは主砲が一回り小さい107mmカノン砲だったが、まともな装甲防御力(最厚部で100mm以上)を有していた。
一連の火力極振りシリーズで唯一実物の製造にまで漕ぎつけたのがSU-100Yで、オブイェクト103と同じ130mm砲をケースメイト方式で装備した自走砲である。旋回砲塔を諦めたことで戦闘室内にまともな作業空間を確保していた。装甲は相変わらず60mmしかないが遠距離であれば75mmクラスの砲弾に耐えれたため、遠巻きにトーチカを射撃・粉砕する運用を構想していた。1両だけ製造された試作車が現存し、クビンカ博物館に展示されている。