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SMK

せるげいみろーのびちきーろふひゃっかてんせんしゃ

1939年に製造されたソビエトの多砲塔戦車。1台だけの試作戦車であり、冬戦争が唯一の実践投入であった。
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概要編集

ソ連赤軍が開発した多砲塔戦車である。ソ連内部では装軌式突破駆逐戦車というカテゴリで呼ばれていた。これはスペイン内戦での戦訓である近距離の37mmクラスの対戦車砲、1200m先から発射された野砲弾に耐える装甲を持ち、複数の砲を備えるものである。この戦車を試作するにあたり、コーチン技師率いるレニングラード・キーロフスキー工場はSMK戦車を、ライバルにあたるT-100多砲塔戦車をバリコフ技師率いる185工場が担当した。当初はT-35多砲塔戦車と同じく5砲塔型で設計されたが、多砲塔戦車の効果を疑問視するスターリンの意向により最終的には車体前部45mm砲塔と、中央部76.2mm砲塔の2砲塔式になった。

さらにキーロフスキー工場は単一の砲塔に45mm砲と76.2mm砲を混載した重戦車も試作している。

SMK戦車は1939年1月に製造を開始し、4月30日には完成。7月から試験に用いられていたが、この頃後に冬戦争と呼ばれるフィンランドとの戦争がはじまり、これを機に実戦投入が行われた。

当初の構想通り敵の対戦車砲にも耐え抜いたが、雪だまりにはまり込んだか地雷を踏んだか行動不能となってしまい放棄された。

あまりの重量にフィンランド軍も鹵獲に失敗し、2ヶ月間放置された後にソ連軍がT-28中戦車6両を使って回収に成功。しかし輸送は出来ずブロックごとに溶断されて後送された。

結局のところ同時に開発された単一砲塔型重戦車が本採用となり、不採用に終わった本車はそのままスクラップとして処分されてしまった。


名前の由来編集

名前の由来となったのはキーロフスキー工場の名前の由来でもあるセルゲイ・ミローノヴィチ・キーロフのイニシャル。1934年に暗殺されてしまったが、この黒幕がスターリンとも噂されており、本車が不採用になると見越したコーチンがスターリンと不仲だったと噂されるキーロフの名前をあえて採用したのではとも言われている。


関連イラスト編集

SMK
最前線でプラウダの猛攻を阻止せんとするエリカさん


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多砲塔戦車 冬戦争 赤軍

KV-2:実質的な後継車種。単一砲塔ながら重装甲かつ強力な152mm榴弾砲を備えており、突破戦車としてならこちらのほうが有用だったかもしれない。しかし、重量過多という欠点も同じであった。


追記 この項目の参考文献は雑誌「丸」2002年8月号のタンクバトル第36回「北の大地に擱座した"怪物"」となります。現在では文庫本化されています(タンクバトル3、スターリングラード攻防戦)。詳しくはそちらを参照してください。

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