使い方
オイ車は、満州国国境にあるソ連のトーチカ群の攻略を意図した兵器である。その重量から、分解して輸送することを考慮した設計になっており、目標地点まで鉄道やトラックで輸送してから、組み立てて使用することになっていた。
その武装は、頑強なトーチカを確実に破壊するため150mm榴弾砲を主砲として搭載し、敵トーチカに据えられているであろう重砲に耐えるだけの150mm厚の装甲を備える計画だった。
いわば、一種の攻城砲的な特殊兵器であり、中戦車や砲戦車のような歩兵支援や機動戦を重視した兵器ではなかった。
近年まで資料が少なく様々な憶測や噂が流れていたため、ドイツ軍が開発した超重戦車マウスの影響を受けた、あるいは「本土決戦兵器として開発された」と解説がなされていたこともある。
「試製超重戦車」と呼称される場合もある。
名称について
オイ車には「オイ」車、「ミト」車の二種の呼称があり、それとは別に「100トン戦車」「120トン戦車」「150トン戦車」などとも呼ばれていたが、これは本車の開発が陸軍内でも極秘に進行され情報統制がなされていたが故に、全容を完全に把握できる者が少なかったためである。
このうちオイ車は陸軍側の呼称で、中戦車の三番目で「チハ」車(ハはイロハのハ)と言うように「オ」は「大型戦車」、「イ」はイロハのイで「大型戦車の一番目」という意になる。
なお本車について八九式中戦車を大型化したという説は八九式が「チイ」(中戦車の一番目)ないし「イ号」(陸軍が最初に制式化した戦車)と呼ばれた事から混同されたものと言われる。
ミト車は開発会社である三菱重工内の仮呼称で「三菱」「特殊車両」の略である。
(なお今回の記事の底本としてFM社の『150トン超重戦車「オイ」』の実車解説を使っている。
同解説の元は三菱内の開発日誌を元としているので、おそらく現状安易に入手できる資料では最も信頼できるものと思われる。)
車両について
オイ車はいわゆる多砲塔戦車で、車体中央部に主砲塔一基 前部に副砲塔二基 後部に銃塔一基の四基の砲塔を搭載する予定で(後述の通り砲塔部は未完成)、エンジンは八〇〇馬力の航空機用エンジンを二基搭載、後輪駆動でブレーキ、クラッチは油圧式(緊急時にそなえ人力操作もあり)、乗員は11名と言われている。
異質な開発経緯
本車には他の超重戦車にはない特異な点が2つある。
一つは先述した通り、組み立て分解を前提に作られていたことであるが、問題はもう一つの点にある。
それは、一介の将校が立場を悪用して、事実上の予算横領を行い開発を進めてしまったとされる点である。
本車の開発を命じたとされる岩畔豪雄大佐は1939年当時戦車研究委員会の構成員であり、軍務局軍事課課長として機密費を用いることができる立場であった。
軽い戦車を多量に揃えるという軍の方針に反発し、極秘裏に開発を命じたとされる。
オイ車はこれまで戦車部隊関係者たちの開発や運用のノウハウを無視して作られた兵器であり、太平洋戦争の真っ只中に開発が断行されたため、開発部署の混乱や貴重なリソースの浪費を招いた。
事実開発責任者となった陸軍技術本部の原乙実生氏は「極秘扱いで運用上の検討や技術上の総意もない」と語っている。
また岩畔大佐が日米交渉のために渡米してからは製図要員が削減され、三菱側の製造の遅延を招いたとされる。
開発経過
昭和16年4月14日:陸軍技術本部(技本)より三菱重工に「特殊車両」の開発を内示
同15日:技本より最初の図面が送られる
同16日:三菱重工業東京機器製作所にて開発開始、完成は7月末とする
5月26日:三菱側より陸軍に希望完成納期を翌1月31日に変更してほしいと申し出るが、納期は10月31日とされる
11月8日時点での未完成部品は361点、工期は10日の遅れとされた
昭和17年2月1日:車体の重量計測。砲塔や武器弾薬、人員および燃料を除いた状態で96トン
同2月8日:車体の組立(ほぼ)完了
2月9日:陸軍関係者視察
3月2日:台上運転開始
4月13日:初地上運転(防諜上のため夜間工場前にて行われた)
5月14日:砲塔製作内示(最終的に砲塔はモックアップのみ完成)
7月15日:陸軍側関係者を招き供覧試験
昭和18年1月18日:相模造兵廠よりミト車の引取命令
5月26日:三菱重工より輸送するため分解作業開始
5月31日:分解作業完了
6月7日~9日:車箱(車両本体)相模造兵廠へ移送
6月28日:再組立開始
7月21日:組立作業終了
8月1日:相模造兵廠内にて供覧試験。この時軟弱地面のため足回りが損傷、転輪一部脱落、起動輪破断。その後の考察で足回りの強度不足が指摘され再設計の要ありとされる
8月10日:破損状態の視察会、作業の一時終了。開発日誌の記載はここで終了
その後は造兵廠内にて保管、昭和19年に解体され設計図等も焼却されたと言われている。
なおこのオイ車のものとされる幅800ミリピッチ300ミリのキャタピラが静岡県の若獅子神社(陸軍少年戦車兵学校跡)に献納されているが、献納者不明であり詳細は不明。
世界最大の戦車
オイ車は全長10.12m全幅4.20mで、これはドイツの超重戦車マウスの全長10.085m(車体長9.034m)全幅3.670mを上回る。なお現在までに実用化された(実戦投入可能)戦車で世界最大はフランスのシャール2Cの全長10.27m(車体長同じ)幅3mで全長ではわずかに足りず幅では大きく上回っている。重量ではマウスの188tを下回る150t(予定)だが、足回り等の改修強化が行われたならばあるいはそれを上回り世界最大の戦車となったかもしれない。
ただしすでに多砲塔戦車は時代遅れとなっており、武装もマウスの12.8cm砲(55口径)に比べて大きく見劣りしておりまたマウスがベルリン戦に「出撃」(ただし機械故障で戦場までたどりつけず)したことを考えると、走行試験で終わってしまったのはやはり当時の日本の技術的限界だったのかもしれない。
オイ車の全容解明までのいきさつ
かつてオイ車に関する資料は皆無であり、開発関係者の記憶頼りだったため、その全容は不明だった。(陸軍関係者ですら「そのような噂を聞いたことがある」程度だったであることも少なくなかった。)
ところが、近年オイ車の図面や仕様書、試作車の報告書や作業日誌が発見、古書市場に出品され、軍用車両の研究家で知られる精密模型メーカー「ファインモールド」社がこれを購入、後の東京ビッグサイトで行われた全日本模型ホビーショーで、1/72スケールキットとしてオイ車の模型を出品、販売も決定した。この時同社ブースでは「極秘」の判が押してあるこの資料の一部も展示された。
その結果、従来オイ車の計画とされてきた「100トン戦車」「120トン戦車」は「実際に走行試験を行なった、薄い装甲を用いた計画よりも軽い重量100トンで製作された試作車」の事であり、計画としてあったのは「150トン戦車」のみであったことが判明。武装なども従来説とは異なる事が判明した。
設計・諸元
全長 | 10.12m |
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全幅 | 4.20m |
全高 | 3.63m |
装甲厚(予定) | 前面75+75mm、側面35+35mm |
主砲(未搭載につき予定) | 九六式十五糎榴弾砲(150mm)1門 |
副砲(未搭載につき予定) | 軽砲(詳細不明)2門 |
銃塔(未搭載につき予定) | 九七式車載重機関銃(7.7mm)2門 |
登場作品
- World of Tanks
詳細な設計・寸法などが判明したことをきっかけにWorld of Tanksへ日本重戦車として実装。ゲームの仕様上何種類も同系列の戦車が必要だったため、「100トンの試作型(O-I Experiment)」「計画されていた150トンの武装型(O-I)」に加え、「従来説の100トン戦車(O-Ni)」「従来説の120トン戦車(O-Ho)」も同時に実装されている。
更にその先には海軍から提供されたとされる砲(14センチ砲及び15センチ砲)を搭載した戦車(Type4Heavy・Type5Heavy)も実装されている。ただしこちらは全くの架空車両である。Tier9及びTier10に空白が出来てしまうために数合わせでWG側が想像したと思われる。
大日本帝国勝利ルートの隠し兵器「試製超重戦車オイ」として登場。
- 超戦車イカヅチ前進せよ!/鋼鉄の雷鳴
官能小説家の睦月影郎が「奈良谷隆」名義で発表した架空戦記。前者は1995年発表当時のタイトル、後者は2005年再販時のタイトル。
作中でのオイ車は「イカヅチ号」という愛称が与えられている。
オイ車の実態が明らかになる前の作品であるため、主砲が九二式十糎加濃砲、重量120tと計画上のオイ車よりややスケールダウンしている部分があるほか、敵戦車を迎撃する移動トーチカとして開発された、東条英機が開発を主導したなどのオリジナル要素もある。
また超重戦車マウスとは事実上の兄弟機という設定であり、終盤ではマウスと直接対決する。