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電撃戦

でんげきせん

戦車や砲兵、航空戦力などの緊密な連携により迅速に展開される攻勢の俗称。そこに着想した運用理論を指すこともある。ナチス・ドイツのフランス侵攻が最も有名。
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解説編集

 電撃戦は、戦車砲兵、航空戦力などの緊密な連携により迅速に展開される攻勢の俗称。原語のドイツ語表記はBlitzkrieg(ブリッツクリーク)。


 第二次世界大戦初期の1940年5月から6月にかけて、ドイツ軍が快進撃により約1か月で英仏連合軍を打ち破り勝利したフランス侵攻が特に有名となっている。


 なお、日本語圏では迅速な機動戦、中でも敵の支配地における快進撃ぶりが時代を問わず電撃戦と称される傾向にある。

「電撃戦」と呼ばれる戦い編集


非公式呼称編集

 誤解されることも多いが、電撃戦はドイツ軍における公式な作戦名ではない。


 この語は戦中に独軍部やナチスがプロパガンダに用い、また英米のマスコミがフランス侵攻におけるドイツ軍の勝利をセンセーショナルに喧伝したことで広く使用されるようになった。

 実際、戦後に回顧録などを執筆したグデーリアンやマンシュタインはこの語をほとんど用いていなかったりする。

 あくまでも俗称という点には留意すべきだろう。


ナチス・ドイツのフランス侵攻編集

計画編集

エーリッヒ・フォン・マンシュタイン

 ドイツによるフランス侵攻の計画は、当初においては古典的かつ保守的、悪く言えば無難なものとなっていたのだが、これに一石を投じたのがエーリヒ・フォン・マンシュタイン中将。

 ハインツ・グデーリアン中将の提案を採り、敵の後方を狙う新たな計画・通称「マンシュタイン計画」を立案したが、陸軍総司令部はこれを前例が無くハイリスクと判断し却下、マンシュタインは左遷されることとなってしまう。


 しかし、マンシュタインの部下たちは計画をアドルフ・ヒトラーに直接提案。これを有用と判断したドイツ総統の一声によって、マンシュタイン計画は正式に採用が決定した。

 ただし、計画はハルダー大将によって大幅に修正が加えられ、最終的にはかなり保守的なものに逆戻りしている。

実行編集

エルウィン・ロンメル

 5月9日、計画始動。ベネルクスとフランスに対する大規模侵攻が開始された。


 この際、グデーリアンやロンメルをはじめとする装甲部隊の指揮官らはハルダー修正版の計画をガン無視しつつ、マンシュタインの意向を忠実に遂行した。

 装甲部隊は連携や補給を気に留めないまま速度重視で前進し、フランス軍の後方まで急速に突出。

 この迅速な進撃に加え、ルフトヴァッフェ(ドイツ空軍)と空挺部隊による多角的な攻撃を受けた英仏連合軍の指揮系統は大いに混乱し、多くの部隊が戦わずして潰走した。


 ドイツ軍上層部もあまりの進撃速度に戸惑い、補給や反撃などの懸念点から停止命令を出そうとするが、ルントシュテット上級大将がこれを阻止。ドイツの快進撃は続いた。

停止編集

砂漠の女王(歩兵戦車マチルダ)

 5月21日、アラスにて連合軍が大規模反撃を敢行。(アラスの戦い

 重装甲のマチルダII歩兵戦車を擁する英仏軍がドイツ軍に大きな損害を与え、最終的には8.8cm高射砲の活躍もあって撃退されたが、この反撃を受けてドイツ軍上層部とヒトラーは大規模反攻を懸念し、22日には進撃停止の命令が出された。


 さすがのルントシュテットもヒトラーの命令を無視するわけには行かず、装甲部隊は一旦停止することとなったが、この隙に連合軍はドイツの包囲下にあったダンケルクよりイギリスへの大規模撤退を展開。(ダイナモ作戦

 これは大成功を収め、ドイツの魔の手から33万人もの兵士が救われたことから『ダンケルクの奇跡』とも呼ばれた。

顛末編集

 フランス侵攻は全体的にドイツ側が状況を有利に展開したことが明らかであり、ドイツ軍はこの成功によって国内外から大いに讃えられ、また恐れられた。


 一方、あまりにも急速な進撃で生じていた補給体制の半壊という事実をドイツはほとんど無視。

 その結果、後の独ソ戦緒戦において致命的な敗因が招かれることとなる。


フランス侵攻に投入された主要なドイツ兵器編集

戦車・装甲戦闘車両編集

  • I号戦車(523輌):数は多いものの、武装が機銃のみのため戦車戦は事実上不可能だった。
  • II号戦車(955輌):最多だが、武装が機関砲のため戦車戦での運用は困難だった。
  • III号戦車(349輌):本来なら数的主力となる予定だった。
  • IV号戦車(278輌):
  • III号突撃砲(30輌):初の実戦投入となったフランス戦で有用性が証明され、量産も本格化した。
  • 35(t)戦車(106輌):
  • 38(t)戦車(228輌):

航空機編集

火砲編集


理論としての電撃戦編集

 「電撃戦」という概念は単に俗称でしかないが、一方でフランス侵攻における快進撃の軍事史的な価値は揺るぎないものであった。

 中でも特に注目されたのが現場指揮官による独断行動

 ドイツ軍は常に現場単位で独自に次の行動を決定していたため、上級司令部へ都度の上申を基本としていた英仏連合軍よりも意思決定の速度で圧倒的に優越していた。

 この状況を自軍のパニックを防ぎつつ実現するため現場の権限を拡大し、一方で上級司令部からの指示はより大雑把として細部を現場に一任することで、敵に物理的のみならず思考の速度で優越しようと試みるのが機略戦(Maneuver Warfare)理論である。

 また、フランス侵攻においては軽視されざるを得なかった部隊間の連携については、発達した通信技術の恩恵を現場単位で従前に活用することで、意思決定速度を維持しながら連携を確保するネットワーク中枢戦(Network Centric Warfare)が構想された。


 これらが戦場において最適に実施された場合、強力な機甲部隊とこれに随伴できる機械化歩兵、軍中央に頼らず的確な判断を行える現地司令官、絶え間ない補給近接航空支援を可能とする航空部隊等々を一挙に内包する諸兵科連合のポテンシャルが現場指揮官によって自在に活用され、かつての電撃戦すらも凌駕する強大な戦術的優位性が確立されることとなるのだ。


余談編集

  • フランス侵攻におけるドイツ戦車

 意外に思われるかもしれないが、実はフランス戦当時のドイツ戦車はそこまで高性能ではなく、特に砲火力の不足は深刻なレベルにあった。

 実際、英マチルダIIや仏B1bisといった戦車はその防御力でもって全ドイツ戦車の砲火力を半ば完封しており、真っ向勝負ではほとんど勝ち目が無かった。


 一方、ドイツ戦車は英仏戦車よりも充実した無線機器を備えており、これが活かされた場合の戦術的な連携能力はずば抜けて優秀で、結果として大きな性能差にもかかわらず、ドイツ装甲部隊は最終的な勝利を収めた。


関連タグ編集

ナチス ドイツ国防軍

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