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電撃戦

でんげきせん

電撃戦とは、ナチス・ドイツによるフランス侵攻の直後に存在が仄めかされ始めた架空の新戦術、もしくはそこに着想した運用理論のこと。
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名称編集

行動の迅速さを比喩するに当たって「電撃」と表現することは歴史的にも頻繁に行われてきたことであるが、「電撃戦」という用語が定着する直接の原因は、第二次世界大戦緒戦において、イギリスがドイツによる戦略爆撃行為を"Blitz"(稲妻)と形容したことにあると言われている。つまりドイツ発祥の用語ですら無い


これを伝え聞いていたドイツのマスコミが、極めて迅速に行われたフランス侵攻を称賛するに当たって作り出したのがBlitzkriegという表現である。

このように電撃戦とはドイツ軍が使用していた作戦名ではなく、(少なくとも独軍上層部においては)そのような作戦構想が意図的に行使されたことはない。

軍やナチス党もプロパガンダとしてこの風説に乗っかったことはあるようだが、独ソ戦が膠着するとむしろ電撃戦のスマートなイメージは疎まれるようになった。


日本ではBlitzkriegは電光戦、稲妻戦ではなく「電撃戦」と訳され、ドイツのフランス戦や、ソ連戦当初の快進撃ぶりの印象の強さからか、機動戦、中でも敵支配地における快進撃ぶりを時代を問わず電撃戦と称する傾向にある。


ナチス・ドイツのフランス侵攻編集

計画編集

フランス侵攻の主力となるA軍集団の参謀長エーリヒ・フォン・マンシュタイン中将は、A軍集団司令官であるゲルト・フォン・ルントシュテット上級大将の下で新たなフランス侵攻計画を練ることとなるが、当初は古典的な包囲殲滅志向が窺えるものであった。

だがちょうど近くのホテルに泊まっていた第19装甲軍団長ハインツ・グデーリアン中将にこの作戦を見せたところ、彼はより後方へ進出することにより補給線を脅かす戦術を提案する。

当初マンシュタインは逆包囲の危険からこの戦術に難色を示したが、議論の末に計画は完成した。


しかしながらマンシュタインは、依然としてこの作戦を古典的作戦として偽装、グデーリアンの名前も隠した上で陸軍総司令部に提案した。グデーリアンが当時の陸軍において有名な問題児であり、その作戦が斬新すぎて拒否反応を示されそうだと考えたためである。


それでも総司令部は彼の提案を拒絶、マンシュタインは政争に敗北しA軍集団参謀長から左遷されてしまうが、マンシュタインの部下らがドイツ総統アドルフ・ヒトラーに直訴、その作戦の概要を聞いたヒトラーは(半分も理解できてはいなかったが)計画を採用、鶴の一声によりフランス侵攻は大幅な修正を余儀なくされた。

しかしながら古典派の軍人でありマンシュタインが大嫌いなドイツ陸軍参謀総長フランツ・ハルダー大将は、彼の作戦を更に大幅修正、結局当初の斬新さをほとんど削ぎ取られたカビ臭い作戦に、グデーリアンは大変失望したという。


実行編集

かくして5月9日、作戦が指導すると、A軍集団隷下、グデーリアンを始めとする各装甲部隊指揮官たちはマンシュタインの遺志(死んでないけど)を忠実に遂行し、ハルダーの作戦計画は当然のようにガン無視された。

装甲部隊はいわゆる諸兵科連合としての直協や隣の味方との連携すら軽視、直属の歩兵部隊すらもしばしば置き去りになり、装甲部隊同士でも資材や進行ルートを奪い合いながら速度だけを追求して遮二無二前進し続けた


この常軌を逸したハチャメチャな前進速度は当時の軍事常識を遥かに超えるものとなった。連合軍(特にフランス軍)の指揮系統が時代遅れだったこともあり、装甲部隊はフランス軍の現場報告を上回る速度で軍主力の後方まで突き進み、連合軍の多くがパニックから戦わずして潰走することとなった。


そしてドイツ軍上層部は連合側と大差ないパニックぶりであり、度々停止命令を出そうとするが、ルントシュテットがあの手この手で停止命令をもみ消し、あるいは現場部隊が無線の故障などによりごまかしながら前進速度を維持した。


無論この速度には、Ju87による爆撃作戦や、空挺部隊による後方への奇襲攻撃も大きく貢献している。

彼らはお互いに示し合わせて緊密に連携を取ったわけではないが、同時多発的に多方面で発生した攻撃は連合軍の混乱を更に加速させることとなる。


停止編集

5月21、アラスの戦いと呼ばれる連合軍による反撃が発生する。

これはドイツ軍の突出部側面に対して英仏三個師団がマチルダⅠ、マチルダⅡを擁する一個戦車旅団の支援を受けて行ったものであり、ドイツ側はマチルダⅡに対して戦車、対戦車砲が歯が立たず突破され、88㎜高射砲と空軍のJu87の支援も受け、37両の戦車を失い、750名の死傷者・捕虜を出しながらも、相手には戦車74両撃破、500名の死傷者・捕虜の損害を与えて漸く撃退したものであった。

全体から見ればこの反撃自体の戦果は少なく、装甲部隊に痛打を与えるものではなかったが、矢面に立たされた第7装甲師団長エルヴィン・ロンメル少将は五個師団に攻撃されたと騒ぎ、また作戦以来初めて遭遇した統制の取れた反撃行動に、装甲部隊の猛進でがら空きとなっている側面に元々不安を抱いていたドイツ軍上層部はもとよりヒトラーですら衝撃を受けて22日には停止命令が下された。

ルントシュテットもこれが敵の猛反撃の前兆ではないかと予想してしまったため、停止命令を現場に伝達、流石に総統名義の命令ともなれば無視するわけにも行かず、各装甲部隊はアラスで一旦体制を整えることとなる。


この停止命令により連合軍もまた体制を整える貴重な時間を得ることができ、ダンケルクの奇跡としばしば讃えられるダイナモ作戦につながることとなる。


またドイツ軍はこの成功体験に縛られて分析を怠ったため、装甲部隊の補給状況が限界に達しつつあったことに気付けなかった。

フランス侵攻のスケールでは大きな問題とならなかったが、広大な縦深を確保できるソ連相手にはこの補給限界が致命的に足を引っ張ることになる。


理論としての電撃戦編集

「電撃戦」なる概念が運用理論としての体裁をなしていないのは上述のとおりであるが、フランス侵攻における快進撃の軍事史的な価値は揺るぎないものであった。


特に注目されたのが現場指揮官による独断行動である。

ドイツ軍は常に現場単位で独自に次の行動を決定していたため、いちいち上級司令部まで上申していた連合軍よりも意思決定の速度で圧倒的に優越していた。


この状況を自分たちがパニックになること無く実現するため、現場の権限を拡大し、一方で上級司令部から指示はより大雑把で細部を現場に一任することで、敵に物理的のみならず思考の速度で優越しようと試みるのが機略戦(Maneuver Warfare)理論である。


一方でフランス侵攻においては軽視せざるを得なかった部隊間の連携について、発達した通信技術の恩恵を現場単位で従前に活用することで、意思決定速度を維持しながら連携を確保するネットワーク中心の戦い(Network Centric Warfare)が構想された。

これにより強力な機甲部隊とこれに随伴できる機会化歩兵、軍中央に頼らず的確な判断を行える現地司令官、絶え間ない補給近接航空支援を行える航空部隊による諸兵科連合のポテンシャルを、現場指揮官が自在に活用することが可能になった。


関連編集

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ドイツ軍

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