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ゲルト・フォン・ルントシュテット

げるとふぉんるんとしゅてっと

ドイツ国防軍の元帥

経歴

1875年12月12日、カール・ルドルフ・ゲルト・フォン・ルントシュテットはプロイセン王国ザクセン州アッシャースレベンにて生を受ける。

プロイセン王国高級士官学校、第83歩兵連隊副官、義和団の乱鎮圧遠征部隊、プロイセン陸軍大学、プロイセン参謀本部、第11軍団参謀、第171歩兵連隊中隊長などを経て、第一次世界大戦では第22予備歩兵師団参謀、ベルギー軍政本部、オスマン帝国軍事顧問、第86歩兵師団参謀長、ポーランド軍政本部、第53軍団参謀長、第15軍団参謀長を歴任し、大戦集結時は参謀本部の少佐であった。

ヴァイマル共和国陸軍に残り、第3騎兵師団参謀長、第2軍管区・第二歩兵師団参謀長、第18歩兵連隊長、第2騎兵師団長、第3軍管区・第三歩兵師団長、第1集団司令官、第2軍司令官を歴任。スデーテンラント進駐の指揮を執り、1938年10月31日に軍を上級大将として退役した。

1939年5月、軍に復帰し第二次世界大戦の幕開けとなった9月からのポーランド戦では南欧軍集団司令官となる。ポーランド戦後は東方総軍司令官。

10月、フランス戦にドイツ軍が備える中、A軍集団司令官となり、1940年5月からのフランス戦に参加。

7月19日、元帥となる。

1941年6月からのソ連侵攻作戦「バルバロッサ」では南方軍集団司令官として参加し、7月のキエフ戦で勝利するも11月27日からのロストフ戦で第1装甲軍の撤退をヒトラーの命令を無視して認めた為に12月に罷免される。

1942年3月、パリに司令部を置く西方総軍の司令官として復帰。

1944年6月6日、連合軍がフランスのノルマンディーに上陸。西方総軍の指揮を執るも7月2日、ヒトラーに解任される。

7月、ヒトラー暗殺未遂事件に加担した者達を名誉法廷の一員として不名誉除隊させる。

9月、西方総軍司令官に復帰。

1945年3月9日、ヒトラーにより罷免される。

5月1日、米軍の捕虜となる。

ニュルンベルク裁判にかけれれるも高齢の為に裁判中も何度も心臓発作を起こし、1949年5月5日にそれを理由に釈放される。

1953年2月24日、ハノーファーで死去。

逸話

ズデーテンラント進駐に参謀総長ルートヴィヒ・べック上級大将と共に連名で反対する内容の文書をヒトラーに送ったり、ブロンベルク解任事件で陸軍総司令官ヴェルナー・フリッチュ上級大将の後任にナチス派のヴァルター・フォン・ライヘナウ大将が就任しそうになった折にはヒトラーに直談判して取りやめさせたり、ヒトラーのロストフ死守命令を無視して後退させたり、ノルマンディーの敗勢に戦争をやめるようにヒトラーに意見するなどヒトラーに諫言できる数少ない将軍の一人であった。
彼の参謀長を務めたエーリヒ・フォン・マンシュタインはルントシュテットを古武士のような人物として評価し、その魅力にヒトラーも愛着を抱き、二度も罷免しながらも復帰を許したのだろうと分析している。

ドイツ国防軍の長老格であり、「最後のチュートンの騎士」と呼ばれた。
敵国側である連合軍最高司令官ドワイト・アイゼンハワー、軍事学者リデル・ハートも優れた将軍としてルントシュテットを評価したという。

良くも悪くも保守的であり、ヒトラーをボヘミアの伍長と内心見下すような気位の高さもあったといわれるが、ハインツ・グデーリアンの装甲戦術を全面的では無いながらも受け入れたり、マンシュタインなどの優秀な参謀を使いこなすなどの器量は持ち合わせていたという。

フランスへの連合軍侵攻に対しては部下であるエルヴィン・ロンメルが主張した連合軍の物量とその航空兵力の脅威を考慮した機動予備である装甲兵力も含む予備兵力全てを海岸線近くに布陣させての水際撃滅案に対して、連合軍が上陸してから機動予備である装甲兵力を結集してまだ脆弱であろう橋頭保を叩く案を主張した。
また英仏海峡が狭く上陸に容易で空軍の支援が受けやすいパ・ド・カレーが連合軍上陸地点と予想していた。
意見が対立し、優秀な師団長レベルと見ていたロンメルではあったが、期待もしていたらしく彼がノルマンディーでの戦傷により若くして戦死(事実は自決)した折にはショックを受けていたといわれ、彼の国葬には総統代理として弔辞を読んでいる。

ヒトラー暗殺未遂事件後、疑心暗鬼となったヒトラーは軍への権限を強め、その状況に「私が自由に命令できるのは部屋の前の歩哨ぐらいだ」といった内容をぼやいたという。

推理小説が好きで、特にアガサ・クリスティーの作品を好んだという。

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