生没年 1890年~1957年
ヘッセン州ブライテナウの下級役人の子として生まれる。
1910年に士官候補生となり、第一次世界大戦にも参加したが、戦時中に赤痢で入院しているなど後方勤務が主体であった。終戦時は大尉。
ワイマール共和国軍に残り、教官職などを歴任するが出世は遅く、少佐になったのは1933年になってからであった(もっとも翌年に生まれたエルヴィン・ロンメルも少佐になったのがパウルスと同じ年なので極端に遅いわけではない)。
しかし1935年にアドルフ・ヒトラー総統が再軍備を宣言すると、同年大佐となり、1939年の第二次世界大戦開戦時には第10軍参謀長(少将)となっていた。
その後ポーランド、フランス侵攻戦での功が認められ、1940年9月に参謀本部第1部長となり参謀本部のナンバー3に上った。1941年6月から始まったバルバロッサ作戦では作戦立案にあたった。
42年1月大将に昇進するとともに古巣である第10軍を改組した第6軍の司令官に就任した。参謀将校としてのキャリアが主であったパウルスの軍司令官就任には反対も多かったが、5月に起きた第2次ハリコフ攻防戦で戦功をあげ、批判を封じることができた。
8月からスターリングラード攻略の指揮を執ったが、ソ連軍も死守を図ったことから攻略は遅々として進まなかった。そして11月にソ連軍の反攻作戦が始まり、パウルスを含めた第6軍30万の将兵はスターリングラードに包囲された。解囲作戦の司令官であるエーリヒ・フォン・マンシュタイン元帥はスターリングラードの放棄と脱出を指示したが、ヒトラーからの死守命令に固執したため脱出命令に従うことを拒否した。
43年1月上級大将、次いで30日に元帥となったがこれは「ドイツの元帥で降伏した者はいない」という故実に沿ったものであり、降伏するぐらいなら死ねということであったが、翌31日ソ連軍に降伏した。
降伏後は「自由ドイツ国民委員会」「ドイツ将校同盟」といった反ナチ組織に参加し、戦後は東ドイツに移住した。妻子もいたが、フリードリヒの降伏後にダッハウ強制収容所へ送られ、戦後は西ドイツで生活したため会うことはなかったという。
捕虜になってからはヨシフ・スターリンにドイツ人捕虜による反ナチ義勇軍「ドイツ解放軍」の結成を提案したりするなど立場を翻意された事が、後に評価が分かれるきっかけとなっている。ニュルンベルク裁判ではソ連側の意向を重視した発言を行い、ヘルマン・ゲーリングからも罵倒されたという。戦後になっても東ドイツ主導のドイツ統一を主張するなど共産主義に染まりきっていたため、かつての同僚達からは嫌われ、フランツ・ハルダー将軍は「裏切者の共産主義者」との罵倒を残している。